熊本熊的日常

日常生活についての雑記

Melting borders

2011年09月11日 | Weblog
飯田さんの個展「melting borders」にお邪魔してきた。飯田さんも勤め人でありながら、創作活動にも従事されておられる。私ごときと一緒にしては失礼かもしれないが、勤めを持ちながら創作も、というところになんとなく連帯感のようなものを覚えている。昨年と一昨年の個展のタイトルが「Ambivalent Images」であり、今回は社会との関係というところを一歩深く意識されているように感じられた。

会場にあったチラシから引用させていただく。
「私たちの生活のあらゆる領域において境界線(borders)の消失(melting)が起きつつあります。例えば、経済いのグローバル化はもはや国ごとの経済政策というものを無効とし、それは更には各国の文化的基盤をも侵食していきます。また、インターネット上で広く浸透しつつあるソーシャルネットワークサービスは、国境という意識を失わせるだけでなく、個々人の過去と現在、ビジネスとプライベートなど、従来は分断されていたものを一つに結びつけていきます。
 こうした境界線の消失は、新しい可能性を切り拓く一方で、従来のアイデンティティの枠組みを国家レベルから個人レベルまで危機に陥れることになります。境界線が消失していく流れ自体は変えられないものの、私たちはその意味をしっかり認識した上で対処していかなければ、自らを見失うこととなります。」

当然に反論が出てきそうな文章だが、ひとそれぞれの認識や理解があるのだから、これはこれで立派な見解だと思う。しかも、そうした認識を絵画で表現しようというのだから、その意気や仕事には相応の敬意が払われて然るべきだと思う。身近にこういう人がいるということが、自分の作陶にもおおいに刺激を与えることにもなるし、素朴に嬉しい。

10年前の今日はあの事件の日でもある。事件の当時は、私も単純にイスラムの論理と西欧の論理との対立という図式でしか理解していなかったが、今から思えば、「melting borders」の一例なのだろうと思える。

文化というのは価値の体系である。体系というからには、別の体系とは本来的に排他的な関係になるということだ。体系というのは世の中にひとつだけだから「体系」というのであり、体系と体系が重なるということは論理としてあり得ないことである。文化というのは、個人の価値観というレベルでも存在するし、集団としても存在する。尤も、その集団というのは必ずしも「国家」とか「民族」という形態であるとは限らない。また、価値観というのは論理的な体系ではなく、ある集団のなかで共有される幻想のようなものだろう。だから集団、例えば国家というのは時代とともに変容するのであり、同じ民族どうしでも内部で対立することもあるのである。

人が物事を考えるとき、そこに価値の体系という尺度があるからこそ「考える」という行為が成り立つ。ということは、自分が拠って立つ体系や幻想を超えて存在するものを理解することは不可能だということだ。自己の価値体系に反するものが存在するということは、その価値体系の存在が否定されるということであり、その体系に拠って立つ自分が否定されるということになる。つまり、異なる文化が共存することはあり得ないのである。その結果、殺し合ったり無視しあったりするようなことが起こるのである。

一方で、あの事件を起こしたほうの価値体系もかなり怪しいものであることが、事件そのものからわかる。複数の旅客機を同時に乗っ取って、多くの人が働く巨大商業ビルや権力の中枢を象徴する施設を破壊する、つまり高効率に大量破壊行為を行うというのは、大量生産あるいは資本の論理と同じことだ。イスラム原理主義というものがどのような価値体系を持つものなのか知らないが、市場原理に基づいて動いている社会に反対する立場であるならば、少人数で定期旅客航空機を乗っ取って大都市に立地する巨大商業ビルに突入するという、高レバレッジの市場主義的殺戮行為を実行するというのは、その価値体系内部に重大な破綻を抱えているということになる。つまり、敵対する勢力と同じ思考で動いているということだ。それは同じ穴の狢が単なる縄張り争いをしているのと同じことであり、どれほど屁理屈をこねようが、そこに正義はない。

