熊本熊的日常

日常生活についての雑記

あと一息

2011年05月06日 | Weblog
江戸東京博物館で開催中の「五百羅漢展」を観てきた。幕末に生きた狩野一信の手になる五百羅漢図が芝増上寺に所蔵されており、今回はそれが公開されている。

私は狩野一信という人を知らなかった。本人も知らなかったらしい。「狩野一信」というのは明治に入ってから研究者がそう呼ぶようになった名前で、生前は逸見一信あるいは雅号の顕幽斎一信と名乗っていた可能性が高いのだそうだ。生年についてもはっきりとしたことはわからないのだそうだが、とりあえず今回の展覧会のチラシ類などでは1816年生まれで1863年に没しているということになっている。生まれたのは江戸、本所林町で骨董商を営んでいた家だという。姓は不明で豊次郎と呼ばれていたということになっている。少年時代に町絵師のところに弟子入りし、その後、四条派、土佐派、などの門下で学び、最終的に狩野素川に入門したそうだ。勿論、本人が何を思って生きていたかは知る由も無いが、今から見れば激動の時代、だったと勝手に想像している。幕末である。黒船の来航もあれば、天保の飢饉、安政の大地震とその翌年の大洪水、安政の大獄、開国、など政治、経済、外交、自然災害などありとあらゆる分野で大事件が頻発した時代だ。そういう時代を絵描きとして生きた人なのである。狩野派といえば江戸時代の日本の画壇の本流だが、一信は素川一門の画塾で学んだという程度で、基本的には独学の人であったらしい。

つまり「狩野」という姓から現代の我々が受ける印象とはかけ離れた生活を送っていたらしいのである。生活は看板や提灯の絵を描いて糊口をしのいではいたものの、かなりの貧乏で、たまたま生活していたところの顔役が慈悲深い人で、その人が見るに見かねて衣食を援助していたので、なんとか生きていられたというようなことだったらしい。その顔役の口利きで、浅草寺の観音堂に大絵馬を奉納したのが1847年。これが評判になり、そこから絵師としてのキャリアが始まったのだそうだ。人の縁というのは大事だ。1849年2月の大火で増上寺の子院のいくつかが焼失した。翌年、そのひとつ源興院が再建される際に仏堂の壁画として一信が十六羅漢図を描いた。それが源興院の住職に認められ、彼がパトロンとなって、今回展示の五百羅漢図が描かれることになったのだそうだ。

五百羅漢図もさることながら、これを描いた狩野一信という人の物語が面白い。生まれたのが1816年として、1847年に大絵馬を浅草寺に奉納した時点で31歳だ。31で他人の援助なしに生活ができないほど困窮していた人が、それから10年足らずの間に、これほどの大作を構想するほどの絵師になるのである。勿論、才能もあっただろうが、人生を大きく転換する人との出会いがあればこそだろう。

一信は1854年に五百羅漢図の十分の一下図の制作にとりかかり、1863年9月22日に亡くなった時点で96幅までが完成していたという。完成していた、というのは必ずしも本人が描いたということにはならないだろう。弟子に一純というのがおり、アシスタントとして、五百羅漢図制作の早い段階から関与していたらしい。一信の死因はよくわからないようだが、今で言うところのうつ病であったらしく、五百羅漢図100幅の途中から様子がおかしくなっているのは、そういう予備知識がある所為も多分にあるにしても、素人目にそれとわかる。

71幅から明らかに絵のなかの人物が小さくなっている。人物が小さいということは、構図そのものが変化しているということでもある。十分の一下図は一信が作成したにしても、人物の大きさが顕著に変化すれば全体の印象もそれまでとは違ったものになるのは当然だ。描き手の中心が師匠から弟子に代わったことの表れというのは、技量の違いもあるだろうが、それ以上に心の違いによるものではないだろうか。もっと言うなら迷いの有無だ。物事を自分で考え、それを実行する当事者には迷いが無い。迷いが無いから筆致に迫力がある。当事者ではない者が指示や手本に従って描くものは、そこに己の信じるものが無いから、己の外にあるものを求めて浮遊しているかのような頼りなさが出てしまう。

