世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。
記録的な暴風雨を伴って日本列島に上陸した台風19号の残した爪痕は痛ましく、河川の氾濫は多くの方々の尊い命を奪い、人々の生活の基盤を根こそぎにしました。この場を借りまして、犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。また、行方不明の方々の一刻も早い救出を願ってやみません。
ここ数年来、異常気象と称される自然災害が世界各地で頻発しており、地球規模の気候変動の問題として認識されてきました。その多くは、温暖化ガス削減問題とリンケージされ、環境問題は、全世界が取り組むべきグローバルな政治課題の先端領域として位置付けられてきたのです。もっとも、温暖化の原因については科学的な見地から異論も多く、二酸化炭素の排出量を大幅に削減したとしても、異常気象が消えてなくなる保証はありません。太陽の活動を含む宇宙的な変動に原因があるならば、人の力は微々たるものであり、削減努力も全く無駄に終わってしまうかもしれないのです。
仮に真の原因が不明であるならば、異常気象の問題は、グローバルな課題ではなく極めて国内的な政治課題へと転じます。何故ならば、自然災害から人々の命や生活を護ることこそ、統治の基本的な役割の一つであり、国家の存在意義でもあるからです。国家が誕生した理由については、古来、多くの思想家たちが思索を続けてきましたが、あらゆる物事がそうあるように、存在意義を理解するにはその‘必要性’を探るのが一番の近道です。
人類史を振り返りますと、農業と共に文明が誕生し、小規模ながらも国家も出現します。狩猟採取という移動形態から定住形態への移行は、土地、あるいは、空間の維持・管理という必要性を人々にもたらすのです。永続的に農業を営むためには、多数の人々の労力と組織化を要する治水や灌漑等が必要不可欠な作業となりますし、水利に関する権利を調整する必要も生じます。また、人々が集住するに至ると、衛生管理のための施設や道路や橋などの交通インフラの整備をも要するようになり、やがて、これらの公共施設を基盤として商工業といった新たな産業も生まれてきます。言い換えますと、人々の生活を豊かにし、公共の問題を解決するためにこそ統治機能を要したのであり、およそ定住地と一致する社会空間を範囲として国家の枠組が形作られ、そして、これらの機能を果たすための公的組織としての政府が設けられたと考えられるのです。このように国家の誕生を簡単にスケッチしますと、民主的政体こそが、最も国家の存在意義と合致する国家体制であることが自ずと理解されましょう。独裁者による権力と富の独占とは公共物の私物化であり、人々から統治権を簒奪する行為に等しいのです。
今般の自然災害の頻発は、今日の政治の在り方にも警鐘を鳴らしているように思えます。グローバリズムの掛け声の下で地方のみならず国土そのものが蔑にされ、自然の猛威に晒されるままとなりました。政府にとりましては、自国経済の衰退や国土の荒廃を防ぐよりも、親自由主義を基調とするグローバリズムへの迎合こそが優先課題であったのでしょう。政策運営をみましても、国土の保全に予算を厚くするよりも、水道事業やエネルギー事業をはじめインフラ事業の民営化や自由化に躍起になっています。本来、公共性の高いインフラ整備・保全こそ国民に利益が均霑し、それ故に国費を費やすべき事業なのにも拘わらず…。一方、リベラルを任じる人々も、LGBTやジェンダー・フリー、グローバルな地球環境問題、移民や多文化共生といった、特定の分野にしか関心を示しません。何れの政治家も、国家や統治が人々のために存在していることなど頭にないようなのです。
台風19号の被害状況が明らかになるにつれ、地震災害にも劣らず水害からの復興にも長期的期間と多大な費用を要することが判明してまいりました。相次ぐ天災は、グローバル偏重の果ての国民並びに国土に冷たい政治を憂い、あるいは国民と国土を護る政治への回帰を促す天からのサインであったのかもしれません。そしてそれは、日本国のみならず、全世界の諸国にも共通して言えることではないかと思うのです。
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今月7日、北朝鮮の労働党機関紙である労働新聞は、同国のトップに座す金正恩党委員長を‘希世の思想家・理論家で ある’として讃える署名入りの論説を掲載したそうです。同委員長が、何らかの政治思想を説いたとも、政治学上の理論を提示したとも聞いておらず、また、同国は、共産主義と主体思想が融合した奇妙なイデオロギー上の‘キメラ国家’として知られていますので、歯の浮いたような賛辞は、同委員長の権威を高めるための宣伝文句の一つに過ぎないのでしょう。
そして、ここでふと考えたのが、仮に、金正恩委員長が‘稀有の思想家・理論家’であるならば、自らの地位を正当化することができるのか、という問題です。これは、統治の正当性の問題でもあるのですが、‘金王朝’とも称される北朝鮮の独裁世襲体制ほど、正当性の怪しい国家体制もないからです。
第一に、その誕生の歴史的経緯を見ますと、一代目の金日成氏は抗日運動の英雄とされながら、その実、朝鮮半島北部を占領し、北朝鮮という傀儡国家を建設したソ連邦が選んだ一青年に過ぎませんでした。北朝鮮とはフェークから始まった国であり、金一族には自らを正当化し得る歴史的事実・実績が欠けているのです。古今東西に散見されるような、自らの実力で国家を建設した‘建国の父’ですらないのですから。嘘を吐きとおすためには事実が漏れてはならず、それ故に、北朝鮮は、過酷な情報統制を敷いて国民を厳しく監視するに至ったのでしょう。
第二に、北朝鮮は、今日、およそ全ての諸国がその非合理性、並びに、致命的な欠陥から放棄した‘世襲王制’をなおも堅持しています。特定の一族による統治権力の独占とその世襲が許されるのは、マックス・ウェーバーに依れば、国民がそれを正当と認める父祖伝来の伝統を必要としますが(伝統的支配)、上述したように、ソ連の傀儡国家として誕生し、正恩氏を以ってようやく三代を数えた北朝鮮のケースでは、伝統と言えるほどの伝統もありません(しかも、この伝統に基づく正当性でさえ、人々の意識が変化すれば消えてしまうこともある…)。しばしば、世襲を擁護するために‘白頭山の血’が持ち出されていますが、白頭山とは、高麗時代に当たる13世紀末に記された『三国遺事』檀君神話に登場する古朝鮮の建国の祖である檀君の出生地であり(モンゴル、あるいは、ユダヤの影響か…)、朝鮮民族の祖ではあっても金一族が独占できる神話でもないのです。もっとも、白頭山は抗日ゲリラの拠点であったため、金一族の場合、二代目の正日氏がこの地で生誕したとする宣伝されており(実際にはソ連領内…)、ことさらに白頭山は北朝鮮の聖地とされているそうです(10日17日加筆)。
第三に、現代のように複雑化した時代にあって、一人の人物が統治に関する全ての事柄を決定する体制は、人間の能力の限界を無視した体制であり、不可能なことです。古代にあってさえ、アリストテレスは独裁体制(僭主支配)を政体の中でも最低の形態であると見なしており、現実には全知全能の‘超人’が存在しない、あるいは、存在したとしても為政者になるとは限らない以上、独裁体制は、学問上においても低い評価を下されてきたのです。しかも、近代以降、政治理論の主流は民主主義の理論化にありますので、金委員長が、人類の発展方向に抗する逆行、あるいは、退行現象とも言える独裁を理論化し、万民を納得させて正当性を得ることができるとは思えません。金委員長は、その風貌からしまして‘痩せたソクラテス’からもほど遠いのです。