ところで、我々の生活のなかの境界線は本当に消失しているのだろうか。市場原理すなわち競争原理が行き渡ることで、人の有り様というのは孤独あるいは孤立の度合いが強くなっているのではないだろうか。SNSで会ったこともない奴と「友だち」ごっこができるというのは、身近にあるはずの個別具体的な人間関係が希薄になっていることの裏返しではないのか。いわばSNS上の人間関係が最後の砦になってしまっているのではないだろうか。私が人一倍我が儘というだけのことなのかもしれないが、話の通じる相手などそうそういるものではない。面と向かって五感を総動員して人と対峙してみたところで、容易にその相手というものがわからないのに、ネット上の言葉の断片の投げ合いだけで「友だち」と呼べるような相手などできるはずがない。もちろん、自己のありようは人それぞれなので、私とは違って豊穣な人間関係に恵まれている人のほうが世の中には多いのかもしれない。しかし現象面を見れば、孤立や孤独の影がちらつく妙な事件が多いのも事実である。過激な思想に酔うというのも、あるいは孤立無援な状況に陥っていることの証左ではないのか。そんなふうに考えると、消失しているのは境界ではなく、人そのものなのではないのか、とさえ思えてくる。

秋眠

2011年09月10日 | Weblog
「春眠暁を覚えず」という言葉があるが、冬の寒さが緩んで暖かになると、なんとはなしに始終眠いものだ。それは気候の変化が身体に対して負荷として作用するため、自己防衛本能で休養を求めるということなのだろう。それならば、夏の暑さが和らいでしのぎやすくなる今時分も同じような現象が見られることに不思議はないはずだ。というわけで、このところ始終眠い。今週は木金今日と起床が昼近い日が続いた。木曜と今日は昼寝もした。

今日は起床してすぐに米を研いで鍋に入れて水を張り、洗濯機をまわしてからシャワーを浴びた。シャワーから出てから台所に立って食事の支度をする。支度ができたところで、洗濯物を干し、食事をいただく。食事はたいてい野菜を炒めて何かで味をつけたものをおかずにする。他に納豆と海苔を必ず付ける。野菜は昨日が玉葱、ズッキーニ、茄子、オクラ、椎茸で、それにシラスを混ぜ、カレー粉で味をつけた。炒めるときに使った油はオリーブオイルだ。今日は玉葱、茄子、オクラ、椎茸にシラスを混ぜ、味噌を味醂で溶いて混ぜた。今日の油は胡麻油。食事を終えてから、コーヒーを淹れる。今手元にある豆はマンデリンとモカ・イルガチェフで、今日はマンデリンをいただく。炊飯器ではなく陶器の鍋でご飯を炊いており、片付けるのに少し長く水に浸けておいたほうが汚れ落ちがよいので、コーヒーをいただきながら、落語のDVDを観る。

小三治の「小言幸兵衛」。落語だから面白おかしく聴いていられるが、現実の世界でも口を開けば不平不満ばかりという人がいる。本人はたいしたつもりで周囲を批評しているのだろうが、傍で聞いていると、そんなに文句があるなら自分でどうにかすればよさそうなものだと思って白々とした気分になる。それがいつもいつもとなると、「また始まったよ」と却って愉快になる。きっとそういう人は死ぬまで評論家なのだろう。評論家というのは、つまり、不平不満を語っているだけで、それで世の中とか自分自身の生活を良くするということが無いということだ。傍で聞かされている分には、ある種の楽しみにもなるが、そういう人とはあまり関わりになりたくないものだ。

食事の後片付けをして、やれやれと思うと眠くなる。そこでヨガマットを広げて横になり、バスタオルを掛けて昼寝。目が覚めてからも蝉の声を聞きながらしばらく横になっている。起きだしてからトイレを掃除する。身支度をして、実家へ向かう。

実家ではちょうど池上彰の番組を観ていた。この人のことはNHKの「こどもニュース」で知った。自分の子供と一緒に観ていたテレビ番組がいくつもあるのだが、私のほうが一生懸命になって観ていたものもいくつかある。「こどもニュース」もそのひとつで、本職とは言え、話がうまいものだと毎週感心しながら観ていた。