自分の外にある「正解」をつかむことにどれほど秀でていても、それは結局他人の褌でしかないから、自分の身の丈には合わない。身の丈に合わないものを身につけていれば、それがどれほど上等のものであろうと傍目には滑稽にしか映らない。震災とそれに続く原発事故を経験した直後だから、余計にそう思うのだろうが、自分の生活している場が、これほど滑稽に満ちたものだとは気がつかなかった。気がつかずに生きてきた自分が何よりも滑稽だ。

ついつい話が横道に逸れてしまうが、75幅に描かれている出産直後の女性は53幅の首吊り死体とよく似ている。女性の表現が乏しいというのは、女性をあまり知らない所為もあるのかもしれない。今となっては確かなことはわからないが、残された史料等によれば、一信という人は、他人と折り合いをつけることが得意なほうではなかったらしい。出産する女性と首を括る女性を同じようにすることで、輪廻の断片を表現しようとしたのかとも考えた。しかし、解説を読むと、75幅の新生児はお釈迦様らしく、ということは、その女性は摩耶夫人ということになる。いくら創作とはいえ、摩耶夫人を首吊りにするわけにはいくまい。53幅と75幅の女性は全く別人として描かれていなければならないはずということだ。一信がどちらにも同じくらい関与していれば、あるいは、75幅の女性は違ったように描かれていたかもしれない。75幅は、やはり一信ではない人が、一信の作品を手本に筆を振るったと見ることができるのではないだろうか。安易に師匠の作品を手本として真似ると、こういう妙なことになる。そこに自分が無いから、全体として筋を通すということができないのである。

ところで、女性を描いた絵画では、アングルに勝る画家はいない、と今のところ私は信じている。清長も歌麿も好きだが、女性の肌の質感のようなものは、西洋画にはかなわないように思う。アングルの作品のなかでも、とりわけ「リヴィエール嬢(Mademoiselle Caroline Rivière)」が好きだ。ルーブルにはアングルの作品だけを集めた部屋があるが、この作品はそこではなく、大作の並んでいるDenonの1階で観た。初めて目にしたとき、しばらく離れられなかった。すぐ近くにはモナリザがあって、そこには人だかりができているのだが、それよりはこちらのほうがはるかに強く印象に残っている。この作品は1806年にサロンに出展されたときには酷評されたそうだが、名作というものは生まれたときにはそれとはわからないものだ。端から賞賛されるようなものにろくなものは無い。誰もが認めるというのは、要するに既成概念に則っただけの、創造性の貧しいものということだろう。

それで五百羅漢図だが、71幅あたりから、絵の密度とでも表現したらよいのだろうか、なんとなく間が抜けてくるのである。81幅から90幅までは背景が黒一色に塗りこめられるのだが、画面が暗くなるのに、印象は軽くなる。91幅をすぎると、もうどうしょうもない。この100幅を最後まで仕上げていたら、一信の評価は違ったものになっていたのだろう。しかし、満願成就というのは稀なことで、いつもなにかしらが欠けてしまい、あと一息、あと一歩という感じが残ってしまうのも人生の現実というものだ。

隠居のたわごと

2011年05月05日 | Weblog
この三連休は体調が思わしくなく、木工の他に映画を観に出かけたくらいで、殆ど住処の中で過ごした。まるで隠居である。ご隠居、というと茶でも啜りながら新聞か何かを読んでのんびりとしているといった風情を思い浮かべる。新聞は無いのだが、なんとなくネットのニュースなどを見ていると、どこぞの親分がパキスタンで殺されたとか、それを聴いて狂喜乱舞している群集があるとか、血生臭い話が目についてしまう。

