『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

テキスト分析

2021-06-01 05:55:00 | 勉強
おとついから
アレルギー症状で
どうもオモロない
体調である。

ほんでも、
オフ日のきのうは
ゆっくり休んでたので、
大分とマシになった気はする。

今日は出勤で、
明日またオフである。

オン・オフが
入れ替わり立ち替わりなので
テンションが張ったり
緩んだりすんのも
いくらか負荷になってるんかもしんない。






今朝の朝刊で、
若山 源蔵さんが
亡くなられたことを知った。

88歳だったというから、
年に不足はない
大往生だろうが、
惜しまれる名優であった。

声優としても
ショーン・コネリーのボンド役の
ドスのきいた、いぶし銀の声が
耳に残っている。

最近も、
朗読CDで
『蟹工船』を聞きながら
書の稽古をしていたので
タイムリーであった。

五木寛之の
『さらばモスクワ愚連隊』の
朗読CDもあるので、
今日からしばらく車内で
「ひとり追悼会」で
聴こうかと思っている。

***

毎朝、朝刊の
ユーモア欄に目を通すが、
今日のお題「衣替え」で
「アベノマスクが出てきた…
 首相」
にはクスリとさせられた。

ほんに、
あんなもんに
何億もの予算を投入して、
狂気の沙汰である。

ついでに、
形骸化し何の公益性もない
日本芸術院やら
日本学術会議なぞにも
何億も血税を注いでるのは
愚の骨頂である。

文字通り「血税」は
国民が身を粉にして
働いて収めたもの。

それを湯水の如く、
他人の金のような意識で
じゃぶじゃぶ使われちゃ
たまんないよ。

だったら、
ワクチン開発の基礎研究に
もっと金を出せ、
というもんである。

【泥棒を捕らえて縄を綯う】
っていうのが
今の政府の
やってる事である。





きのうは
喘息気味でゼーゼーいいながらも
街出して、郊外まで
ラーメンを食しに行った。

日曜に
カミさんを誘って
いくつもりだったのだが、
車内でごちゃごちゃ
鬱陶しい事を言うもんだから、
腹ぁ立てて、信号待ちしてる間に
クルマを降りて
ひとりで歩いて帰ってきた(笑)。

なので、
新規まき直しの
出直しだった。

4号線で信夫山トンネルに
向かうたびに
毎度のことながら、
デジャヴュにおそわれる。

京都は西大路通りの
どんつき(突き当り)の
「左大文字」の風景に
そっくりなのである。

以前に
山火事になり
ハゲかけた西側部分も
緑が再生したが、
いっそのこと、
このアングルの斜面に
「大」でなくも
「福」でも入れて
盆の送り火として
「福文字」送りでも
やりゃあいいのにな…と、
商工会議所にでも
提案したいくらいである(笑)。








更地になってた
吾妻陸橋の袂に
医大の「保健科学部」の
ビルができていた。

そんな新学科が
設立されたことも
知らなかった。








きのうは
26℃どまりだったが、
直射日光に晒される車内は
30℃を示して
エアコンを稼働させるようだった。










郊外にある
「和屋(なごみや)」は
市内にある唯一の
白河とら系の
弟子筋の店である。

なので、
バランスのとれた
佳いラーメンを作るので
平日の開店時の11時でも
すでに5、6人が
列をなしていた。

ここも贔屓店のひとつで、
いつもは「中華そば」(700円)で
満足しているのだが、
体調不良のクスリ喰いのつもりで
「煮卵チャーシュー麺」(1050円)
という最上ランクにした。