各国の憲法にも明記されていますように、現代国家における統治の正当性は、国民の合意に求められています。統治機能の存在意義からしましても国民主権は動かし難く、この点を考慮しますと、民主主義なき独裁者による一方的支配は、如何なる思想家、あるいは、理論家であってもこれを正当化することはできないのです。中国でも、習近平国家主席に対して同様の賛辞が贈られていましたが、共産主義国家における‘思想家’や‘理論家’とは、一般的な定義とは違い、神格化された独裁者個人の思想や理論を絶対視する時の表現なのかもしれません。何れにいたしましても、かくも非合理的な国家体制が未来永劫に亘って続くとは思えないのです。
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米中貿易戦争の背後には、両国間の政治的対立が控えていることは周知の事実であり、この対立には、国家体制、すなわち、価値観の違いが色濃く反映されています。国家体制とは、統治機構においてその国が希求する諸価値が具現化されることで、自ずと違いが生じてくるからです。仮に、中国がアメリカとの闘いを制し、世界の覇者として君臨するに至るとすれば、他の諸国にも同体制が押し付けられることは目に見えています。この予測は、米中対立は当事国となる二国間の問題ではなく、全人類の運命をも変えかねない重大な問題であることを示しています。
習近平氏が国家主席に就任して以来、中国は、毛沢東主義への回帰が顕著になってきました。毛沢東主義、それは、独裁主義といっても過言ではなく、全統治権の指導者への集中のみならず、同指導者の全人格的な絶対化を特徴としています。国家の消滅を予言したカール・マルクスは、共産主義革命の後に出現するはずの国家の体制について詳細な制度設計を伴うモデルを具体的に提示したわけではなく、既存の体制の破壊するための指南、並びに、基本的な骨格のみを描いたに過ぎませんでした。このため、ロシア革命を経て人類史において最初に誕生したソ連邦も、結局は、皇帝を頂点に官僚組織で国家を運営したロシア帝国の国家体制と変わりはありませんでした。革命で倒したはずの旧体制は、統治者が入れ替わったにせよ、革命後にあって共産主義国家の名の下で復活していたのです。しかも、皇帝以上に神格化された一個人である独裁者を伴って…。
プロレタリア独裁と云う一階級による‘階級独裁’は、いとも簡単に‘個人独裁’へと転じてしまったのですが、その理由は、マルクス自身が民主主義については確たる思い入れがなかったからなのかもしれません。仮にマルクスが民主主義の価値を深く理解し、その半生を過ごしたロンドンにあって、イギリスが育んだ議会制民主主義を評価していたならば、共産主義の国家モデルにも民主的制度を組み入れたことでしょう。否、マルクスは、イギリスの議会制度を資本家による支配の道具として切り捨てることで、民主主義そのものをも葬ってしまおうとしたのかもしれません。何れにしても、共産主義国家は、民主主義に対して冷淡であり、統治システムとして個人独裁を選択するのです(もっとも、民主主義に対する冷たさは資本主義も同じ…)。
しかしながら、今日の学問や科学技術の発達は、悉く個人独裁がナンセンスであることを立証しています。一人の個人が他の人々に抜きんでた超越的能力を有し、それ故に、その個人が国家権力を独占できることを科学は証明しません。仮に独裁者がこれを科学的に立証しようとすれば、自らの遺伝子情報を全面的に開示し、遺伝子上に他の人には存在しない突然変異、あるいは、祖先から受け継いだ特異遺伝子があることを示す必要がありましょう。しかも、その遺伝子が統治能力に関わるものであることを証明することはさらに困難です。科学的な証明が不可能、かつ、自らの能力の限界を認識しているからこそ、今日の独裁者は、AIを以って自の能力不足を補おうとしているのかもしれません。『1984年』に登場するビッグ・ブラザーの実像を誰もが知らなかったように…。
かくして科学が独裁体制を否定するとすれば、残るは合理主義を捨てて人々の心を操作する、あるいは、言動を強制する方法です。つまり、国家の強制力を用いて個人崇拝を強要し、カルト信者になることを全国民に強いるのです。国民の内の数パーセントは洗脳されてカルト信者になるのでしょうが、理性を有する一般の人々にとりましては恐ろしいまでの精神的な苦痛です。全ての言動がチェックされ、独裁者や国家体制を批判しようものなら命を失いかねないのですから。最悪のブラック企業よりもさらに過酷なブラック国家となり、救いはどこにもなく、発展の道も閉ざされてしまうのです。全ての人々は、独裁者の個人的な意思に従わざるを得ず、政治的自由が喪失した空間では民主主義も死に絶えましょう。
近い将来、中国、あるいは同国を支える勢力が覇権を握る事態に至れば、全世界の諸国が全体主義化し、ブラック国家となることを意味します。直接に支配しないまでも、自らのクローンのような独裁者を各国に配置し(既に北朝鮮等に存在…)、裏から見えない糸で操ることでしょう。今日、大国の対立にも増して、日本国を含めて全人類が関心を寄せるべきは、忍び寄る恐怖、あるいは、狂気の支配ではないかと思うのです。
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先日、日本海の大和堆において日本国の水産庁の漁業取締船と北朝鮮の漁船が衝突した件について、北朝鮮側は、日本国政府に対して謝罪と賠償を求めたと報道されています。同事件が発生した場所は日本国のEEZ内ですので、国際法に照らせば、日本国政府が北朝鮮に対して謝罪と賠償を求めるべき立場にあります。
自らの立場を加害者から被害者に逆転させてしまう北朝鮮の倒錯した思考(メビウスの輪思考?)は今に始まったことではありませんが、北朝鮮は、日本国の権利を侵害していることは疑いなき事実です。EEZ内においては沿岸国が漁業権に関しても主権的な権利を及ぼすことができますので、北朝鮮の漁船による操業は違法行為、即ち、密漁なのです。本来、日本国の漁業者が得るべき漁業資源を‘盗取’、あるいは、‘横取り’したのですから、日本国側には実質的な損害が生じています。日本国政府には、沿岸国にEEZに対する権利を保障する国連海洋法条約を根拠として、北朝鮮政府に対して自国漁船の取り締まりを強化すると共に、密漁から発生した日本国側の損害について賠償するよう請求する正当なる権利を有するのです。
もっとも、一つだけ問題があるとしますと、それは、北朝鮮が上述した国連海洋法条約を批准していない点です。想像されるのは、国連海洋法条約の非加盟国の立場を利用して、北朝鮮が他国のEEZを認めていないということです。この立場からしますと、‘全ての海域が北朝鮮の漁場’と云うことになり、EEZなどお構いなしなのです。近年、日本国のみならずロシアなど周辺諸国のEEZ内での北朝鮮漁船の操業が目立つのも、EEZの存在そのものを無視しているからなのかもしれません。北朝鮮という国家は、私的所有権を否定する共産主義を基盤に成立した国ですので、元より個々の権利保障に対する意識が低いのですが、国際社会においてこの立場を主張しますと、‘犯罪国家’、あるいは、‘無法国家’と認定されても致し方はありません。