その後、池上氏はNHKを離れ、今日のような番組の司会や著作に忙しくご活躍だが、話をわかりやすくすることの危険も感じないわけではない。物事を一本の木に例えれば、その幹を取り出して木の姿を語れば、大方その姿の成り立ちが把握できるものである。しかし、現実はそこに枝葉が複雑に付いている。幹にしても、根があるわけで、根の張り方は土地の有り様とか木の種類によって一様ではない。そうした一筋縄では語り尽くせない部分が、一見単純に見えることのなかにも必ずあるものだ。そうした枝葉や背景が物事の本質的な部分と相互に関連し合っているのが現実である。だからこそ、その現実を生きることは容易ではないのである。物事をわかりやすく説明することはマスを対象にする場合には重要なことではあるのだが、わかりやすさを追求するあまりに過度に紋切り型の物言いになってしまうと、その事象の本来の姿が却って見えなくなってしまうことも少なくないのではなかろうか。

それでも、今日の池上氏の番組は面白く、普段なら午後9時頃には帰るのだが、10時半ころまで見入ってしまった。帰宅は11時過ぎ。昼間は暑かったが、夜はだいぶしのぎやすい。月のきれいな晩だ。

HTST

2011年09月07日 | Weblog
牛乳の殺菌方法にはいくつかあるらしく、今日たまたま手にしたのはHTSTという製法だ。ほかにUHTというのがあって、HTSTはUHTに比べると殺菌温度が低いのだという。殺菌温度を低くすることで何が良いかというと、牛乳本来の成分が生かされるのだそうだ。ただし、本来の成分が生きるということは、耐熱性菌のなかに殺菌工程を経ても生き残りが出る確立が高いということでもある。つまり、原乳の健康というか品質がより重要になるのがHTSTらしい。それで、今は牛乳の殺菌方法はUHTが主流なのだそうだ。

そう思って見る所為か、今日飲んだ牛乳は色が白というより微妙に灰色がかっていた。飲んでみると、味に甘みが感じられた。箱に「消費期限にかかわらず(開封後は)できるだけ早くお飲みください。」と書いてあると、少し緊張するのだが、夏も終わったことなので、しばらく飲んでみようかと思う。

続 倉敷でみつけたもの

2011年09月06日 | Weblog
かつて家庭を抱えていた頃には自家用車も所有していたのだが、離婚と同時に手放し、以来4年間はたまにレンタカーを運転するくらいだ。車には興味がないのだが、車を選ぶ人の心情には興味がある。服やアクセサリーなど身につけるものとか化粧などは、その人が自分をどのように認識し、それをどのように他者に対して表現しようとしているのか、ということを雄弁に物語っている。身につけるものだけではなく、身そのものもそうだろう。体型にはその人の世界観が反映されていると思う。車の選択も服や体型と同じように、その人の何事かを語っていると思う。写真の車は、民藝夏期学校の会場となった建物の隣にある駐車場で撮影した。ナンバーを見ると、地元のものだ。色は後から塗り直したのだろうが、なかなか良いではないか。維持するのにはそれなりのご苦労もあるだろうが、敢えて乗り続ける心意気に敬意を表したい。

ついでながら、近頃の車はどれも似たようなものばかりになっているように感じているのは私だけだろうか。中途半端な高級車にそういう傾向が顕著であるように思う。レクサスあるいはその元になっているトヨタの車とBMWやベンツが同じように見えてしまう。エアロダイナミクスを追求すれば形が似たり寄ったりになるのはやむを得まい。ましてや、技術革新が進行して材料の鋼材の品質とか、それらをプレスする技術が頂点を極めようというのなら、その最先端のところは同じということになる。車の性能というのは空力特性が全てではないが、そこに同じくらいの完成度を求めれば、できあがる形状も似てくるのは当然だろう。かといって、燃費が経済性からも環境対策からも重要視される時代になってしまったので、そこは外せないということになるのは仕方のないことだ。とはいえ、車というものがかつてほどには楽しいものでなくなってしまったと感じるのは私だけではないと思うのだが、どうだろう?