人は必ず死ぬ。類としての人もいつか必ず絶滅する。放っておいても死に絶えるものを、どういう理由があって、慌てて殺しあうことになってしまうのか。いつか必ず終わるのだから、生きている間くらいは、いろいろ不平不満もあるだろうけれど、なんとか折り合いをつけて仲良くやっていこう、ということにどうしてならないのか。私は不思議でしょうがない。結局のところは、自我が極端に肥大した奴とか自己顕示欲が病的に強い奴に世間が振り回されているだけのことではないかと思う。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」なんて言っている人たちが、やられたら何が何でもやり返す、というようなことに汲々としているというのも妙なことだが、おそらく、宗教というのは方便のひとつということなのだろう。方便というと語感が悪いというなら、人類の偉大なる知恵、ということにでもしておこう。

連休中は、ちょっとした引き篭もり状態だったが、前にも書いた通り、小三治のDVDボックス「落語研究会 柳家小三治全集」を手に入れたので、時間は足りないくらいだった。住処で過ごすと言っても、炊事、洗濯、掃除、アイロンがけなど家事がいろいろあるのと、細々とした雑事があるので、DVDだけを観て過ごすというわけにもいかない。結局、これまでに10枚中8枚、20席を聴いた。残すところ2枚3席だ。どの噺も甲乙付けがたく、泣いたり笑ったりしながら楽しんだ。「泣き笑い」という言葉があるが、「薮入り」を聴いたときには胸の奥から泣き、腹の底から笑った。やはり、自分が親という立場だからこそわかることというのはあるもので、そうでなければこの噺で泣くことはできないのではないかと思う。「一人前」という言葉がある。一般的には、世帯を持って「一人前」というような感覚があるように思うのだが、やはり人として生まれたからには、人の親になってみて初めて実感できることがいくらでもある。生憎と世帯は手放したが、つくづく自分に子があることを有り難いことだと思う。そうでなければ、世の中がもっと薄っぺらにしか見えなかったのではないだろうか。子供がいるおかげで、人生がどれほど豊かになっていることかと改めて思った。

今日は外出するのが億劫だったが、どうしても郵便局に用があって、夕方になって重い腰を上げて、休日でも営業している豊島郵便局まで出かけて行った。せっかく出かけたのに、そのまま引き返すのも間が抜けているので、そのまま雑司ヶ谷まで歩いて、そこから地下鉄副都心線に乗り、渋谷に出て映画を観てきた。

私は副都心線が大好きだ。池袋、新宿三丁目、渋谷という繁華街を結んでいるのに、空気を運ぶだけのような余裕がある。駅の入口なども街並に溶け込んでいて、うっかりすると通り過ぎてしまうような慎ましい存在感だ。駅入口からホームに至るまで、すれ違う人も無く、営業しているのかいないのかよくわからないというのも面白い。なんとなく「秘密の路線」という感じがして楽しい。