ここの叉焼は、
とら食堂直伝の
一斗缶での炙りかもしれず、
バラ、トモ、カブリという三種の
味もテクスチュアも異なる部位を
2枚ずつ乗っけてるのが
豪奢である。

厚めの叉焼6枚は
さすがに、しまいのほうは
喰い飽きるが、
体調を整えるための
アミノ酸摂取だと思って
「喰い養生」とした。








帰宅後、
初読のように
面白く再読了した
恩田 陸の『蜜蜂と遠雷』の
「書き出し」のテクスト分析を
やってみた。

ウィキの「修辞法」を見ながら、
ほうほう、こんなテクを
使ってるんだと
冷徹に文章構成を分析した。

マーカーやペンで
色分けして
書き込みしてるうちに
滅茶苦茶になったが、
なんとなく、この部分だけで
著者の文体が解るような気がした。

楽譜のアナリーゼにさも似たり
という感じもした。

狐狸庵先生曰く、
文章修行には
名文をコピーせよ
とのことだった。

***


 光が降り注いでいた。
 遠い遥か高みの一点から、冷徹に、それでいて惜しみなく平等に降り注ぐ気高い光が。

「倒置法」で、
散文でありながら
詩的な感じを醸し出している。

「光」を修飾するのに、
<冷徹に、平等に、気高い>
とこれでもかと強調する
「冗語法」を作者は
各所で常用している。

「遠い遥か高みの一点から」
という言い回しを
文学的と取るか
クサく気障ったらしいと取るかは
読み手の嗜好やセンスにもよる。

「遥かに高い一ケ所から」
では、平凡過ぎて
"金をとれない"から(笑)、
作者は、文体に趣向を凝らすのである。

 世界は明るく、どこまでも広がっていて、常に揺れ動きうつろいやすく、神々しくも恐ろしい場所だと感じた。

「世界」を描写するのに、
①明るく
②広く
③不安定で
④神々しく
⑤恐ろしい
・・・と、過剰なほどに
修飾しているが、
これも作者が多用している
レトリックである。

明るい「光」に続いては
甘い「香り」、
柔らかい「風」、
力強い「音」、
・・・と、
視覚・嗅覚・触覚・聴覚と
「交響的」に畳み込む。

これは文字通り
「畳句法」と言われる。

 明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符であると。

これは、一見、
隠喩(メタファー)のようだが、
「まるで」を省略した
直喩(シミリー)である。

映像の時代ならではの、
すぐにでも
アニメ化やら
CGが出来そうな
シナリオ的な文章である。

<書き出し>の
『テーマ』の章は

 世界とは、いつもなんという至上の音楽に満たされていたことだろう

・・・と、史的現在で
〆られているが、
<結末>の
『ミュージック』の章での

 耳を澄ませば、こんなにも世界は音楽に満ちている

というテーマと、
呼応させている。

***

楽譜と同様に
かくばかりに
レトリックのアナリーゼを
してみると、作者の創意やら
作文の骨法が
少なからず見えてくる。



 
















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漱石研究

2021-04-30 06:14:00 | 勉強
春休み中から
ずっと取り組んでいた
漱石の『夢十夜』の
深層心理学的分析が
やっと終わったので、
臨時研究室を解体して
元のお茶室に戻した。




2階の書斎とは
雰囲気が違って
分析仕事に特化した部屋となり
いい気分転換になって
久々に研究が進んだ。

これから、
書き上げたものをまとめて
冊子化しようと
思っている。

研究室は解体したものの、
これからは、
未だ渦中の
『コロナ時代の深層分析』も
魂理学的視点から
やっていきたいと
思っている。

去年から、
ブログ内でも
ちょくちょく断片的に
思いを吐き出してはいるが、
「自分史」的な意義付けが
まだ不十分なので、
腑に落ちていない部分を
徹底的に思考実験を通して
意識化、言語化してみたい
と思っている。

それは、
取りも直さず、
外的世界や人類史をも
分析することになる。

「意識」と「たましい」
という切り口で
果たしてどんな事に
帰結するのか…、
これまた、やってみなっきゃ
分からない。

今朝も寝床で、
書き溜めた『思考実験ノート』を
見返していて
「実在するものは脅かされない」
という一文を見て、
これを一般に説明すんのは
容易じゃないだろうなぁ・・・と、
池上氏みたいな平易な語り口に
どう置き換えようか
悩みそうだった。