倉敷でみつけたもの

2011年09月05日 | Weblog
知らない街を歩いてみると、思いもよらぬものに出くわすことがある。民藝学校の最終日に市街散策の時間があった。案内役がついて回るのだが、自由に回っても差し支えないとのことだったので、勝手にうろうろとしてみた。美観保存地区を一回りして、閉校式が行われる会場へ戻る途中、住宅街のなんでもない通りに、軒先に銅像のある家を発見した。倉敷とどのような縁があるのか知らないが、蒋介石の像だ。その家には「昭和大戦博物館 準備展示室」という看板が掲げてある。ショーウィンドウがあり、そこには終戦時に蒋介石が中国人民に対してラジオを通じて訴えたとされる講演を紙に大きく書いたものが貼ってある。「暴をもって暴に報ゆ勿れ」という題だ。その下には戦中戦後に使われたとおぼしき、砲弾の空薬莢を利用して作られたアイロン、ヘルメットを転用した鍋、軍刀を転用した包丁、陶製砲弾などが並んでいる。家は空き家というのではなく、普通に生活が営まれているかのような雰囲気だ。その並びには軒先に緑色に塗られた旧郵便ポストが立っている家。一見すると何の変哲もない住宅街なのに、突然深い世界の入り口があるかのような、というのは大袈裟かもしれない。そこでカメラを構えていたら、車で通りかかった人が私のほうを見て笑っていた。

民藝夏期学校 倉敷会場 最終日

2011年09月04日 | Weblog
調査報告「岡山の手仕事」 岡山県民藝協会
市街散策
閉校式

民藝学校は午前中で終了となる。台風一過、まだ多少不安定な空だが、雨は上がった。夜に実家に寄ることになっていたので、15時14分に岡山を出る新幹線を携帯で予約しておいた。倉敷から岡山方面へ向かう在来線はだいたい15分間隔で運行されているようなので、遅くとも14時45分前後の列車には乗らないといけない。となると美観地区を14時半頃には後にしないといけないということになる。今回は大原美術館だけはなんとしてでも観ておこうと思っていたので、閉校式後に出されたお弁当を頂くとすぐに美術館へ向かった。民藝学校の初日に、ここの工芸館だけ見学させていただいているので、今日は本館と、可能ならば別館も、というつもりだった。わずかに1時間半ほどなので駆け足になってしまったが、なんとか雰囲気程度は味わうことができた。

噂には聞いていたが、予想以上の内容の美術館だった。物見遊山の旅行というものにそれほど興味がないので訪れたことのある土地というのは少ないのだが、限られた経験に照らせば、私立美術館としてこれほどのものは他に無いような気がする。上野の西洋美術館の基になった川崎コレクションにしてもそうなのだが、ある時期の日本の富裕層の財力には驚嘆してしまう。

大原家というのはこのあたりの大地主だったそうで、この美術館を建てた大原孫三郎は倉敷紡績初代社長である大原孝四郎の三男だ。いわば若旦那だが落語に登場する若旦那を地でいくかのように放蕩の限りを尽くしてとうとう謹慎の身となってしまう。謹慎中に出会った石井十次の薫陶を受け、家業でもある実業だけでなく社会事業も次々に手がけることになる。大原美術館の設立もそのひとつということらしい。大原だけではないが、明治から昭和前半に至る日本にはスケールの大きな人物が次々と現れているかの感がある。そういう人達のことを書いた物を読んだり話を聞いたりするにつけ、己の小ささに情けない思いを新たにするのだが、近頃は世の中全体が小さくまとまろうとしているかのように見える。日本だけでなく世界全体として、似たような傾向があるように感じるのは私だけであろうか。

民藝夏期学校 倉敷会場 2日目

2011年09月03日 | Weblog
会場は藤木工務店倉敷支店会議室
講義 「郷原漆器・備中漆の復興」 高山雅之(郷原漆器生産振興会会長、林原備中漆復興委員会委員長ほか)
講義 「民藝とくらし」 金光章(日本民藝協会会長)
講演 小谷真三 (倉敷ガラス創業者、ガラス工芸家)
鼎談 「仕事とくらし」
    杉山享司(日本民藝館 学芸部長)
    柴田雅章(陶芸家)
    武内真木(陶芸家、岡山県民藝協会副会長)

漆器の魅力は使い込まれるにつれて深みを増す漆の様子だ。尤も、安物だと古くなると漆が剥がれてしまう。古くなるに従って深くなるのか割れてくるのかの違いをもたらす要因はいくつもあるのだろうが、漆そのものの品質を別にすれば下地処理にどれほど手間隙をかけるかということの違いが大きいらしい。手間隙というのは結局のところ価格に反映されることになるのだが、話を聴いた限りでは、郷原漆器は手間隙の割には安い。それは手間隙をかけるのが、作り手の満足のためではなく、使い手の満足を思ってのこと、ということを明確には表現しておられなかったが、そういうことのように思われた。