映画はイメージフォーラムで「引き裂かれた女」を観た。主演のリュディヴィーヌ・サニエが綺麗だから、とりあえずよかったと思えるけれど、話としては別にどうということのほどのものはない。チラシには「性格や年齢の異なる2人の男に愛されたヒロインが思い込みの激しさゆえ、歪んだ恋愛関係に溺れ自分を見失っていく様をスリリングに描いたサスペンス・ラブストーリー」なんて書いてある。この文章は恋愛をしたことが無い奴が書いたということがすぐにわかる。あれで「思い込みが激しい」というのなら、思い込みの激しくない奴というのは案山子のような奴のことだろう。思い込まない恋愛などありえないだろうし、歪んでいない恋愛などあるとは思えないし、溺れない恋愛を恋愛とは言わないだろう。自分を見失わない恋愛というのも無い。ふと、これを書いた人は、この作品をちゃんと観たのだろうかと思った。プログラムの原稿を書く時点では字幕が付いていないのではないか。古い話だが、「Uボート」のプログラムでは登場人物の名前を入れ違えて書いてあるところがある。英語の作品ではそういうことは経験が無いのだが、英語以外の外国語の作品だと、ちぐはぐなことがあるような気がする。先日の「四つのいのち」は作品がよかったので、帰りがけにプログラムを買った。ところが、そのプログラムにも感心しないところがあった。台詞が無い作品でもそういうことになるのは、プログラムの作成に関わる人々に配布される資料がいい加減であったり、そのいい加減な資料だけを見るだけで作品を観ないで原稿を書いているということではなかろうか。言葉の問題ではなく、言葉の問題に象徴される構造的な問題がこの業界にあるということだろう。斜陽産業というのは、えてしてまともな人が集まらなくなるものだが、実務を担う人たちがいなければ、作品そのものの出来不出来にかかわらず、客を集めることなどできるはずがない。人を楽しませたり喜ばせたりするには、たとえ裏方であっても、人というものを知らなければならない。人を知るという修行や訓練をすることなく、ろくに人生経験も無い奴が、それこそ思い込みだけで人を食ったような仕事をしているというのは、その人たちを直接知らなくても、その人たちがした仕事を見ればわかることだ。まだ過去の蓄積があるだろうから、すぐにどうこうということもないだろうが、映画に未来は無さそうだ。

映画を観た後、Kua Ainaの宮益坂店でアボカドバーガーを食べてから帰る。昔、勤め先が渋谷にあった頃、ベルリッツで中国語を習っていたのだが、レッスンのある日はここで腹ごしらえをしてから出かけたものだ。もうあの頃から10年が経っている。当時から営業を続けている店はずいぶん少なくなってしまった。

心頭滅却すれば

2011年05月04日 | Weblog
職人に休日は無い、のだそうで、木工教室にでかけてきた。今作っているのは折りたたみ式のマガジンラックだ。折りたたむところの仕掛けを、金具などを使わずに、材への切り込みだけでやろうとしているので、これまでよりも鑿や手引きの鋸を使った作業が多くなっている。金具類を使わずに可動部分を、切ったり彫ったりして成形するので、材自体の強度も必要で、タモという硬い素材を使っている。素材が硬くて手作業が多いので、難儀をしているのだが、こういうもののほうが手仕事感があっていい。材を電動工具で切って、接着剤で貼り付けて、というのも、それはそれで工夫が要求されるところがあるのだが、「作る」というよりも「組み立てる」という感が強く、いまひとつ達成感が無いものだ。

今日の作業は、先週に引き続いて折りたたむところの加工を鑿で行い、糸鋸で少し手を加えたあと、鋸で材を30㎝ほど真直ぐに切るという作業を2回繰り返した。鋸を真直ぐに引くというのは集中力とその持続の技でもある。今日のところは、糸鋸を通すための穴をドリルで開けるのに苦労したが、鋸の作業はほぼ完璧にできた。次回、あと2回、同じ鋸の作業を経て、次の工程に進むことになる。

「四つのいのち(原題:Le Quattro Volte)」

2011年05月03日 | Weblog
映画とは何かということを考えさせてくれる作品だ。ドキュメンタリーではないのに、台詞が一言も無いのである。俳優は一人も出演していない。唯一の「プロ」は犬だけだ。それでも、これほど面白い作品になるのである。俳優も無く台詞も無く、それでも映像作品として成り立つのである。俳優とは映画にとって何なのか、台詞にどれほどの意味があるのか、と思ってしまう。確かに、多くの俳優が、健康に然したる問題がなくても、実質的な廃業に追い込まれてしまっている。それは、存在意義が無いということなのか、別に理由があるのか。