暇があると、
YouTubeで
「書」のサイトを見て
勉強している。

「一」の横角は基本だが、
これは、
「とん、すー、とん」
と起筆、送筆、収筆を
三拍子で書くが、
【三過折】という書法名を
知らなくて勉強になった。

それと、
向かい会う縦角が
互いにお辞儀をしているのを
「向勢」
互いに反っているのを
「背勢」
というのは、
掛け軸の用語と同じだった。

「書の歴史」サイトでは、
王 献之(けんし/344-386年)が、
『書聖』王 羲之(ぎし)の
第七子だということを
初めて知った。






ツタヤ・ブラウジングしてたら、
『クッキングパパ』の
最新刊が出てたので、
買ってきた。

715円もしたので、
えれぇ高いなぁ・・・と、
感じてしまった。

コミック本というのは、
だいたいワンコインくらい
というイメージだったが…。

なので、
これまで、
最新刊は中古コーナーに
出るまで待って
半額くらいになってから
買うことにしていた。








今日は、
今年度初めてのY中勤務だが、
新任の教頭が
融通が利かなくて、
通常は11時勤務のところ、
6月の研修会の時間調整で
9時15分に出勤して欲しいと
頑として譲らなかった。

去年は研修中止になったので、
今年もそうなるだろうから、
時間調整は様子見をして、
研修が有ったら、
その後の月からにして欲しい
と要望したのだが、
自分の決めた時間にさせたいのか、
初日から変則出勤せよ、
との事である。

なので、
昨日からイライラして、
カラダに多足類の虫が
何匹も引っ付いて
それを一々剥がすという
嫌な夢を見てしまった。

中っ腹で初出勤するので、
くれぐれも喧嘩になって
怒号したりすることのないように、
朝から我慢、ガマン・・・
辛抱、しんぼう・・・と、
自分に言い聞かせて
「人格者モード」のスイッチが
外れないように意識化している。





カミさんが、
タウン情報誌の
『mon mo』を買ってきて、
連休中の行楽地への
お出かけスポットを
リサーチしている。

喜多方で
餡子餅やら喰ってこようか、
とゆんべは話していた。



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日々、是研究

2021-03-29 07:38:00 | 勉強
ナッちゃんが置いてった
自家製デスクを使って、
茶室を春休み限定の
臨時研究室にしている。

30代の頃、
母校の大学院に
社会人入学した時、
四月のオリエンテーションの
自己紹介で、
「勉強し直しに参りました…」
と謙遜したつもりで
挨拶したら、
いきなり副査のS先生に
「ここは、勉強する処じゃなく、
研究する処ですよ」
と窘められた。

まだ、学問的な事が
右も左も
よく分かってなかったので、
「は…?」
ってな感じだったが、
その後の厳しいトレーニングで
その真意が徐々に
骨身に滲みてきた。

殊に、年に2回の
修論の中間発表会では、
毎度のように先生方から
研究法やデータ解釈について
素人院生に対して
容赦なく「批判」の口先が
向けられた。

学部上がりの
女子院生は毎回、
全員がそれで
泣く始末である。

そのたびに、
先生方からは
「私たちは貴方の人格を
非難してるんじゃないですよ、
貴方の研究法の不備を
批判しているんです。
それに、応えられないんなら、
もうやめなさい」
という厳しいものだった。

修論が完成せずに
3人の女子院生が
やめていったが、
同期で最後まで残ったのは
たった一人だけである。





「勉強」とはインプットの事で、
「研究」とはアウトプットの事である、
と、心理のお弟子さん方にも
かねがね言ってる。

なので、研究の目的は、
まだ知られていない事、
自分が知りたいと思う事を
探って、分析し、
新しい知見を見出し、
それを公表することなのである。

そして、
学界論文などでも、
「公益性」ということが
問われる。

自己満足の趣味ではいけなくて、
「世と人のお役に立つ」
というのが前提条件なのである。

新しい事を探求するには、
先行研究というのを
探らねばならず、
そのための引用文献やら
書籍類がしだいに
PC周辺を取り巻くようになると
段々と研究室然としてくる。