それでは、北朝鮮は、頭からEEZの存在を無視しているのでしょうか。この点に関して注目すべきは、近年、北朝鮮は、中国に対して自国の漁業権を売却してしまったとする情報です。同情報は、北朝鮮による密漁の増加に対する説明としてしばしば指摘されるのですが、北朝鮮が中国に売り払ってしまったと漁業権があるとすれば、それは、同国の沿岸から200カイリの水域、即ち、EEZに当たる水域における権利と想定されます。何故ならば、領海は僅か12カイリに過ぎませんので、中国漁船が北朝鮮周辺海域で操業を行うだけのメリットはないからです。乃ち、漁業権の売却行為は、北朝鮮が間接的であれ国連海洋法条約に基づくEEZを認めている証ともなるのです。
北朝鮮は、毎年、深刻な飢餓に見舞われ、国民の栄養状態も劣悪でありながら、食糧供給源となる漁業権を中国に売り渡してしまいました(売却で得た外貨で核・ミサイル開発?)。漁業権を売却しながら金正恩委員長は水産業に力を入れており、違法操業は‘国策’なのかもしれません。一方、北朝鮮国民の‘生命線’の一本であることを知りながら、漁業権を同国から買い取った中国もまた、北朝鮮に負けず劣らず非道な国家と言えましょう(人道を理由に北朝鮮に支援を行うぐらいならば、漁業権を返還しては…)。周辺諸国のこうした行為に対する批判をも込めて、日本国政府は、漁業権売却による食料不足を密漁で補おうとする北朝鮮に対しては、司法的な措置を含め、厳しく対応すべきではないかと思うのです。
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1848年にカール・マルクスによる『共産党宣言』が出版されて以来、全世界は、資本主義対共産主義の対立構図が浸透するようになりました。とりわけ第二次世界大戦後にあっては、ロシア革命で共産化したソ連邦が超大国の一角を占め、資本主義の代表国とも言えるアメリカと覇を競ったことから、全世界は、あたかも両陣営に色分けされたかのような様相を呈するようになったのです。しかも、自由主義国と称され、民主主義を制度化してきた西側諸国の国内政治をみましても、左右両勢力の対立は国際社会における冷戦構造と相似形を成していました。つまり、戦後の政治は、国際レベルと国内レベルの両レベルにおいて、二重の二項対立を特色としてきたのです。この時代、誰もが、人類には、自由・民主主義と社会・共産主義の二つしか選択肢はないと信じていたかもしれません。
しかしながら、共産主義国のみならず、自由主義国にあってもITの発展と軌を一にするかのように全体主義化の脅威が拡がり、体制の違いが曖昧になるに至った今日、資本主義と民主主義との関係について再考してみる必要があるように思えます。資本主義と民主主義はどちらも西側陣営を構成してきた自由主義国の特徴とされてきましたが、実のところ、両者は必ずしも両立するとは限らないからです。
こうした作業の必要性は、毎年スイスのジュネーブで開かれるダボス会議をはじめ、金融財閥のメンバー、著名な投資家、グローバル企業のCEO、並びに、政治家等が参加する国際フォーラムが世界各地で開催され、これらの何れもが多様性を謳いながら画一的な未来ヴィジョンを提示するに至り、ますます強まっているように思えます。テクノロジーが容赦なく社会や人々の生き方を変えてゆく時代にあって、人類の未来は、金融グローバリスト(資本家)が決定しており(本当のところは、何処で誰が決めたのか分からない…)、人類全体に関わる重大な決定プロセスから諸国民は排除されているのです。民主主義の基盤となる参政権は有名無実化する一方で、各国の政治家は自らの地位を確かにするために金融グローバリストに阿り、彼等から課された‘課題’の達成に躍起になっているようにも見えます。消費税増税に際しての景気対策としてキャッシュレス化が組み込まれているのも、それが金融グローバリストからの要請であるからなのでしょう。また、マスメディアによる印象操作、選挙資金の提供、あるいは、選挙結果への干渉等によって、各国の政治家を実質的に選んでいるのは金融グローバリストかもしれません。そして、こうした国際会議では、その出席者リストに多数の中国人の名が見えるように、国家体制の違いなど全く問題にされないのです。人類の未来は、民主主義なき世界の一択しかないかのようです。
民主主義の形骸化が発生した要因を突き詰めますと、資本主義と民主主義を一対として捉えてきた既存の認識に誤りがあったとしか言いようがありません。そもそも、資本主義か社会・共産主義かの二者択一の構図こそ、どちらを選んでも非民主的体制に行き着いてしまう巧妙な二頭作戦であったかもしれないのです。体制の違いに関わりなくテクノロジーが人々を支配する道具と化す新種の全体主義が忍び寄る今日、人類は、如何にして自由と民主主義を、そして、人間らしさを取り戻すのか、真剣に考えるべき時に至っているのかもしれません。
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ストックホルムでの米朝実務者会談が不調に終わって以来、北朝鮮のアメリカに対する態度は俄かに敵対姿勢へと転じています。対米配慮として凍結していたICBMの発射実験の再開さえ匂わせており、トランプ大統領が示してきた度重なる金正恩委員長に対する好意も今では空しさが漂います。それでは、何故、北朝鮮は、同会談を機に態度を豹変させたのでしょうか。
結論を先に述べますと、北朝鮮にとりましての二度に及ぶ米朝首脳会談は、やはり、自らの核戦力を確かにするための時間稼ぎではなかったのか、ということです。ここで思い起こされますのは、1994年の米朝核合意です。この時、北朝鮮は、KEDOを枠組みとした軽水炉の提供、並びに、エネルギー・食糧支援等と引き換えに、核開発の平和利用への転換に合意しました。本来、同合意によって北朝鮮の核問題は完全に解決するはずでした。しかしながら、両国の合意内容には‘抜け道’が忍び込ませてあり、結局、枠組み合意の文書は空文化してしまいます。核兵器の開発方式にはウラン濃縮型とプルトニウム型の二つがあるのですが、合意文書は、後者しか対象としていなかったからです(もっとも、北朝鮮は、ウラン濃縮型も開発を継続…)。
94年の枠組み合意の前例を今般の米朝首脳間における‘暫定合意’に当て嵌めますと、プルトニウム型がICBMに、そして、ウラン濃縮型がSLBMに当たります。乃ち、‘ICBMでなければ核ミサイル開発は許される’とする縮小解釈であり、こうした詐術的な言い訳は、両首脳間の交渉や合意文書の文言造りの段階で既に巧妙に準備されていたと推測されます。北朝鮮は、できうる限りアメリカ側に察知されないよう、‘SLMB外し’を上手に誘導したことでしょう。
そして、北朝鮮の準備周到な合意文書作りの意図とは、おそらく、アメリカを直接に脅せるレベルの核開発に成功するまでの間、アメリカの動きを‘自制させる’ということなのでしょう。合意とは、当事者自らの行動をも拘束しますので、合意が維持されている限り、否、アメリカが合意を遵守している限り、北朝鮮は、‘安全に’核・ミサイル開発を進めることができます。その結果が、今般のSLMBの開発であったのかもしれません。軍事専門家によりますと、今般の実験は、潜水艦発射型ではなく固定式のミサイル発射台からの試射であったともされますが、アメリカを正面切って脅すような北朝鮮の豹変ぶりを見ますと、SLBM開発が相当のレベル、即ち、米本土に対する直接的な核攻撃を可能とするレベルに達しているようにも思えます。