映画のほうはタイトルそのままの「いのち」の物語だ。舞台はイタリア南部、カラブリア州の小高い山の上の農村。炭焼きのシーンで始まる。その煙が漂うなかで、老いた牧夫の咳き込む声が聞えてくる。彼は山羊を飼っている。毎日、畜舎から山へ放牧にでかけ、畜舎に帰る。その繰り返し。身なりは洗濯されて小奇麗なものを身につけ、家のなかはきちんと片付いている。よく「男ヤモメに蛆が湧く」などというが、実際には男性のひとり暮らしというのは几帳面に片付いていることのほうが多いものだそうだ。老人は就寝前に粉薬のようなものを水に溶いて飲む。後のシーンで、これが教会の床を掃除したときに集められた埃であることがわかる。これは教会の管理人になぶられているわけではなく、教会の埃に魔法の力があるという信仰に基づくものだそうだ。そんなものを飲み続けたところで、いくら「病は気から」と言ったって、病気がよくなるわけもなく、老人はある日、ベッドの中で静かに息を引き取る。

老人が亡くなった翌朝、老人が飼っていた山羊が出産する。消える命、生まれる命、まるでバトンタッチをするように、映像は山羊の群れに焦点を当てる。生後間もない山羊は、しばらくの間は畜舎のなかで過ごし、放牧には出されない。初めて放牧に出された日、子山羊の1頭が群れから逸れてしまう。群れに戻ることができないまま、子山羊は大きな樅の木の下でうずくまる。

季節が巡り、その樅の木が切り倒される日が来る。村のピタの祭りに使われるのである。切り倒された大木は枝を打たれ、外皮を剥がれ、大勢の人々に引かれて村の広場に立てられる。村の外から観光客も集まり、賑やかな祭りが繰り広げられる。

祭りが終わると樅の木は切断され、炭焼き場へ運ばれる。そこで他の木といっしょに炭焼きの櫓の一部となり、炭に焼かれる。こうして、最初のシーンと同じラストシーンになる。人も山羊も木も、生きとし生けるものすべて、それぞれの生命史が大きな円環を描くように綿々と続いていくということなのだろう。

老いて身体がしんどいとか、咳がひどいとか、個人の事情に関係なく、世界は続いていく。亡くなる命もあれば、生まれる命もある。大きく育つ木もあれば、伐採されて切り刻まれる木もある。世の中の命の生命史を上手くつなげれば、それぞれに適切につながりながら生きていける。そんなことを感じさせる作品だ。勿論、現実はそんな牧歌的なものではない。この映画の舞台になっている山村も過疎化に悩み、今や存亡の危機に瀕しているらしい。世界が市場経済のメカニズムのなかに組み込まれてしまった後になって、今更自給自足の生活などは困難だ。人々の生活に必要なものを、自分の身の回りにあるものだけで賄うということができる土地は、おそらくこの地球上のどこにも無いのではなかろうか。人が生活をするのに必要以上のものを我々は手に入れてしまったことは確かだろう。そして、そのために自然環境を加工してしまっている。そうした余剰や過剰は、生命の維持にとっては「余剰」や「過剰」でも、生活の維持にとっては必要不可欠なのである。その生活を我々は捨て去ることができるだろうか。捨て去ったら幸せになるだろうか。

私は自分が暮らしている場所で、原発がああいうことになっているなかで観るから、この作品が余計に面白く感じるということはあるかもしれない。今回の原発事故で、東京とその周辺の暮らしには節電が強いられることになった。首都圏を走る鉄道路線の多くが日中の比較的閑散な時間帯での列車の本数を減らし、車内の空調や照明を止めたり、必要最小限にまで減じたりしている。夜間の街の照明も減らされている。それで明らかになったのは、我々の日常が不必要に明るかったり、不必要な空調に慣らされていたという事実だった。

