建て替えが終わったばかりのイイノホールで落語を聴いてきた。イイノホールだからというわけなのかどうだか知らないが、落語とジャズのビックバンドとの共演だ。今日初めて知ったのだが、その昔は東京でジャズのビックバンドが演奏する場所というと、このイイノホールと産経ホールと日劇の3カ所が定番だったそうだ。いずれも当時のホールは既になく、産経と日劇はホールすら残っていない。私は大学に入って初めてダンスパーティというものを経験したのだが、そのときの会場が産経ホールだった。もちろんダンスなど踊ることができるはずもなく、尤も、踊れない奴のほうが圧倒的に多く、なんとなく大学生になったなという思いだけを味わったものだ。
今日の落語だが、昇太の独演だった。噺二席とブルースカイというバンドの演奏で、二席目の「二階ぞめき」は噺のなかに演奏を取り込むという仕掛けになっていた。今回の催しのテーマは「昭和」。ちなみに一席目は「茶の湯」。
噺のまくらのなかでも語られていたが、高度成長期の「昭和」は物質的に「豊か」になることが体感できた時代だったと思う。自分の生活の場に次から次へと家電製品が入り込んで来る。私の子供時代は長屋で生活していたのだが、それでも洗濯機は買い替えられるたびに顕著に高機能になり、風呂は薪で炊くものから練炭になり、やがてガスに代わるのであった。掃除も箒で掃いていたのが、掃除機に代わり、テレビは白黒からカラーになった。それまで存在していなかった電話機というものがやってきたときには、用もないのに時報や天気予防を聴いていたものだ。そうした新しい道具が登場するたびに友達を連れてきたり、あるいは友達の家にそういうものを見に行ったりしたのが、今は嘘のように感じられる。
もちろん、今の家電製品も新製品が出るたびに高機能化している。しかし、その多くの機能は結局使われないことが多いのではないだろうか。あるいは近頃の携帯電話のようにあってもなくてもどうでもよい機能ばかりが増え、震災のような非常時には機能しないというようなゴミのような物ばかりが増えているように感じられる。
過ぎ去ったことを懐かしんでもそこから何も生まれないのだが、あの頃にあったことで今は無くなってしまったことで、生活にとって決定的に重要なことは、明日が今日より良くなるという暗黙の信頼感であるように思う。
今日の落語だが、昇太の独演だった。噺二席とブルースカイというバンドの演奏で、二席目の「二階ぞめき」は噺のなかに演奏を取り込むという仕掛けになっていた。今回の催しのテーマは「昭和」。ちなみに一席目は「茶の湯」。
噺のまくらのなかでも語られていたが、高度成長期の「昭和」は物質的に「豊か」になることが体感できた時代だったと思う。自分の生活の場に次から次へと家電製品が入り込んで来る。私の子供時代は長屋で生活していたのだが、それでも洗濯機は買い替えられるたびに顕著に高機能になり、風呂は薪で炊くものから練炭になり、やがてガスに代わるのであった。掃除も箒で掃いていたのが、掃除機に代わり、テレビは白黒からカラーになった。それまで存在していなかった電話機というものがやってきたときには、用もないのに時報や天気予防を聴いていたものだ。そうした新しい道具が登場するたびに友達を連れてきたり、あるいは友達の家にそういうものを見に行ったりしたのが、今は嘘のように感じられる。
もちろん、今の家電製品も新製品が出るたびに高機能化している。しかし、その多くの機能は結局使われないことが多いのではないだろうか。あるいは近頃の携帯電話のようにあってもなくてもどうでもよい機能ばかりが増え、震災のような非常時には機能しないというようなゴミのような物ばかりが増えているように感じられる。
過ぎ去ったことを懐かしんでもそこから何も生まれないのだが、あの頃にあったことで今は無くなってしまったことで、生活にとって決定的に重要なことは、明日が今日より良くなるという暗黙の信頼感であるように思う。