茶室の簾(すだれ)を通して
庭に咲くレンギョウやボケの
彩りを眺めながら、
時折、手を休めては、
コーヒーブレイクにする。

隣室の「書室」にある
オーディオセットから
ルネッサンス音楽を
低めに流しながら、
ホッと憩っていると、
なんだか院生の頃を思い起こし、
研究も楽しいなぁ…と、
久々に至福感を味わっている。

『夢十夜の深層分析』
として、また、
『小説家になろう』サイトで
久々に公表して、
それから冊子化しようとも
考えている。

以前は、年間、二冊の本を創る
というハードな目標を課して
何年も続けていたが、
最近は、とんと隠居モードに入り、
怠業の日々を送っている。






臨時"研究室"用のPCは、
カミさんのものなので、
有線マウスがなくって
操作が不便なので、
2階のメインPCや
学校のものと全く同じ型のを
アマゾンに発注した。

人間工学に基づいて
デザインされたという
エレコムのマウスは、
おそらくは粘土でも握って
その手形を基に
形状化したのだろう。

なので、握り具合が
フィット感があり、
しかも、手元のボタンで
画面の「戻る」「進む」が
操作できるので
文章作業には都合がいい。








ナッちゃんが
やりかけて放棄した
ジグソーパズルのフレームを
使ってもいいというので、
その台紙上に
48分割のマス目を区切り、
これから47文字の「いろは歌」を
変態仮名で清書していこうと
思っている。

そのために、
これから、わざわざ、
土湯の里まで
湧き水を汲みにいき、
それで松煙墨と
油煙墨(菜種油製)を
磨ろうと考えている。






ロンバケになると、
我が家の「まんが図書館」が
役に立ってくれる。

といっても、
わずか二千ほどの
蔵書数だが、
近所には数万点も蔵してる
ゲオもツタヤもあるので、
ないものは銭ぃ出しゃ
借りられる。

もうすぐ200巻目に到達する
『ゴルゴ13』も全巻そろってるが、
トランプ・マジックの
カードを引くときみたいに、
エイッと適当な処を
引っ張り出して読み始めると
けっこう忘れてて(笑)
それなりに楽しめるものである。





ここの処、
喘息性気管支炎のせいで
気力が充実してないせいか、
数日間もピアノ離れしている。

なんだか、
弾く気がしない…
というのは、
あきらかに気力が
低下してる証拠で、
プチ病み期なのだろう。

病識がなくって、
無茶苦茶をするJC/JKには
常々、
「病院に行って、薬呑んでるのを
『病人』って言うんだよ…」
と窘めているが、
その考えを時折、
自分にも向けて
自粛・自制を促し
自宅安静療法をも
忘れないようにしている。

音楽は
CDやらでは
なんぼでも聴けるのだが、
演奏するとなると
そこに全人的な
コミットメントを要し、
やっぱり疲れっちまうんだな
これが・・・(笑)。

物事には、何でも、
アクティヴ・コミットメントと
パッシヴ・コミットメントの
両方があんだねぇ…(笑)。

…と、今更ながら、
馬鹿みたいに
再認識してしまった(笑)。








また、
プチ糖質制限食餌療法(笑)
を再開してみたが、
お昼の"ぼっちフレンチ"創作だけは
メンドく感じず、
夕飯支度の買い物ついでに
素材を買ってきては
飽きずにやってる。

もっとも、
喰う事に飽きちまったら、
もう、お陀仏なんかもしれない(笑)。

末期がんだった亡父が、
抗がん剤の副作用も
あったのだろうが、
一緒に食卓を囲んでいて、
ポソリと
「喰うのも飽きた。
生きるのも飽きた…」
と吐いたことがあった。

