リタイア暮らしは風の吹くまま

働く奥さんからリタイアして、人生の新ステージで目指すは
遊びと学びがたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

多様性を叫ぶほど同一性を求める不思議

2015年12月09日 | 日々の風の吹くまま
久しぶりに青空。マザーネイチャーの灰色のペンキが底を尽いてしまったのかな、なんて冗
談が出るくらい。朝のうちにきのう頭の中で書き上げた原稿を打ち出して、推敲して、送って
おいた。代わりの候補に挙げた人たちの方が日本人の目線を保っていて、Canadian First
になっちゃったワタシよりも適役だと思ったけど、引き受けてもらえないんじゃどうしようもな
い。たぶん想定していたトーンとは違うだろうけど、自分の意に反することは書きたくないの
で、ゴメンつかまつる・・・。

何しろ今は「ポリティカリーコレクトネス(PC)」が行き過ぎて、巷の人間でさえうっかりモノを
言えなくなった感がある不思議な世の中。PC活動家には社会の「マイノリティ」として長い
こと狭量な大衆の偏見や差別意識によって抑圧されて来た人たちも多い。社会の意識や制
度を変えてマイノリティに対する偏見や差別をなくそうと運動して来た結果、多様な価値観
が同等の存在価値を持っていて当然という世の中になったんだと思う。だけど、だけど・・・。

PCの目的そのものは崇高だったのに、自分たちの価値観が多様性の中で「パワー」を得
るに従って、なぜか異なる価値観や考えを排斥しようとする方向へ動き始め、ソーシャルメ
ディアでのPC族による「言葉狩り」が蔓延して来た気がする。いうなればミイラ取りがミイラ
になったようなものだけど、それまでの抑圧に対する反動のような面もあるのかもしれない。
トランプが過激な発言で大炎上し続けながらも圧倒的な支持を保っているのは、「その他大
勢」の大衆が、ちょっとした言葉尻を捉えては不快だ、差別だ、取り消せ、謝罪せよと糾弾
するPC族の排他的あるいは逆差別主義的な言動に対して持っている不快感を代弁してく
れていると感じるからだと思う。

他人の価値観を容認させられる一方で自分の価値観は否定されていると思えば、誰だって
怒りの拳骨を振り上げたくなると思うけど、PC活動家たちは多様な価値観を受容させる闘
争のために振り上げた「正義の」拳骨を下ろす術を知らないのかもしれない。あんがい自分
たちの価値観だけしか念頭になかったのかもしれないけど、正邪を問わず振り上げたまま
の拳骨はそのまま驕りや報復に向かう。人間社会は振り子のように2つの極端の間を行き
つ戻りつするもので、多様性が極端になれば人は「同一性」に心の平安を求めるんじゃない
かと思う。そういう芽があちこちで吹き出しているとしたら、何とも皮肉なPCの世直し・・・。