このことは、ポーズとしては話し合いによる核問題の解決に意欲を見せているように見せながら、金正恩委員長は、先代の金正日の遺訓を受け継いでいることを示しています。「核と長距離ミサイル、生物化学兵器を絶えず発展させ、十分に保有することが朝鮮半島の平和の維持する道であることを肝に命じよ」という…。そして、この方針が北朝鮮の絶対不変であるならば、朝鮮半島からアメリカの影響力を排除しようとする方針も引き継いでいるはずです。言い換えますと、表向きはどうあれ、北朝鮮には、核・ミサイル開発・保有を手段とする対米脅迫いう選択肢しかないのです。遺訓には、‘米国との心理的対決で必ず勝利しなければならない’とする一節があるそうですが、この‘心理的’という表現に、アメリカも国際社会も注意を払うべきでした。この言葉には、詐術的な手法の容認が含意されているのですから。
本記事の推測が正しいかどうかは今後の成り行きを見ないと分からないのですが、信義を重んじる一般の国とは違い、全体主義国家との交渉にあっては、‘時間稼ぎリスク’は格段に上昇します。この点は、イランとの交渉についても同様かもしれません。北朝鮮との合意成立に淡い期待を寄せるよりも、交渉以外での解決方法を模索する、あるいは、最悪の事態に備えた方が賢明なように思えるのです。
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名古屋市美術館では、2010年から3年ごとに現代アートの祭典である‘あいちトリエンナーレ’が開催されています。開催年に当たる今年も「情の時代」をテーマに、映像プログラムやパフォーミングアーツ、音楽プログラムなど多彩な分野の作品が顔を揃えたのですが、その一部として企画された「表現の不自由展・その後 」が、日本国政府をも巻き込む大騒動へと発展しました。驚くべきことに、韓国人アーティストによる慰安婦像や昭和天皇の映像を燃やす映像なども展示されたのですから。
現代アートの祭典なだけあって、トリエンナーレには‘芸術とは美の追求である’とする古典的な概念や常識的な美意識に挑むかのような作品が多く展示されており、人々の日常的な感覚を狂わす、あるいは、常識を覆すような効果を狙っているのでしょう。今年のテーマは、‘情’ですので、見る人の共感を呼ぶものであれ、逆に、神経を逆なでするものであれ、感情に対するインパクトを与えることが、作者にとりまして何よりも重要であったのかもしれません。何れにしても、現代アートの世界では‘何でもあり’であり、芸術とは何か、という定義付けさえ拒絶しているかのように見えます。
こうした現代アート的な感覚からしますと、社会常識やタブーといった障壁などこの世には存在せず、アーティストが表現したいことを作品として仕上げることが至上命題となります。問題作品の作者である韓国人アーティストも、展示の地が日本であれ、‘自らが表現したいものを表現しただけ’なのかもしれません。しかしながら、この‘表現したいもの’が、自らの出身国の政治的な主張であった場合、‘同作者は芸術家なのか、それとも、政治的なアジテーター’なのか、という問題が発生します。
もっとも芸術が政治的なプロパガンダの手段となる事例は今に始まったわけではなく、戦勝を記念した壁画や彫像などは、世界各地の古代遺跡から数多く出土しています。また、中世をみてもブリューゲルの作品には政治的な寓意が込められているとされていますし、現代絵画の巨匠であるピカソのゲルニカも反戦の意思表面として理解されています。プロレタリア芸術の多くも共産主義のプロパガンダの一環として作成されており、芸術とは、得てして政治性を含むケースが少なくないのです。
しかしながら、それらが、為政者の愚かさとか、平和を願う気持ちとか、労働者の過酷な境遇とか、人類社会に普遍的に見られる一面を抉り出すような場合には、人々はそれを芸術作品として受け止めることでしょう。その一方で、戦勝国による戦勝記念の作品や、特定の国によるプロパガンダ目的の作品は、芸術性が著しく低下します。今般の慰安婦像や昭和天皇の映像焼却といった韓国という具体的な国の反日政策を‘表現’しているともなれば、俄然、政治的な色合いが濃くなるのです。
慰安婦像と言えば、韓国政府公認の下で在韓日本大使館の前に設置された少女像であり、その目的は、日本国に対する‘嫌がらせ’であることは疑う余地もありません。今般の出典作品も、新しくデザインされて製作されたものではなく、ブロンズ製であるソウルの慰安婦像のレプリカを作成し、それに彩色を施した作品です。そこには、歴史的事実はさておいて、慰安婦問題において日本国を糾弾したい、あるいは、世論を韓国寄りに導きたい韓国側の意図が透けて見えるのです。
以上に述べてきましたように、‘表現の不自由展’に見られる濃厚な政治性、即ち、韓国の反日政策の影響を考慮しますと、公費の支出について疑問が寄せられるのも不思議ではありません(過激な脅迫はいただけませんが…)。会場は名古屋市の美術館等の施設ですので、少なくとも市の予算が注ぎ込まれていますし、取りやめになったとはいえ、例年であれば、国の支援も受けるはずでした。日本国民の多くが、慰安婦問題や同国の反日政策については強い反感と不信感を懐いていますので、民主主義に照らしますと、国民や市民のコンセンサスなき予算の投入は不当な公費の支出ともなりましょう。芸術という名がついていれば無条件に支援すべきというわけではなく、芸術が政治に利用されるケースもあることは、常に留意すべきなのではないでしょうか。芸術の秋とは申しますが、あいちトリエンナーレの一件は、芸術と政治との関係という問題までをも深く考えさせられたのでした。
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10月8日付の日経オンライン版に、ソフトバンクの孫正義氏のインタヴューが掲載されておりました。そのタイトルにおいて目に留まったのは‘ビジョンファンド、夢はヒーローたちの指揮者’というフレーズです。この表現が気になった理由は、それがあまりにも矛盾に満ちているからです。
交響曲等を奏でるオーケストラを想起すれば誰もが気が付きますように、同形態の楽曲演奏では、‘ヒーロー’の役回りは一般的には指揮者であって個々の演奏者というわけではありません。舞台の前面中央の指揮台で白いタクトを振る指揮者が、楽団員全員に対して各パートの演奏を細かに指示してこそ全体がハーモナイズされ、一つの作品として仕上がるのです。このため、オーケストラによる演奏曲目は、‘○○指揮×△交響楽団による□☆交響曲’といった表現がなされています。その一方で、‘ヒーロー’にその行動を指導する指揮者が存在していたのでは様になりません。‘ヒーロー’とは自ら決断し、誰に命じられることなく自発的に、かつ、勇敢に行動してこそ‘ヒーロー’なのであり、‘ヒーロー’が同時に数十人もいては‘ヒーロー’らしくもないのです。
同インタヴューを読み進めますと、孫氏は、投資家として情報化時代をリードする革新的なビジネスを支援し、AI企業集団(オーケストラ?)を造り上げたいとする自身の‘夢’を語っているようなのです。しかしながら、その発想自体にどこか違和感があるのは否めません。この違和感、どこから来るのかと申しますと、おそらく、同氏の発想に‘ソフトな全体主義’の影が見え隠れするからなのでしょう。北朝鮮といった全体主義国では、独裁者の一声で参加者に配られたパネルが瞬時に切り替わり、全体の図画が一変するマスゲームが好んで行われていますが、これ程までに厳格ではないにせよ、全体を統括する指揮者の存在を認め、その地位にありたいとする孫氏の個人的な願望が、ある意味において、個々による自立的、かつ、自由な経済活動を認める自由主義経済にとりまして脅威となるのです。つまり、その孫氏の経済観は、経済独裁、あるいは、経済全体主義と表現できるかもしれません。
