熊本熊的日常

日常生活についての雑記

無圭礙故無有恐怖

2011年10月09日 | Weblog
7月にMacBookを買って以来、このブログの原稿はそちらで書くことが多くなっている。しかし、今日はタイトルの漢字が打てなかったので、それまで使っていたWindowsXPのほうで書いている。Macは起動が速く、動作が機敏なので大変使い勝手が良いのだが、残念なことに教養が足りない。

それでタイトルだが、般若心経にある言葉だ。なぜか、というか、やはり、というか罣の字が表示できない。网部に圭という文字であるが、とりあえず圭としておいた。罣礙無く故に恐怖有る無し、と読み下すらしい。こだわりがないので怖れを持たない、という意味だそうだ。陶芸や木工をやっていると、上手く作ろうという欲が自然に出るものだ。勿論そういう欲があるから、経験を重ねる毎に技量が少しずつ向上するものなのだが、それは道楽の話。それを生業にしているような人になると、日々大量の作品を作らなければならないので、自ずと経験値は上がり力量が増す、はずである。その上で、日々作ることが生きること、というような生活のなかから、新しさがあるとかないとか、何事かを表現するとかしないとか、要するに他者の眼を気にもかけない、超越者のような心境で作られたものが生まれるのだろう。それは手仕事であるけれど、誰の手であるかということを問うものではない匿名性の仕事である。そういうもののなかに、手元において、自分の生活のなかに取り込んで、なんとなくしっくりくるものがある。もっと言えば、使うのが嬉しい、眺めているだけでも楽しいものが出てくるものなのである。というようなことを柳宗悦はいろいろなところに書いている。

ところで、今日は自分が作った壷を出品した美術展の懇親会に出席してきた。自治体の美術展に作品を出品するのは、たいていリタイヤした人たちと相場が決まっているのだが、まさにその相場通りの会場だった。私が突出して若いのではないかと思えるほどだ。生業でなくとも、そもそも生業というものから卒業した人が毎日のように取り組んでいれば、作業量からすると生業と変わらないということになる。そうなると、なかには我欲を超えて、仙人のような心持ちで創作活動を楽しんでいる人がいないとも限らない。そして、そうした人の作品のなかに、特に技巧が優れているというわけでもないのに、なぜか惹かれてしまってその前から離れがたくなってしまう、というようなこともあるかもしれない。

懇親会の会場は、展覧会が行われている建物のなかにある宴会場だ。会は立食形式で、洋画、日本画、工芸などと部門ごとにテーブルが用意されていた。どうやら、殆どの出品者は地元のサークルのようなところに属しているらしく、初対面という雰囲気の人は少ない。賞を受賞した人や来賓の挨拶の後、食事をしながら歓談が始まるが、すぐにグループがいくつも出来て、今回初めて参加する私などは入り込む余地が無い。日本画のテーブルに至っては、テーブルの周りに部屋の壁際に並べられていた椅子を持ち寄り、着席しての歓談が始まっていた。どのテーブルも賑やかで、特に年配の女性というのは怖いもの無しといった風情だ。そういうところから、あるいは素晴らしい作品が生み出されるものなのかもしれない。