東洋文庫ミュージアムを訪れた。今日が開館日である。美術館や博物館の類の開館日にそこを訪れるというのは初めての経験だ。おそらく関係者の間ではオープニングセレモニーがあったのだろうが、私が訪れたときは、今日が開館というような特別な日であることを窺わせるのは、入ってすぐのところにあるミュージアムショップに蘭の鉢植えがたくさん並んでいることくらいだ。平日の日中という所為もあるのだろうが、館内は何事も無いかのように静かだ。そもそも平日の昼間の美術館や博物館は空いている。財団法人とはいえ、せっかくの開館なのだから、もう少し華やかなものがあってもよいのではと思う私は低俗だろうか。
展示物は適当な間隔で入れ替えるのだろうが、今展示されているもののなかで面白いと思ったのはマルコ・ポーロの「東方見聞録」だ。1485年に刊行されたラテン語版を始めとして、様々な場所や言語で出版されたものが54冊一堂に展示されている。もちろん、もっとたくさんの版があるのだろうが、それにしても判型も装丁も言語もさまざまなものがその時代にこれほど出版されているというのは驚きだ。それほどまでに欧州の人々にとってはアジアへの興味や関心が大きかったということなのだろう。
今の時代とは比べ物にならないほど、書籍はもちろん、紙も貴重であった時代に多くの言語に翻訳されて欧州各国で読まれた本の現物を見るだけで、大航海時代が単なる冒険心の満足というようなものではなく、もっと切羽詰まった事情があったことが想像できる。その事情が如何なるものか、ということは知らないが、「黄金の国、ジパング」を探しにというような、単なる欲得のことではあるまい。
本は、そこに書かれていることを知るのが一番大事なことなのだろうが、装丁や判型、挿絵の量と質、という存在の全てが刊行事情を雄弁に物語っているということが、この54冊の「東方見聞録」だけでも十分に想像できる。昨今は情報のデジタル化が進み、どのようなものでも電子記憶媒体にデータとして蓄積され、それを端末で閲覧するようになっている。物の質感とか佇まいが捨象される時代だ。書かれていること、データとしての文字や数字は物事の表層でしかないのだが、それがわかっていない人が増えているような気がしてならない。実物を見ること、体験すること、体験を経験に深める意識を持つことが、自分の時間をどれほど奥行きのあるものにするということが、どれほど理解されているだろうか。
なにはともあれ、近所に良い場所ができたことは喜ばしいことだ。
展示物は適当な間隔で入れ替えるのだろうが、今展示されているもののなかで面白いと思ったのはマルコ・ポーロの「東方見聞録」だ。1485年に刊行されたラテン語版を始めとして、様々な場所や言語で出版されたものが54冊一堂に展示されている。もちろん、もっとたくさんの版があるのだろうが、それにしても判型も装丁も言語もさまざまなものがその時代にこれほど出版されているというのは驚きだ。それほどまでに欧州の人々にとってはアジアへの興味や関心が大きかったということなのだろう。
今の時代とは比べ物にならないほど、書籍はもちろん、紙も貴重であった時代に多くの言語に翻訳されて欧州各国で読まれた本の現物を見るだけで、大航海時代が単なる冒険心の満足というようなものではなく、もっと切羽詰まった事情があったことが想像できる。その事情が如何なるものか、ということは知らないが、「黄金の国、ジパング」を探しにというような、単なる欲得のことではあるまい。
本は、そこに書かれていることを知るのが一番大事なことなのだろうが、装丁や判型、挿絵の量と質、という存在の全てが刊行事情を雄弁に物語っているということが、この54冊の「東方見聞録」だけでも十分に想像できる。昨今は情報のデジタル化が進み、どのようなものでも電子記憶媒体にデータとして蓄積され、それを端末で閲覧するようになっている。物の質感とか佇まいが捨象される時代だ。書かれていること、データとしての文字や数字は物事の表層でしかないのだが、それがわかっていない人が増えているような気がしてならない。実物を見ること、体験すること、体験を経験に深める意識を持つことが、自分の時間をどれほど奥行きのあるものにするということが、どれほど理解されているだろうか。
なにはともあれ、近所に良い場所ができたことは喜ばしいことだ。