戦後、長らく続いたイデオロギーを軸としたアメリカ対ソヴィエトの政治的な対立は、経済分野にあっては資本主義対共産主義の対立として読み替えられてきました。そして、共産主義が政府による経済統制を是としたことから、その敵となる資本主義は、自由主義経済と凡そ同義とされてきたのです。しかしながら、グローバル化と情報化の同時進行を背景として登場してきたIT大手の思考パターンを見ておりますと、資本主義と自由主義は、別ものなのではないかと思うようになりました。
おそらく、上述した孫氏の経済観は投資家、特に、金融財閥を形成している投資家一般に共通しており、資本を有する投資家が経済全体を自らの望む方向に導き、投資先の個々の企業活動をもコントロールし得ると考えているのでしょう。資本主義というものが、一私人に過ぎない投資家が牽引する経済システムを意味するのであるならば、それは、政治的な民主主義とは両立しないに留まらず、真の意味での経済的な自由主義とも違っています。自由な活動主体であり、決定主体であるはずの企業を‘お金’で縛ってしまうのですから。
本来、社会には様々なニーズがありますし、科学技術の分野においても、資本家の関心を引かない人々に恩恵をもたらすテクノロジーは多々あります。また、彼らが切り捨てた、あるいは、潰すべき‘邪魔者’と見していても、人類全体にとりまして宝となる才能を有する人材も少なくないはずです。今日の投資家は、自らの描いたSFチックな未来像に沿ってITやAI分野に投資を集中し、企業に対しても、設備投資や研究開発費を同分野に注ぐように誘導し、かつ、自らのビジョンに賛同する人々しか支援しませんが、こうした利己的な態度はむしろ歪みであり、人類の可能性を狭めているのかもしれません。人類が目指すべきは、少数の資本家が経済のみならず人類の未来社会を決定する資本主義ではなく、個々が自立しており、かつ、指揮者が存在せずとも調和している、自然の生態系により近い形での自由主義経済ではないかと思うのです。
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報道に依りますと、米商務省は、中国製の監視カメラの輸入を禁止する措置を発表しました。禁輸の対象となるのは中国企業28社と公安機関であり、これら企業と機関は、アメリカ製の部品やソフトウェア等を購入することはできなくなります。さらに、監視カメラ二大大手のハイクビジョンと浙江技術を含む民間8社に対しては、取引に商務省の許可を要する「エンティティ・リスト」に指定しています。
商務省の説明によれば、同禁輸措置の理由は、中国政府によるウイグル人弾圧にあります。香港でも、香港行政府や北京政府に対する抗議活動の一環として街路に設置されていた監視カメラが破壊されましたが、ITが発展した今日、監視カメラは、中国政府や一党独裁体制に対して批判的な個人を見つけ出す顔認識システムの端末として機能しているからです。撮影した映像データをコンピュータで解析すれば、いとも簡単に個人を割り出すことができます。既に多くのウイグル人が同システムによって収容所に送られており、監視カメラは、徹底した国民監視を支配の手段とする全体主義国家にあっては、秘密警察以上の威力を発揮するのです。
禁輸措置の表向きの説明理由はウイグル人弾圧なのでしょうが、上述したように商務省がブラックリストとも言える「エンティティ・リスト」に指定したところをみますと、中国企業に対するアメリカ企業からの調達禁止のみならず、逆方向の禁輸、即ち、中国企業によるアメリカへの輸出禁止にも含みを持たせているように思えます。ドイツ銀行のレポートに依れば、ハイクビジョンと浙江技術の二社のみで全世界の監視カメラ市場の3分の1を占めており、世界各国の企業、空港、学校、官公庁のみならず、アメリカでは陸軍基地、イギリスでは地下鉄や国会議事堂にも設置されているそうです。そして、ここで思い出されますのは、ファーウエイに対する禁輸理由です。
ファーウエイが禁輸措置を受けた理由は、同社製品にバックドア等の装置が組み込まれているとするスパイ疑惑、並びに、中国において2017年6月に施行された国家情報法にあります。合法、非合法の何れであれ、輸出先国を含めて膨大な情報を収集し得るIT大手は、自らが得た情報を中国政府に提供する法的義務を負っています。ハイクビジョンも浙江技術も立場はファーウエイと同じであり、既にアメリカでは、中国製監視カメラの禁輸を求める声が上がっているのです。すなわち、中国製カメラは、全米国市民にとりまして中国政府によって個々人の情報が掌握されるという深刻な脅威なのです。
アメリカでの相次ぐ中国製品禁止措置については、日本国内では、メディアを中心に米中貿易戦争の一環とする見方が広がっており、国会の場でも、中国製品に内在する安全保障、並びに、国民保護に関するリスクについて活発な議論がなされているわけではありません(2018年2月に野党側から質問主意書が政府に提出され、政府が答弁書として回答したことはある…)。中国がグローバリズムに乗じて世界支配を目論んでいる現状を考慮しますと、日本国政府もまた、中国の魔の手から国民を護るために、中国製品の輸出入や中国企業との取引に関する規制強化を含め、情報セキュリティーに万全を期するべきではないでしょうか。
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10月5日からスウェーデンの首都、ストックホルム郊外で始まったアメリカと北朝鮮との間の核・ミサイル問題をめぐる実務者協議は、極めて奇妙な様相を呈しています。会談後に開かれた両国代表の見解は、全く逆なのですから。同じ時と空間を共有しながら、何故、かくも両者の説明は食い違っているのでしょうか。
実務者会談の席に付いたのは、アメリカ側はビーガン北朝鮮担当特別代表、北朝鮮側は金明吉首席代表の二人です。会談後の記者会見において、当初、ビーガン特別代表は、合意に向けた感触を得たかのような発言をし、北朝鮮との協議が比較的円滑に進んだことを強調しておりました。しかしながら、もう一方の金明吉代表は、同氏の発言を真っ向から否定し、協議は決裂したと説明しています。アメリカ側が北朝鮮側も合意したとする、スウェーデン政府による2週間後の再協議提案の受け入れも否定しており、先行きは、さらに不透明になりました。金代表曰く‘対朝鮮敵視政策を完全かつ不可逆的に撤回する実質的な措置を取るまで協議する意欲はない’というのですから。‘完全かつ不可逆的’というフレーズは、‘検証可能な’という表現は欠けているものの、アメリカが核放棄の方法として北朝鮮に対して要求してきたCVIDの意趣返しであることは確かです。