ついこの前まで、相対的に優れた経済性で、安定的に電力を供給して我々の生活を支えていたものが、一瞬にして、安定的に放射能を垂れ流し続けて我々の生活を静かに破壊し続けるものに変貌するという現実が何千万人という人に対して突き付けられた。ただ垂れ流しているのではない。莫大な金額の税金を食いつぶしながら、垂れ流しているのである。恐ろしいのは、原発もさることながら、一向に終息していない原発事故が長期化するにつれて、人々の関心が低下することだ。知らず識らずのうちに人も社会も放射能に蝕まれていくというのは、何事かの終焉を象徴するかのようだ。

今回の事故は、結局のところ、どこにどのような問題があって、その責任の所在がどこにあって、その責任をどのような形で明らかにするのか、たぶん、うやむやに終わる。電力会社だけの問題ではないはずなので、経営幹部がどうこうするということで済むことではないだろうし、原発に絡んで多額の金があちこちにばら撒かれているのだから、それを今まで受け取ってきた連中にとっては責任など明らかにならないほうがよいくらいだろう。政府にしても、現在の当事者は民主党政権かもしれないが、原発政策を推進したのは、現在は野党となっている自民党が政権を握っていた時代のことだ。近頃は「透明性」だの「法令順守」だのとやかましいが、はっきりさせないほうが上手くいくことのほうが多いのも生活の現実だろう。この事故の処理は、我々の社会が抱えているパンドラの箱を開くことになるのかもしれない。

「四つのいのち」に描かれているのは、命と生活が一致している世界だ。今回の震災と原発事故で明らかになったのは、我々の社会では命と生活が対立しているという側面も多分に持っているということだ。命を守るのに必要なものと、生活を守るのに必要なものというのは必ずしも一致しない。我々は、生活を守るために命を削るという矛盾に陥っているのではないだろうか。

千両みかん

2011年05月02日 | Weblog
商売というものの本質が語られている噺だと思う。商売というのは人の本性の表現でもある。売る側も買う側もだ。そして商売というのは、ともすればいくら儲けたとか損したということに目を奪われがちだが、貨幣というものが本来は価値を表現する手段であるはずなのに、その手段が自己目的化してしまうという我々の生活のなかでよくある不思議をも雄弁に語っている。さらに言えば、物事の光と影、本質と幻影あるいは幻想が渾然一体となっている現実が活写されていると言ってもよいかもしれない。

先日、「小三治」というドキュメンタリー映画の話を書いたが、あれを観て小三治の噺をもっと聴いてみたいと思い、DVDボックスを注文してしまった。それが今日届いた。10枚組で24席収められている。さすがにまだ全部は聴いていないが、今日は「花見の仇討」、「もう半分」、「宿屋の富」、「厩火事」、「千両みかん」を聴いた。芸のことは皆目わからないので、好きか嫌いかという話しか書けないが、このなかで一番好きなのは「千両みかん」だ。

古典落語は噺の成立から長い時間を経ているので、同じ噺でも演者によって、口演によって、演出や物語の細部が異なっている。以前、どこかで聴いたものでは、事情を聞いたみかん問屋の主が、そういうことなら差し上げましょう、と申し出るというものだった。それを、みかんを求めるほうの番頭が執拗に「当家も商人ですからただというのは困ります」と言うものだから、みかん問屋のほうが「では、千両」となった。小三治のほうは、最初から千両ということになっている。私は、無料でという遣り取りを入れるよりも、端から千両のほうが筋が通って聴きやすいように思う。番頭は「千両」という金額に腰を抜かさんばかりに驚いてみせるが、みかん問屋の主人も、みかんを求めているほうの大店の主人も「千両でも安いくらいだ」と、「千両」ということに引っかかりを持たないのも良いと思う。商売というものに対する姿勢や思考における、経営者という立場と従業員というそれとの違いが端的に表現されており、それは同時に価値と価格の違いを雄弁に語る部分でもある。また、価値と価格の違いがまるで理解できていない番頭の姿を浮き彫りにすることで、サゲへの伏線にもなっている。

世の中が噺のなかの大店やみかん問屋の主人のような人ばかりなら、我々の政治も経済もう少しましになるのだろうが、現実は番頭のような人ばかりなので、どうしてもおかしなことになってしまう。