郷原漆器は岡山県指定重要無形民俗文化財で、蒜山地方で作られている。蒜山というと「蒜山ジャージー生クリームサンド」が思い浮かぶ。以前の勤め先で、社内の休憩室に菓子類がふんだんに常備されているところがあった。そうした菓子類は毎週定期的に明治屋から届くのだが、そのなかにその「生クリームサンド」があった。どら焼きの餡子の代わりに生クリームが入ってる、というような感じのもので、その生クリームが風味豊かで上品な味わいだった。その職場を離れて6年半。思わぬところで「蒜山」と再会した。

郷原漆器のことは郷原漆器のウエッブサイトを見たほうが、私が拙い文章で綴るよりもわかりやすいだろう。特筆すべきは、今日の講演をされた高山氏のことである。1926年生まれだが、今なお現役で漆器作りもされ、こうして講演にも飛び回っておられる。ご自身で車を運転してどこへでもお出かけになるのだそうだ。尤も、警察のほうからは「そろそろ」という話が無いわけでもないらしいし、今日の講演もご自分で車を運転して来るおつもりだったようだが、台風直撃の最中ということもあり、主催者の強い要請に応えて主催者側が用意したタクシーでいらっしゃったとのことである。とにかく、活力が漲っておられるような印象で、その話ぶりに思わず惹き付けられた。こういう講演を聴くと、聴衆を惹き付けるのは、話術とかプレゼンの小道具類といった表層のことではなく、何事かを相手に伝えたいという熱意に勝るものはないということを思い知らされる。高山氏は今回の講演のためにパワポでプレゼン資料を準備され、ノートPCを持参されてきた。「パワポでプレゼン」というのは今や当たり前のようだが、氏の年齢を考えれば、その意気に圧倒される思いがした。翻って、自分は何事かを相手に伝えなければならないときに、どれほど伝えるための努力をしてきただろうかと、おおいに反省させられた。さらに、自分にはそこまでの熱意で誰かに伝えたいと思うようなものがあるのだろうかと悄然とした。

小谷真三氏は昨日、岡山県三木記念賞を受賞されたばかりだ。この賞は地域社会の発展に貢献した人や団体を顕彰するものだそうだ。今日の地元紙「山陽新聞」には小谷氏をはじめとする受賞者のことが特集されていた。氏が始めた「倉敷ガラス」は岡山を代表するガラス工芸ブランドのひとつだが、そのはじまりは知人に勧められて作ったコップを当時の倉敷民芸館長である外村吉之介氏に見せたことだそうだ。そのとき、外村館長が喜んでくれたのを見て、小谷氏の気持ちが動いたということらしい。物事の始まりというのは、人と人との出会いだと思う。倉敷ガラスは分業が当たり前の吹きガラス器制作にあって、全工程を一人で行う。作るのは一人でも、作ったものが作った人以外の目に触れないことには何も始まらない。目に触れただけでも始まらない。
「職人が作った物は、その魅力を自然に語る」
そういう語りかけてくるような物があって、その声を受け止める感性を持った人がいて、そういう出会いのなかから何かが始まるのである。出会いがなければ始まらないが、出会いがあれば必ず始まるというわけにはいかないところが悩ましい。

鼎談は日本民藝館の杉山氏が司会進行役で柴田氏と武内氏から話を引き出すという形式だった。柴田氏も武内氏も陶芸家なので、大変興味深くお話を伺った。ただ、鼎談なので内容にまとまりがあるわけではない。「大変興味深い」の中身は個別具体的な断片のようなもので、それは言葉できれいにまとまるようなものではない。生活のなかのけっこう大事なことというのは、そういう非言語的なものであったりするものだ。

民藝夏期学校 倉敷会場 初日

2011年09月02日 | Weblog
公開講座 「民藝の未来形 試論と提案」 松井健(東京大学東洋文化研究所教授) 倉敷市立美術館講堂
大原美術館工芸館 見学
倉敷民藝館 見学
懇親会 倉敷アイビースクエア

倉敷を訪れるのは今回が初めてで、岡山県を訪れるのも3回目だ。東京から新幹線のぞみで3時間25分で岡山に着く。そこから在来線に乗り換えて、16分で倉敷駅だ。美観保存地区などのある駅南口には、天満屋倉敷店と商業ビルがロータリーを挟んで建っている。その風景に特段特徴はない。どこの地方都市にもありそうなものだ。