両国間の相違を生んだ理由として推測されるのは、会談直後、両代表の合意内容を聞き知ってそれに不満を抱いた‘何者か’による介入です。その理由は、北朝鮮の言い分は時間が経過するにつれて過激さがエスカレートしているからです。会談が終了した直後の5日にはアメリカに対して一方的に責任を押し付ける声明を読み上げるに留まっていましたが、上述した‘完全かつ不可逆的’の発言が飛び出すのは翌6日です。さらに、7日に至りますと、帰途の経由地である北京空港において記者団を前に「米国がきちんと準備できないなら、どんなひどい出来事が起きるか分からない」と述べています。この発言は、明白なる対米脅迫です。北朝鮮側は一切の妥協を拒否し、アメリカに対して譲歩するよう迫っているのです。SLBMの実験は、北朝鮮がこの日のために準備した脅迫手段であったのかもしれません。
それでは、北朝鮮の態度を硬化させたのは、‘何者’であったのでしょうか。もちろん、金代表に交渉を任せつつも、平壌において逐次報告を受けていた金正恩委員長が、協議内容、あるいは、金委員長の対米融和的な態度に不満を抱き、即、その破棄を金代表に命じたのかもしれません。会談終了後の5日6時半頃に金代表が‘決裂’を公表したのは、北朝鮮大使館前であり、しかも声明を読み上げる形でしたので(既に誰かが声明文を作成している…)、本国からの指令を受けた可能性も否定はできません。
あるいは、中国経由で帰国の途に就いていますので、習近平主席からの介入があったとも考えられます。折も折、6日には、中朝国交70年を記念して両国の首脳が祝電を交換しています。双方とも両国間の絆を強調しており、中国側から今般の対米融和的な協議の継続に釘を刺されたのかもしれません。北京空港での金代表の‘脅し文句’は、アメリカではなく、習主席に向けた最大限の対中友好のアピールであった可能性もあるのです。
以上の推測の他にも、北朝鮮利権に関連して、何らかの国際組織が米朝協議の決裂を望んだのかもしれず、介入者の姿は判然とはしません。もしくは、単に北朝鮮側が虚偽の発言をしている、あるいは、米朝が結託して茶番を演じている可能性もあり、真相は藪の中のです。しかしながら、少なくとも独裁国家と実務者レベルで交渉しても、事態を混乱させるのみであり、むしろ、独裁国家側に翻弄されて目的を見失い、巧妙に北朝鮮有利に誘導されてしまう可能性の方が高いように思えるのです。
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香港では、緊急法を根拠に覆面禁止法を制定したことから、香港政府、並びに、北京政府に対する反発がさらに強まる事態を招いています。今後の展開の予測も難しく、先を見通せない状況が続いておりますが、ここで、覆面禁止という政府側の措置の意味について考えてみたいと思います。
本来、誰もが、自らの国の在り方について、自由に意見を述べ、かつ、行動することができるはずです。つまり、顔を隠す必要など全くなく、公衆を前にして堂々と自らの姿を晒すことができる状態こそが‘普通’であり、自由で民主的な国の在り方なのです。そして、この自由があってこそ、国民は、より善き国家の実現に向かって歩むことができます。自由主義体制の国の国民にとりましては、政治的自由は空気のようなものであり、誰もが強くは意識しなのですが、全体主義体制や権威主義体制にあっては、この政治的な自由は抑圧されています。前者にあっては暴力や威嚇を含む強制力によって、後者にあっては如何に虚飾や欺瞞に満ちたものであれ権威をかざすことで、国民からこうした自由を奪っているのです。つまり、体制自体が、国家並びに国民の発展を拒む最大の阻害要因となるのです。
香港の問題は、まさに自由主義体制から全体主義体制への移行という、人類史の一般的な流れからしますとそれに逆行する現象において起きています。1989年に始まる東欧革命とそれに続くソ連邦の解体は、全体主義の終焉と消滅を予測させるに十分な出来事でした。その一方で、1997年の香港返還には、50年間と云う期限付きであれ一国二制度を認めつつも、長期的には自由主義体制が全体主義体制に飲み込まれるリスクが伴っていたことは、否定し得ない負の側面です。言い換えますと、50年の間に中国本土が民主化する、北京政府が50年経過以降も一国二制度を認める、あるいは、香港が独立する以外、この懸念は、遅かれ早かれ現実のものとなるのです。
香港が、全体主義体制への転換を迫られている現状を考慮しますと、覆面禁止法には、どのように対処したらよいのでしょうか。北京政府は、ほぼ完ぺきな顔認証システムを手にしていますので、覆面を外して素顔となれば、抗議活動への参加者の一人一人が特定され、後々、政府当局によって弾圧を受ける可能性があります。このため、香港では、覆面禁止法が施行された後でも、同法への反発から覆面による抗議活動が続いているそうです。しかしながら、敢えて覆面を外すという選択肢もあり得るのではないかと思うのです。
まず確認すべきは、上述したように、自由主義体制であれば覆面はいらないということです。そもそも、政治的自由を行使するのに覆面をしなければならない状態こそが異常なのであり、現時点では、法的には一国二制度は保証されているのですから、市民は、香港の地が自由主義体制であることを前提として行動すべきでもあります。民主化や自由化を求める発言や行動は、犯罪でもなければ、何ら恥じるべき行為でもないのです。
第二の理由は、顔を隠した覆面によるデモ活動であると、強盗目的の犯罪者や北京政府並びに香港政府が忍び込ませている工作員にも、抗議活動が悪用されてしまう点です。香港では、一般の商店が襲撃されると言った事件も起きており、行政府から暴動として認定される要因ともなっています。また、工作員達は、覆面をよいことに強硬手段に根拠を与えるために抗議活動の激化を演出しようとすることでしょう。こうしたリスクを排除するためにも、覆面をしない方が安全です。
そして、第三の理由は、もはや覆面をしても意味がないかもしれないからです。高度なITを駆使すれば、北京政府は、既にデモ参加者の個人情報を把握しているかもしれません。スマートフォンによる位置情報や在籍する学校や職場から収集した情報を解析すれば、個々の特定は難しい作業ではないはずです。顔を隠しても隠さなくても結果が同じであれば、素顔のままで抗議した方がよほど当局に動揺を与えるかもしれません。
また、見方を変えれば、覆面禁止法では覆面をする行為を禁じておりますので、覆面さえしていなければ、民主化、並びに、自由化運動、さらには、香港独立運動もまた合法的な抗議活動として許されていると云うことにもなります(同法の制定自体が間違っているとはいえ…)。もちろん、‘外す、外さない’の判断は、両者のリスクを慎重に比較考量して行うべきでしょうし、個々人によって選択も違ってくることでしょう。今後は、デモとは違った形で抗議活動を継続することも検討されましょうが、覆面を外すという選択も一考に価するのではないかと思うのです。
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今般、香港行政府がデモ参加者に対して顔を隠すことを禁じる覆面禁止法を制定したことから、同法の根拠となった緊急法に対する関心も俄かに高まっています。そして、同法をめぐる議論を聴いておりますと、人類の倫理的進化について考えさせられるのです。
同法を活用すれば、香港行政府は、通常の立法手続きである議会での草案の審議・修正・採択等を経ることなく、緊急避難的措置として法律を制定することができます。一向に収まる気配を見せない抗議活動を前にして、あるいは北京政府による入れ知恵なのか、香港政府は、事態の早期収拾を狙って同法を利用したのでしょう。戒厳令に近い効力を有しますので、香港行政府にとりましては、いわば‘伝家の宝刀’なのです。
