飯田さんの個展「melting borders」にお邪魔してきた。飯田さんも勤め人でありながら、創作活動にも従事されておられる。私ごときと一緒にしては失礼かもしれないが、勤めを持ちながら創作も、というところになんとなく連帯感のようなものを覚えている。昨年と一昨年の個展のタイトルが「Ambivalent Images」であり、今回は社会との関係というところを一歩深く意識されているように感じられた。
会場にあったチラシから引用させていただく。
「私たちの生活のあらゆる領域において境界線(borders)の消失(melting)が起きつつあります。例えば、経済いのグローバル化はもはや国ごとの経済政策というものを無効とし、それは更には各国の文化的基盤をも侵食していきます。また、インターネット上で広く浸透しつつあるソーシャルネットワークサービスは、国境という意識を失わせるだけでなく、個々人の過去と現在、ビジネスとプライベートなど、従来は分断されていたものを一つに結びつけていきます。
こうした境界線の消失は、新しい可能性を切り拓く一方で、従来のアイデンティティの枠組みを国家レベルから個人レベルまで危機に陥れることになります。境界線が消失していく流れ自体は変えられないものの、私たちはその意味をしっかり認識した上で対処していかなければ、自らを見失うこととなります。」
当然に反論が出てきそうな文章だが、ひとそれぞれの認識や理解があるのだから、これはこれで立派な見解だと思う。しかも、そうした認識を絵画で表現しようというのだから、その意気や仕事には相応の敬意が払われて然るべきだと思う。身近にこういう人がいるということが、自分の作陶にもおおいに刺激を与えることにもなるし、素朴に嬉しい。
10年前の今日はあの事件の日でもある。事件の当時は、私も単純にイスラムの論理と西欧の論理との対立という図式でしか理解していなかったが、今から思えば、「melting borders」の一例なのだろうと思える。
文化というのは価値の体系である。体系というからには、別の体系とは本来的に排他的な関係になるということだ。体系というのは世の中にひとつだけだから「体系」というのであり、体系と体系が重なるということは論理としてあり得ないことである。文化というのは、個人の価値観というレベルでも存在するし、集団としても存在する。尤も、その集団というのは必ずしも「国家」とか「民族」という形態であるとは限らない。また、価値観というのは論理的な体系ではなく、ある集団のなかで共有される幻想のようなものだろう。だから集団、例えば国家というのは時代とともに変容するのであり、同じ民族どうしでも内部で対立することもあるのである。
人が物事を考えるとき、そこに価値の体系という尺度があるからこそ「考える」という行為が成り立つ。ということは、自分が拠って立つ体系や幻想を超えて存在するものを理解することは不可能だということだ。自己の価値体系に反するものが存在するということは、その価値体系の存在が否定されるということであり、その体系に拠って立つ自分が否定されるということになる。つまり、異なる文化が共存することはあり得ないのである。その結果、殺し合ったり無視しあったりするようなことが起こるのである。
一方で、あの事件を起こしたほうの価値体系もかなり怪しいものであることが、事件そのものからわかる。複数の旅客機を同時に乗っ取って、多くの人が働く巨大商業ビルや権力の中枢を象徴する施設を破壊する、つまり高効率に大量破壊行為を行うというのは、大量生産あるいは資本の論理と同じことだ。イスラム原理主義というものがどのような価値体系を持つものなのか知らないが、市場原理に基づいて動いている社会に反対する立場であるならば、少人数で定期旅客航空機を乗っ取って大都市に立地する巨大商業ビルに突入するという、高レバレッジの市場主義的殺戮行為を実行するというのは、その価値体系内部に重大な破綻を抱えているということになる。つまり、敵対する勢力と同じ思考で動いているということだ。それは同じ穴の狢が単なる縄張り争いをしているのと同じことであり、どれほど屁理屈をこねようが、そこに正義はない。
ところで、我々の生活のなかの境界線は本当に消失しているのだろうか。市場原理すなわち競争原理が行き渡ることで、人の有り様というのは孤独あるいは孤立の度合いが強くなっているのではないだろうか。SNSで会ったこともない奴と「友だち」ごっこができるというのは、身近にあるはずの個別具体的な人間関係が希薄になっていることの裏返しではないのか。いわばSNS上の人間関係が最後の砦になってしまっているのではないだろうか。私が人一倍我が儘というだけのことなのかもしれないが、話の通じる相手などそうそういるものではない。面と向かって五感を総動員して人と対峙してみたところで、容易にその相手というものがわからないのに、ネット上の言葉の断片の投げ合いだけで「友だち」と呼べるような相手などできるはずがない。もちろん、自己のありようは人それぞれなので、私とは違って豊穣な人間関係に恵まれている人のほうが世の中には多いのかもしれない。しかし現象面を見れば、孤立や孤独の影がちらつく妙な事件が多いのも事実である。過激な思想に酔うというのも、あるいは孤立無援な状況に陥っていることの証左ではないのか。そんなふうに考えると、消失しているのは境界ではなく、人そのものなのではないのか、とさえ思えてくる。
