熊本熊的日常

日常生活についての雑記

或る休日

2011年10月10日 | Weblog
毎日が休日のような生活なので、連休といっても特段変わったことをするわけでもない。休日のような、とは言っても、一人で暮らしていれば家事もあるので決して休んでいるわけでもない。この連休は土日と中途半端に用が入り、そうなると却って休日らしくなかったりする。今日は子供と落語を聴きに出かけてきた。

落語の会場が調布で、過去に訪れたことのない場所だったので、かなり余裕を見て待ち合わせをしたのだが、思いの外近いことがわかった。それで落語の前に損保ジャパンの美術館で開催中のドニ展を観て、京王プラザの五穀亭で食事をして、それから京王線の準特急で調布に出かけて、余裕で開演時間に間に合った。

モーリス・ドニといえばナビ派の中心的な作家のひとり。日本ではそれほど知られていないように感じるのだが、昨年のオルセー美術館展ではナビ派をはじめとするポスト印象派の展示だったので、多少は愛好家が増えたのだろうか。昨年のオルセー展はオルセーの改装工事に合わせての展覧会だったが、工事がまだ続いていて、今年もドニがやって来たのかと思っていた。会場に足を運んでみて驚いたのだが、今回はモーリス・ドニ美術館の協力の下に開催されているのだが、個人蔵の作品が多い。いったいどうやってこれほどの作品を集めてきたのだろうかと、作品よりもそのことに感心してしまった。ドニは「美しきイコンのナビ」と呼ばれ、神話や聖書をモチーフにした作品で知られるが、今回の展覧会は自分の家族を描いた作品で構成されている。家族という現実に存在するものを描いていても、そこに聖書の世界が透けて見えるのは、西洋絵画がそういうものであるということの他に、作家自身の信心も多分に影響しているのだろう。ドニは最初の妻を病気で亡くし、その3年後に再婚している。どちらの妻も彼の絵のなかに登場するのだが、絵を観ると、その家庭のあり方がやはり違うように思われる。人は他者との関係のなかを生きるのだから、関係性の構成要素が変化すれば、人も関係も変化するのは当然なのだが、その人の作品という具象を目の前にすると、なるほどそういうことかと思う。そういうこととはどういうことなのか、ここでは書かない。

昼は京王プラザの五穀亭でセットランチをいただく。子供は好き嫌いがあるので、食事の選択肢にはいろいろ制約があるのだが、ここでは残さず食べた。面白いもので、旨いと感じて食べているのか、それほどでもないのか、食べっぷりを眺めているとよくわかる。この店は私も気に入っていて、こういった会食にも利用するし、たまには一人で来ることもある。一人の時はたいがい粥をいただくのだが、会食のときはビビンバだったりもする。

調布は京王線の特急あるいは準特急で新宿から15分だ。昔、調布の手前の国領という駅から歩いて10分ほどのところにあったミツミ電機という会社に仕事で何度かお邪魔したことがあり、当時の記憶で調布というところは遠いという漠然とした印象が残っていた。国領は各駅停車しか停まらないので、そういう印象が残ったのかもしれない。

落語会は志らく、喬太郎、三三の三人会で、人気者が揃った割には、あるいは人気者を揃えたが故に、開演14時終演16時という中途半端なもので、会場入り口でその終演時間を知ったときには、少しがっかりした。噺のなかで志らくも語っていたが、落語会というものの適正規模は100人程度の会場ではないかと思う。話芸なのでひとりの人間が語りと表情や仕草で噺の世界の表現するのだから、そうした微妙な表現を感じることのできる物理的な距離というものがやはりあるだろう。それでもこうした地方の多目的ホールはまだましなほうで、国立劇場の大劇場とか、新宿の厚生年金会館などで行われるものになると、かなり無理を感じざるをえない。客を集められるだけ集めようとする興行主の事情も理解できるが、そういう無理が本当の愛好家を遠ざけることになりはしないのだろうか。こういうものは水物なので、稼ぐことができるときにたんまり稼ぐこともそうしたものに関わる人々の生活を支える上では必要かもしれないが、水物だからこそ、流行っていてもいなくても変わらずに贔屓にしてくれる人達も大事にしないといけないのではないか。