それでは、何故、香港には、緊急法が存在するのでしょうか。同法が制定されたのは、香港返還後ではなく、同地がイギリス領であった1922年のことです。南京条約以来、香港をアジアの拠点としてきたイギリス政府としては、同地におけるあらゆる反英活動を封じ込める必要があったからなのでしょう。同法は、1967年に中国共産党の影響下にある社会・共産主義者による反英活動を鎮圧するために使用されたのを最後に、今日までお蔵入りとされてきました。
上述した同法制定の経緯からすれば、今般の緊急法は、北京政府、即ち、共産主義勢力の意向の下で活用されており、同法が最後に使われた1967年とは逆の構図となります。このため、構図は逆となったとしても、イギリスも中国もその行為を見れば同じですので、中国による緊急法利用も許されるべきとする中国擁護論にも繋がりかねません。しかしながら、1922年、あるいは、1967年と2019年を同列に論じることはできるのでしょうか。
ここで考えるべきは、人類の倫理的進化の問題です。昔も今も人類の倫理観には何らの変化はなく、価値観にも然程の変わりはないとするならば、過去において許された行為は、今日でも許されることとなります。その一方で、人類は時間の経過につれて精神的にも進化を遂げ、その道徳心や倫理観が向上すると見なす場合には、過去において許容された、あるいは、当然視された行為であっても、今日においては許されないこととなります。‘現代の価値観から過去を裁いてはならない’とされるのは、後者の立場に立脚しています。そして、大多数の人々は、人類は倫理的にも進化する、あるいは、してきたと考えているのではないでしょうか。
両者の人類観の区別を前提にして香港問題を見ますと、前者の立場に立てば、過去のイギリスと現在の中国を同等に扱うことができます。この場合、過去と現代が繋がりますので、しばしば、未来に向けて歩んでいるつもりが過去に戻るというメビウスの輪に嵌ります。その一方で、人類は倫理的に進化するとする後者の立場に立てば、一般市民による自由な政治的意見の表明の機会を奪うために緊急法を濫用することは、先進的な価値観から逸脱した非難に価する行為となりましょう。今日の価値観からしますと、誰にでも自らが善いと考える政治体制について意見を述べる言論の自由はありますし、こうした天賦の政治的な自由は、人々の民主主義の制度が備わってこそ実現します。中国共産党と雖も、人々からこうした基本的な自由を奪う権利はないはずです。共産党一党独裁体制を維持するために人々から天賦の自由を暴力や脅し奪うとしますと、それは利己的他害行為であり、今日の価値観からすれば‘悪’なのです。
野蛮から文明への道を切り開いてきた人類の歴史を振り返りますと、行きつ戻りつを繰り返しつつも、人類には倫理的な進化の軌跡を見出すことができます。奴隷制度の廃止や司法制度の確立なども、人類の倫理的な進化過程における重要な一場面と言えましょう。倫理進化論に立脚すれば、過去を以って現在を正当化することはできず、中国は、たとえ先端的な科学技術においてトップランナーであったとしても、精神的には未発達な状態に留まっていると言わざるを得ないのです。香港問題が根本的に解決する時、それは、中国本土もまた倫理的な進化を遂げ、自由化、そして、民主化する時ではないかと思うのです。
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香港情勢は、16歳の高校生が香港警察の発砲により重傷を負う事件をきっかけに、緊迫感が増しています。検察当局が同学生を起訴すると共に、香港政府も、緊急法として覆面禁止法を制定する構えを見せています。この手法、あまりにも狡猾なのではないかと思うのです。
覆面禁止法とは、ITの先端技術としての顔認証システムの完備によってその効果が倍増されることは疑いようもありません。覆面をすることなく抗議デモに参加した場合、当局側の画像分析によって参加者の一人一人が確実に特定され、同抗議活動が暴動に認定されようものならば、逮捕拘留され、政治裁判によって処罰を受けることとなるからです。香港にも、中国式のハイテク国民監視システムが導入されているとすれば、逮捕記録は国民の政治的な‘信用格付け’においてマイナス評価となり、香港の、中国の、そして、人類の自由・民主主義のために闘った若者たちの将来は閉ざされてしまうかもしれないのです。
中国にとりましては、香港は、おそらく中国本土で同様の自由化・民主化運動が起きた時に備えた一種の実験場であるのかもしれません。つまり、中国が、かくもITの研究・開発に熱心に取り組み、これらの実用化を急いだのか、その理由が分かります。人の心には、一方的な強制や支配を嫌い、自由で公正な社会を求める善性が本性として宿っていますので(ただし、サイコパス等は除いて…)、共産党一党独裁体制に対する抵抗や反発が生じるのは自然の流れです。この人類の心理に根差した歴史の展開を予期しているからこそ、中国共産党、並びに、全体主義者の人々は、自己の独占的な支配権を脅かす如何なる行動も許してはならず、個人の私的な領域や内面までをも支配する先端的な監視システムを必要不可欠としたのです。テロや犯罪対策といった政府による治安目的の説明、あるいは、ユーザーの利便性の向上といったIT大手のピーアールは、国民の警戒心を緩め、監視システムを正当化するための方便に過ぎないのでしょう。
香港の人々は、自らの顔を晒して抗議活動を続けるのか、それとも、抗議活動を止めるのか、というどちらを選択しても過酷な運命が待ち受けている二者択一を迫れられています。前者を選択すれば、自己犠牲を引き受けかねず、後者を選択すれば、自由な空間を失うからです。邪悪な支配者の思考は徹底して人の善性に対して冷酷であり、恐怖心を植え付ける残酷さこそが自己が生き残る唯一の道であると固く信じているのでしょう。
香港問題が、香港のみの問題ではなく今や人類全体の問題であるとされる理由は、まさにここにあります。監視カメラが至る所に設置され、スマートフォンがビジネスや日常生活において不可欠のツールとなる今日、自由主義国家もまた、国民に知られることなく全体主義国家へと移行してしまうリスクがあるからです。今日、日本国民を含め、多くの国の人々が、民主主義の形骸化に懸念をいただいています。香港の自由や民主主義を護ることは人類を護ることでもあり、今日、全ての人類が、長きに亘る努力の末に獲得してきた普遍的価値が失われる危機に直面しているのです。あらゆる科学技術は、それを使う者の心の在り方によって、その効果は正反対となるものです。善良なる人々を二者選択に追い詰める中国に対して、人類の未来に責任を負う全ての諸国、並びに、人々がこの狡猾なる行為を許してはならないのではないかと思うのです。
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中国が国家を挙げて建国70年を祝ったその日、隣国の北朝鮮では、潜水艦発射型の核兵器であるSLBMの実験が行われました。‘国軍の日’に当たるとはいえ、韓国もまた竹島上空で韓国軍戦闘機がデモ飛行を行っており、両国が足並みを揃えて中国の祝祭に‘華’を添えたようにも見えます。