会場にあったチラシから引用させていただく。
「私たちの生活のあらゆる領域において境界線(borders)の消失(melting)が起きつつあります。例えば、経済いのグローバル化はもはや国ごとの経済政策というものを無効とし、それは更には各国の文化的基盤をも侵食していきます。また、インターネット上で広く浸透しつつあるソーシャルネットワークサービスは、国境という意識を失わせるだけでなく、個々人の過去と現在、ビジネスとプライベートなど、従来は分断されていたものを一つに結びつけていきます。
こうした境界線の消失は、新しい可能性を切り拓く一方で、従来のアイデンティティの枠組みを国家レベルから個人レベルまで危機に陥れることになります。境界線が消失していく流れ自体は変えられないものの、私たちはその意味をしっかり認識した上で対処していかなければ、自らを見失うこととなります。」
当然に反論が出てきそうな文章だが、ひとそれぞれの認識や理解があるのだから、これはこれで立派な見解だと思う。しかも、そうした認識を絵画で表現しようというのだから、その意気や仕事には相応の敬意が払われて然るべきだと思う。身近にこういう人がいるということが、自分の作陶にもおおいに刺激を与えることにもなるし、素朴に嬉しい。
10年前の今日はあの事件の日でもある。事件の当時は、私も単純にイスラムの論理と西欧の論理との対立という図式でしか理解していなかったが、今から思えば、「melting borders」の一例なのだろうと思える。
文化というのは価値の体系である。体系というからには、別の体系とは本来的に排他的な関係になるということだ。体系というのは世の中にひとつだけだから「体系」というのであり、体系と体系が重なるということは論理としてあり得ないことである。文化というのは、個人の価値観というレベルでも存在するし、集団としても存在する。尤も、その集団というのは必ずしも「国家」とか「民族」という形態であるとは限らない。また、価値観というのは論理的な体系ではなく、ある集団のなかで共有される幻想のようなものだろう。だから集団、例えば国家というのは時代とともに変容するのであり、同じ民族どうしでも内部で対立することもあるのである。
人が物事を考えるとき、そこに価値の体系という尺度があるからこそ「考える」という行為が成り立つ。ということは、自分が拠って立つ体系や幻想を超えて存在するものを理解することは不可能だということだ。自己の価値体系に反するものが存在するということは、その価値体系の存在が否定されるということであり、その体系に拠って立つ自分が否定されるということになる。つまり、異なる文化が共存することはあり得ないのである。その結果、殺し合ったり無視しあったりするようなことが起こるのである。
一方で、あの事件を起こしたほうの価値体系もかなり怪しいものであることが、事件そのものからわかる。複数の旅客機を同時に乗っ取って、多くの人が働く巨大商業ビルや権力の中枢を象徴する施設を破壊する、つまり高効率に大量破壊行為を行うというのは、大量生産あるいは資本の論理と同じことだ。イスラム原理主義というものがどのような価値体系を持つものなのか知らないが、市場原理に基づいて動いている社会に反対する立場であるならば、少人数で定期旅客航空機を乗っ取って大都市に立地する巨大商業ビルに突入するという、高レバレッジの市場主義的殺戮行為を実行するというのは、その価値体系内部に重大な破綻を抱えているということになる。つまり、敵対する勢力と同じ思考で動いているということだ。それは同じ穴の狢が単なる縄張り争いをしているのと同じことであり、どれほど屁理屈をこねようが、そこに正義はない。
ところで、我々の生活のなかの境界線は本当に消失しているのだろうか。市場原理すなわち競争原理が行き渡ることで、人の有り様というのは孤独あるいは孤立の度合いが強くなっているのではないだろうか。SNSで会ったこともない奴と「友だち」ごっこができるというのは、身近にあるはずの個別具体的な人間関係が希薄になっていることの裏返しではないのか。いわばSNS上の人間関係が最後の砦になってしまっているのではないだろうか。私が人一倍我が儘というだけのことなのかもしれないが、話の通じる相手などそうそういるものではない。面と向かって五感を総動員して人と対峙してみたところで、容易にその相手というものがわからないのに、ネット上の言葉の断片の投げ合いだけで「友だち」と呼べるような相手などできるはずがない。もちろん、自己のありようは人それぞれなので、私とは違って豊穣な人間関係に恵まれている人のほうが世の中には多いのかもしれない。しかし現象面を見れば、孤立や孤独の影がちらつく妙な事件が多いのも事実である。過激な思想に酔うというのも、あるいは孤立無援な状況に陥っていることの証左ではないのか。そんなふうに考えると、消失しているのは境界ではなく、人そのものなのではないのか、とさえ思えてくる。