駅前から美観保存地区まではアーケード商店街になっているが、他の地方都市の例に漏れずテナントが入っていないところが目立つ。なかにはテナントどころか建物そのものが無く、駐車場になっているところもある。この地域の人々が日常の買い物をどこでするのか知らないが、個人商店や零細な商店が選好されないのは確かなようで、地図を見れば周辺にロードサイド店舗が点在する。かつてチボリ公園というアミューズメント施設だった場所はセブン・アンド・アイを中核とする複合商業施設として近く再稼働するらしい。そうなると、南口のほうはますます観光客への依存度を大きくせざるを得なくなるのだろう。観光客という不安定なものでも、観光客を惹き付ける材料に事欠く他の地方都市に比べればはるかに恵まれている。しかも、温暖な気候に恵まれた歴史のある土地なので美観地区という外観だけではなく、食べるものにも工芸品などにも長く愛されているものがある。大阪あたりからなら、新幹線を利用すれば1時間ほどの距離である。観光とは言っても日常のちょっとした延長の感覚で訪れる人を増やすこともできるのではなかろうか。

最初の目的地は倉敷市立美術館。ここの講堂で今回の最初のプログラムである松井健東京大学教授の講演を聴く。民芸をテーマにした講演では、必ず柳宗悦のことが取り上げられる。今回も例外ではないが、学者の話なので引用元が明確に示されているのが、後になってものを考えるときなどに役に立つので、ありがたい。この講演では松井先生ご自身の生活の場を撮影した写真も使いながら現代の生活のなかで民芸がどのようにかかわることができるのかということも話題にされていたのが興味深かった。さらに講演では古道具坂田にまで言及されていた。坂田和實については、その著書「ひとりよがりのものさし」と美術館「as it is」のことをこのブログのなかで何度か取り上げているので、ここでは書かないが、美しいということを考えるときの恰好の人物であると思う。

松井先生の講演のなかで柳の書いたものがいくつか資料として使われていた。そのなかから、自分の琴線に触れたところをひとつだけここに引いておく。
「不断使いだから、何でもかまわないと云う人がある。自宅使いのものに、いい品物は使えないと云う人がある。だが、不思議にも、そう云う人達は、客にすらろくな品を用いない。よいと思っている品物にも、殆ど正しいものがない。よそいきの場合だけいい品を用いると云うのは、自然な成り行きとも云えるが、実際には、案外内容を伴わないものである。平常が不信心で、寺に於いてだけ声高く名号を唱えたとて、信心の生活は示されてはいない。」(柳宗悦「見るものと使うもの」)
「もの」について語っているように見えるが、「もの」を「ひと」に置き換えても通じるものがある。自分がこの先どれほど生きるのか知らないが、それほど長くもないだろうから、文字通り一生懸命に自分の身の回りを吟味して生きていきたいものである。

宿舎は倉敷アイビースクエア内のホテル。ここは明治時代に建てられた倉敷紡績の紡績工場を観光施設に転換したもので、2007年に近代化産業遺産の認定を受けた。宿泊棟の壁の一部は工場当時のものがそのまま使われているらしく、年季の入った煉瓦がむき出しになっている。その肌合いが却って新鮮に感じられ、また、時空を超えた奥行きのようなものも感じられる。おそらく、工場だったところを更地にして新たに建設したほうが安くあがっただろうが、敢えて手間隙をかけたことに、関係者の意気のようなものがあるのだろう。

懇親会では豊田会場のときと同じように各テーブルにマイクが回った。今回は仙台で民芸品店を営んでいるご夫婦が参加されていて、震災のときのことが話題になった。その店は仙台市街にあるため比較的早く再開できたそうだ。被災した店舗のなかを片付け、商品を並べ直しているとき、商品を手にすることで安心感を覚えたというのである。手仕事のものというのは、なぜか手にしたときに作り手の息づかいが伝わってきて、自分はひとりではないというような心持ちを与えてくれる、というようなことはよく聞くことである。物が語りかけてくるような感覚というものは、誰もが感じることではないだろうが、私のような愚鈍な者でも、たまにははっとすることがある。はっとすることが生きるということではないだろうか。