ちなみに、みかんというものが現在のような単なる農作物になったのは明治以降のことで、それ以前は投機の対象でもあったそうだ。これは、噺を聴く上での予備知識として持っておいたほうがよいかもしれない。

或る休日

2011年05月01日 | Weblog
子供と一緒に過ごした。今月は週末にスクーリングの予定があるので、普段は毎月下旬に子供と会うのを月初に変更してもらったのである。山手線の駅ホームで待ち合わせて、渋谷経由で桜新町に出る。長谷川町子美術館を覗いた後、而今禾を訪れ、布を買う。サザエさん通りにあるLa Saluteというイタリア料理屋で昼食をいただき、店の前からタクシーで静嘉堂文庫へ。美術館や庭園、美術館周辺を散策してから二子玉川駅へ出て、子供を家の最寄り駅まで送ってから、巣鴨に戻る。強めの雨が降り始めていたが、ハニービーンズに寄ってコーヒー豆を買い、店主夫妻と雑談をしているうちに雨は一旦あがる。雨が上がっている間に住処にたどり着き、荷物を置いた後、昭和歌謡ショーで塩ラーメンを食べ、外に出ると細かい雨が降っていた。

今年の黄金週間は、旅行に出かける人が例年よりも少ないというような報道がある。海外への出国者数は昨年の半分で、国内でも沖縄はやはりそれくらいだそうだ。五月の連休の旅行を予約するのは2月とか3月なので、その時期に震災があった関係で、多くの人が予約をキャンセルしたり、旅行の計画そのものを見送ったということなのだろう。一方で、被災地へボランティアに出かける人は多く、受け入れ側が苦慮するほどの状況にあるとか、各地での反原発イベントは盛況であるというようなことだそうだ。連休だからといって、何が何でも遠方まで行楽に出かけないといけないというわけではないので、観光業界の人々にとっては課題が多いが、人の社会としてはこれが健康的な姿なのかもしれない。

思ったよりも早く桜新町に着いてしまったので、時間つぶしのつもりで長谷川町子美術館に入った。「サザエさん」の原画などを展示するだけのところかと思っていたら、普通の個人美術館だった。もちろん「サザエさん」関連の展示はあるが、長谷川毬子・町子が蒐集した美術品を中心とした展示になっている。今日は「幻影の世界」という企画展の最中で、松尾敏男のミニ企画があった。このブログを書くのに少し検索してみたら、長谷川町子姉妹の人生は「サザエさん」のようなほのぼのとした世界とはおよそ遠いものだったようだ。考えてみれば、ほのぼのとした世界にどっぷり浸っていれば、「ほのぼの」は見えてこない。長谷川姉妹にしても、晩年になってから毬子・町子と洋子との間で絶縁状態になり、町子が亡くなった際には毬子が近親者に緘口令を敷いて洋子には知らせなかったほどの状態だったのだそうだ。町子の最後の作品である「サザエさん旅あるき」には、その20年ほど前に刊行された「サザエさんうちあけ話」には記載されていた洋子のことが一切触れられていないらしい。先日、ある姉妹の様子を見て、私も軽々しく「家族というのは良いものだなと思う」と書いたが、「家族」という関係が良いのではなく、良い関係の「家族」もそうでない「家族」もあるということを改めて思う。「家族」は人が生涯の間に取り結ぶ数多の関係のひとつでしかないのである。そこに強い幻想を抱いてしまうのは、結果としては不幸なことになるかもしれない。

長谷川町子美術館を出て、而今禾に至る街並については4月24日付「我儘」で触れているので書かないが、何時見ても街路樹とは思えないほどにまで成長した桜並木に感心させられる。而今禾では、陳列されている陶磁器を一通り拝見した後、木工で製作中のマガジンラックに使う布を選ぶ。さんざん迷った末に野良着に使われるような藍色の木綿布に決めた。これと明日の朝に食べる用のパンを一緒に買った。