とりわけ朝鮮半島の動向において注目を集めたのが、北朝鮮のSLBM実験成功の報です。言わずもがな、SLBMを保有するとなれば、北朝鮮は、大陸弾道弾ミサイルを開発・保有しなくとも、アメリカ本土を直接に核攻撃することができるからです。日米の高い潜水艦探知能力からすれば、SLBMを搭載した北朝鮮の潜水艦の追尾・発見は難しくはないそうですが、それでも、北朝鮮が、対米核攻撃能力を備えたことはアメリカにとりましては重大な脅威となります。
メディアの多くは、北朝鮮側の狙いは10月5日に再開が予定されている米朝実務者協議に向けた対米カードの保持にあると解説しています。交渉のテーブルに付く以上、何れの国も、自国に有利な形で交渉が纏まるように、相手国に対して効果的なカードを持ちたがるものです。北朝鮮もまた、SLBMカードを切ることで、アメリカ側から妥協を引き出せると読んだのでしょう。あわよくば、核保有の承認のみならず、米朝平和条約の締結まで漕ぎ着けると踏んだのかもしれません。有頂天になって喜ぶ金正恩委員長の姿が目に浮かぶのですが、北朝鮮は、突然のSLBMの実験成功に伴うリスク面について深く考慮したのでしょうか。
そもそも核保有カードは、一般の外交交渉上のカードとは違います。いわばトランプの‘ジョーカー’であり、それを手にする者は、時には絶対的な切り札を持つ一方で、時には最悪の運命に見舞われるのです。他国を一方的に破壊し得る点において前者なのですが、核に関する国際ルール(NPT)では、その開発・保有は一般的に禁じられていますので、同ルールに違反しますと、制裁によって自らが破滅に向かうという意味で後者でもあるのです。
しかも、北朝鮮は、核カードの一種であるSLBMカードを不正な方法で取得しています。二度、あるいは、三度にわたる米朝首脳会談での基本合意は、脆いながらも‘最低限、北朝鮮の核・ミサイル開発がアメリカの脅威にはならない’というものであったはずです(CVID方式からしますと甘い合意…)。しかしながら、北朝鮮側による具体的な措置とされてきたICBMの開発凍結が維持されたとしても、SLBMの開発に成功したのでは、かろうじて交渉を繋いできた両者間の合意は反故にされたに等しくなります。‘ICBMを開発・保有してはならない’という禁止事項を‘SLBMならば開発・保有できる’とするのは悪しき縮小解釈の典型であり、しかも、国際的な一般ルールは‘核もミサイルも開発・保有してはならない’なのですから、北朝鮮の今般のSLBMカードの保有は許されざる行為なのです。もしかしますと、トランプ大統領が許容した短距離ミサイルの発射実験も、SLBMの開発過程の一環であったのかもしれません。
SLBMカードの保有が詐術的な手法によるものであった点を考慮しますと、北朝鮮が米朝交渉の席で同カードを意気揚々として切ったとしても、アメリカが、その威力の前にひれ伏すとは思えません。‘偉大なる国家’であるはずのアメリカが易々とだまされ、トランプ大統領の面子は丸潰れとなり、かつ、次期大統領選挙にもマイナス影響を及ぼすのですから、同大統領としては、北朝鮮に対して怒り心頭に達する心境にあるかもしれないからです(利己主義者は自らの面子には異常な拘りを見せつつ、他者の面子については全く考慮しない…)。それとも、狡猾な北朝鮮は、SLBMを保有している‘こと’にして、その中止や破棄を条件に何らかの見返りをアメリカに求めるつもりなのでしょうか。
北朝鮮としてはオールマイティーである‘スペードのエース’を手にしたつもりなのでしょうが、それが、本当のところは自らの身を滅ぼす‘ジョーカー’であることに気が付いているのでしょうか。北朝鮮を理解するためには、しばし常識を離れ、利己主義に徹した悪人ならばどうのように考え、どのように行動するのかを常に想像してみる必要があるように思えるのです。
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昨日10月1日、中華人民共和国は、建国から70年の節目の日を迎えました。中国共産党が国共内戦に勝利をおさめて産声を上げたその日から70年の月日が過ぎ、今では、その旧態依然とした思考、並びに、行動様式において老大国の風情さえ漂わせています。ITやAIといった先端技術において世界のトップランナーでありながら、その使用目的を見る限り、過去の歴代中華帝国のハイテク化、あるいは、ITで蘇った全体主義国家に過ぎないようにも思えます。
中国の思考の古めかしさと硬直した行動様式は、その軍事パレードにおいて余すところなく示されています。習近平国家主席を仰ぎ、膝を曲げることなく人形の如くに一直線に行進する兵士達の姿は、ナチス・ドイツやソ連邦、並びに今日の北朝鮮の軍事パレードと変わるところなく、自由主義諸国の人々から見ますと不気味の一言に尽きます。そして、何よりも、強大な軍事力を誇示するために披露された先端兵器の数々は、中国と云う国が前近代的な暴力主義の国であることを、開き直るが如くに内外にアピールしているのです。脅迫効果を期待して…。日本国内のメディアの多くは、全アメリカを射程距離に納める新型のICBM等の公開を根拠に、同パレードは対米牽制の意味を持つと解説し、日本国は攻撃対象外のような印象を与えていますが、中国が、全世界の諸国を武力で威嚇していることは疑いようもありません。米ソ(ロ)間で締結された各種核合意は、結果的には、中国が同等の核戦力を保有するに至るまでの、両国に課せられた‘制限条約’として作用したとしか言いようがないのです。
かくして、暴力主義を露わにした中国は、香港に対しても、その内心においては暴力での解決を望んでいることでしょう。しかしながら、英中共同宣言や香港憲法による法的縛りにより、北京政府と雖も、人民解放軍を抗議活動の弾圧のために投入することはできません。そこで推測される軍事介入に替る代替手段は、香港警察の利用です。直接的介入が難しいとなれば、間接的介入を選択した可能性が高いのです。
建国記念日の同日、香港では、抗議デモに参加していた18歳の高校生が至近距離からの警察の発砲を受けて重体化するという痛ましい事件が起きています。これまで、香港警察は、催涙弾等を使用したとしても、殺傷力を有する拳銃の使用は控えてきました。おそらくその背景には、香港市民を刺激して抗議活動をさらにエスカレートさせる、あるいは、国際的な批判を浴びるような対応を避けたいとする香港行政府の思惑もあったのでしょう。しかしながら、今般、建国記念日の日に警察による発砲事件が起きたとしますと、香港警察の上部から発砲許可が下ったとも考えられるのです。
同時期に建国記念の祝賀行事に参加するために北京を訪問している香港の林鄭月娥行政長官は、習主席とも面会したとされています。狡猾な北京政府のことですから、香港警察の事実上の‘人民解放軍警察部隊化’を提案したのかもしれません。第二の天安門化による国際的批判を怖れる北京政府にとりましても、地方選挙を前にして香港市民の反発を懸念する林長官にとりましても、間接的に香港警察を使うとする案は好都合であったかもしれないのです。
北京政府は、香港警察を操って一人の高校生を‘見せしめ’とすることで、抗議活動の沈静化を図ろうとしたのかもしれませんが、全ての人が暴力に怯え、自らの信念を捨てるとは限りません。実際に、香港の抗議活動は終息するどころか、怒りに火をつけ、逆に勢いを増しているそうです。中国北京政府が、自由、そして、民主主義を暴力で封じることができると信じているとしますと、時代を、そして、人間性というものを読み違えていると思うのです。
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