熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「もしもぼくらが木を失ったら(原題:If a Tree Falls)」

2011年10月19日 | Weblog
土曜日の夜、映像翻訳を勉強していた時のクラスメイトのなかで、私を含めて5人で集まって旧交を温めた。学校に通っていたのは2003年から2004年にかけてで、その後、映像翻訳者として生計を立てている人が何人かいるらしい。この5人のなかにもそういう人がいる。「もしもぼくらが木を失ったら」は彼が字幕を作った作品だ。この作品は「エコテロリスト」として話題になった環境保護団体ELF(Earth Liberation Front)を追ったドキュメンタリーで、今年の東京国際映画祭の上映作品である。

環境問題には正解が無い。地球上の資源は有限だ。新たに生成されるものはいくらもあるが、現状は消費されるほうが遥かに多い資源が殆どだろう。だから無闇に消費するのではなく、再生可能性を考慮しながら活用することが必要だ。それはその通りなのだが、生成から消費に至るサイクルに不明瞭なところがまだまだたくさんある。消費に関しては人間が意識的に行っている行為なので、かなりはっきりしているのだが、自然が資源となっている物質を生み出す仕組みには解明されていないことのほうが多いのではないだろうか。つまり、環境問題というのは、よくわかっていないことをわからないままに議論していることが多いのである。

もちろん、空気や水を汚染すると、そこで暮らす生物に危害が及ぶということは明瞭だ。しかし、生物が環境に対して影響を与えずに生きることはできない。例えば、人は呼吸をする。酸素を消費して二酸化炭素を吐き出している。二酸化炭素はありふれた物質だが、地球温暖化の最大の原因とされていて、国際的に排出規制の対象となっている。人は食事をする。動植物を消費して糞尿を排出する。食料となる植物を生産するために森林を開拓して農場にしたり、動物を大量に捕獲すれば、生態系に影響が出る。環境問題を語る人間自身が環境問題の脅威であることに、本人が気付いているのかいないのか知らないが、そういうことなのである。

今、この国で最も注目を集めている環境問題は放射能だろう。福島での原発事故により、その周辺は人の生活が成り立たない状況になっている。事故から半年以上が過ぎ、被災地以外の人々の間では事故の記憶は薄れつつあるだろう。しかし、予想されていたことではあるが、被災地周辺では動植物の奇形が増えているらしい。農産物の産地では収穫した作物の放射性物質検査に追われているようだが、作物単体の問題ではなく、食物連鎖のなかで人間にどのような影響が出るのかということは、おそらく個別具体的な現象が現れてみないとわからないだろう。今生活している人には何もなくとも、次の世代に異常が現れる、というような影響の発現もあるのかもしれないし、もっと長い時間が経って現れることもあるのかもしれない。

厄介なのは、放射性物質単独の影響だけでなく、それ以前から我々の生活のなかに蔓延している化学物質の影響との相互作用によって、予想外の異常が発現するという可能性だろう。そうなると、因果関係の立証など不可能だろうから、よほど大量にそうした異常が発生しない限り、異常によって被害を受けた人が公的な救済を受けることができないという事態になるのは容易に想像がつく。過去の公害問題を振り返れば、異常発生の初期においては、発生の原因となることに関わる当事者は公的組織を含め一様に責任を認めないものである。認めざるを得ない状況になる頃には被害が大きく広がっているのである。それが、因果関係不明ともなれば、電力会社は勿論のこと、政府だって動かないだろう。

先日、稲刈りにお邪魔した流山の農家の人は、「放射能より怖いのは化学物質のほうなんだけど、誰も何も言わないねぇ」と呆れたというような調子で語っていた。原発事故を機に、放射能だけでなく環境汚染全体が改めて見直されるかと期待していたのだそうだ。レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を世に出したのは私が生まれた年だ。あれから約半世紀。環境問題の本質に何事か変化があっただろうか。間違いなく言えるのは、エコテロリズムは何の解決にも結びつかないということだ。