私の子供もずいぶん大きくなって、普通に話が通じるようになっている。「大きい」というのは身体のことだけではなく精神的なことのほうも含めてのことだ。先日、鎌倉で小学生に間違えられて本人はむっとしていたが、間違えたほうを責めるのは酷だ。おそらく、今この瞬間において、私が一番気軽に接することのできる相手はこの子のほかにいないと思う。それで、なるべく自分の関係性のなかにこの子を巻き込んでいこうと、自分が好きな場所へこうして連れまわしているのである。といっても、人に紹介するようになったのは昨年後半からだ。陶芸教室でご一緒させていただいている方が開いたギャラリー、自分の個展を開いたギャラリー・カフェ、今日もギャラリーだ。今までのところ、全部ギャラリーだが、これは偶然。別にギャラリーの人を紹介しようと思ってそうしているわけではない。

ギャラリーでパンというのは妙だと思われるだろうが、而今禾の本店は三重の関宿(亀山市)でカフェを併設した道具屋らしい。オーナー夫妻がそこで農業も営んでいて、地元のオーガニック食品業者とのネットワークを構成しているのだそうだ。今は期間限定で、関宿の店と縁のある食品・食材を深沢の店舗で販売している。パンは「にこぱん」という三重県多気町にあるベーカリーのものだ。先日、「田舎パン」というのを買って食べてみたら、いままでに食べたことのない個性的な美味しさだったので、今日も「黒糖パン」というのを買ってみた。

昼食はサザエさん通りにあるイタリア料理屋La Saluteでセットになっているものを頂く。昼時ということもあり、店内はほぼ満席。私たちが入ったあと2組の客があって、それで本当に満席になった。私たちは2人だったので入口近くのカウンターの席にして、厨房の様子を楽しんだ。料理人なのだから当たり前なのだが、動きに無駄が無くて、流れるような動作が美しい。5口あるコンロがフル稼働で、その隣にある麺茹機も忙しそうだ。場所柄、遠方からわざわざ足を運ぶような地域ではないので、客の殆どが地元の人のようだ。休日の昼を親しい者どうしで美味しい食事をしながら過ごすというのは、ありふれた風景のようだが、これほど豊かな風景もないだろう。食事を共にするというのは、食事の内容は勿論大事だが、それ以上に食卓を囲む人々の間の会話が大切であろう。いくら旨いものを食べながらでも、気詰まりな食卓なら、その楽しみは半減どころではない。食事を共にするのが楽しい相手がどれだけいるかということも生活の質を左右する大きな要素である。私の場合はまだこの点が弱い。もっと積極的にいろいろな場に出向いて、縁を開拓しないといけないと思っている。

静嘉堂文庫を訪れるのは久しぶりだ。今は「日本陶磁器名品展」が開催されている。私たちが入館したときは、たまたま他に客がいなかった。小さな美術館だが緑深いなかに立地していて、ちょっとした時間を過ごすのにちょうどよい。こういう小規模で良質な個人美術館が散りばめられているのは、東京のひとつの特徴かもしれない。それぞれの運営にはご苦労があるのだろうが、日常生活のなかにこうしたものを組み込むことで、社会心理的な意義があるのではないかと思う。実証は困難だが、身近にあるものと人との関係というのは自覚している以上に大きいのではないだろうか。それは個人とものとの関係、地域の人間関係とランドスケープとの関係、職場とフロアプランの関係、国土と機能拠点の立地の関係、など物理的なものと心理的なものとが関連しているというようなことがあるのではないかと思うのである。

子供を住居の最寄り駅まで送った後、住処へ戻る途中でハニービーンズに立ち寄った。強い雨が降り出していたが、店の店主夫婦と雑談をしているうちに雨があがった。今日はニカラグアの豆を買った。