熊本熊的日常

日常生活についての雑記

2011年10月28日 | Weblog
137億年前の宇宙誕生以来、原子の数は増えてもいなければ減ってもいないという。結合し、分解し、改めて結合し、また分解し、というような具合に繰り返しているだけなのだそうだ。全ての物質はそうした原子の結合によってできている。尤も、原子を肉眼で見る事は出来ない。人の頭髪の直径は原子30万個分で、つまり肉眼で見えるようになるには10万個程度は集まる必要がある。原子の構造は原子核とその周囲を周回する電子から成り立つが、原子核と電子の間には何もない。この何もない空間が原子の体積の99.99…%を占める。つまり、空間を集積することで物質が出来上がる。ということは、物質は見た目ほどに確かなものではなく、実体は空であるとも言える。勿論、100%空というわけではないので、こうしてなんとなく我々が生きていると感じている世界が存在しているわけである。

原子はいきなり何か具体的なものを構成するのではなく、元素という形態にまとまり、それらが組み合わされて様々な物質になる。原子を構成する原子核は陽子と中性子からなり、つまり、原子核の構造と電子の組み合わせにより、様々な元素が構成されることになる。現在のところ112種類の元素に対し国際純正・応用化学連合が名称を付与している。人体はその約7割が水、H2Oだ。Hは水素、すなわち最も単純な形態の元素である。最も単純ということは最も軽いということでもある。逆に重い元素の例としては、近頃よく話題になるプルトニウムがある。

ちなみに、平均的な人体は7,000𥝱個の原子で成り立っているのだという。数の単位は一十百千万…と大きくなり、𥝱というのは10の24乗だ。つまり7掛ける10の27乗個の原子が自分の姿で、その99.99…%は空間に過ぎない。殆ど空間なので、7,000𥝱という途方も無い数の原子が集まったところで、この程度のものなのである。そう考えると、自分自身も、あれこれ次から次へとしょうもないことが起こる世界の様子も、ふらふらとしたものであることが納得できる。世の中はあまねくふらふらと頼りないということを、おそらく暗黙知として身に備えているから、人はその頼りなさや不安を払拭すべく、我欲の満足を追い求めるのだろう。つまり、自分が外部に対して働きかけ、その反応を確認するという作業を生涯に亘って繰り返すのである。不安が強いほど、働きかけは熱心になるのが自然というものだろう。結果として、人の行動はわかりやすいものに向かう。それが権力やその表現形としての財力や富と呼ばれるものを求めることになるのだろう。しかし、どれほど富を集めてみたところで、それは永久に自分自身にはならない。自分の傍らにあっても、自分の外部であることに変わりはない。所有あるいは所有権というのは単なる約束事であって、何の存在根拠もない。人は、例えば火葬すれば気化できるものは大気のなかに拡散し、残りは灰になる。土葬すれば朽ち果てる。大気中に拡散したものも、灰になったものも、朽ち果てたものも、原子に分解されて、やがて何か別のものを構成することになる。

所詮はたいした実体のないものなのだから、そのささやかな実体を誇張しようとあくせくするよりも、互いに助け合って気持ちよく限りある人生を楽しめばよさそうなものだと思うのだが、そうならないのも不安が強い所為なのだろう。幻のような人たちが、幻に怯えて右往左往するというのが世の中のほんとうの現実なのかもしれない。