その数か月後に、
父はこの世を去った。

時折、あの時の姿と
あの言葉を思い起こしては、
自分はまだ
「喰いっ気」があるなぁ…。

こりゃ、
まだ生きる気だ…(笑)
と、自分を冷やかしている。

そーいや、
ロンバケで暇だと
嘆きながらも
「研究意欲」もあんじゃん(笑)。

まだまだ、
生きる気だな、オレ…(笑)。

エイエイオー! ٩( 'ω' )و

      ↑ シヌシヌサギジジイ





録画で
『東京家族』を観た。

これ、
『家族はつらいよ』という
題名もあったが、
山田監督作品なので、
当然、『男はつらいよ』を
もじったものだろう。

日本一の朗読家として
リスペクトしてる
橋爪 功が主人公なので
それに魅かれて観たが、
所々で朗読で聞かれる
橋爪節の口調が心地よかった。

老夫婦ふたりが
子どもたち三人が棲む
東京に遥々離島から趣き、
その旅先で老妻が急逝し、
遺骨となって故郷に帰る
という素朴な噺であった。

山田監督作品の常で、
いくらか鼻につく
臭い演出と演技感が
作品から漂ってきたのは
感心しなかった。

こないだの
寅さんスペシャルで
監督が
「出来るだけ役者さんには
演技を抑えてもらって、
その人の存在感を
際立たせたい」
と言ってはいたが、
橋爪 功以外の役者は
みなダイコンだったのか
演技感が感じられて嫌だった。

してみれば、
渥美 清はじめ
笠智 衆、志村 喬なぞは
やっぱり名優だったんだなぁ…
と、再認識した。









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忍性律師

2020-12-11 04:30:00 | 勉強

玄関室礼の
クリスマス・オナメントの
飾り付けをしていて、
(そーいや・・・
こないだ、段ボールに詰めて
片付けたばっかりだと
思ってたのに・・・)
と感じる自分がいた。

事程左様に、
時の砂時計の
流れ落ちる速度の
速いことよ・・・と、
戦慄を覚えるようだった。

毎日を
味わい深く過ごそうと
意識して見聞き、読み、書き、
そして、仕事をしているが、
おまけに、オシリ痛まで伴う(笑)
充実した日々過ごしている事が、
却って"心理的時間の矢"を
速く感じさせているのかもしれない。

辛い事は長く感じ、
楽しい事はアッという間である、
という、あの原理である。

まさに、
痛し痒し・・・であるなぁ。

若い頃、
戯れに凝ったことのある
各種の占いに拠れば、
自分は「晩年運」とのことだった。

教え子だった
スピリチュアリストの
トヨミちゃんの見立ても
一致していたので、
逆説的に、楽しい日々、
充実した日々が訪れたと
実感しだしたら
そこが「晩年の入り口」なんだ
とボンヤリと思っていた。

・・・とすれば、
オシリ痛やらコロナやらの
災禍との共生は、まだまだ、
万々歳のエブリシングOK的な
状況じゃないから、
「最晩年」ではなさそうだ(笑)。

【メメントモリ・カルペディエム】
(死を忘れな・今を生きよ)
と、一日一回は唱えている。




週4日の通退勤の車中で、
中村先生の仏教学の講義を
拝聴して勉強させて頂いている。

先生は、
宗教学に関して
私淑している偉大な師の
お一人である。

その見識はもとより、
お人柄がたいへん素晴らしく、
好々爺然とした老賢者であられた。

原始仏教をはじめ
万巻の原書にあたられ、
それを世俗に通ずるように
平易な表記で記された功績は
「プロフェッサー・ナカムラ」として
今もって世界中の思想界から
リスペクトを受けている。

その先生の
貴重な生前のお姿が
YouTubeにもいくつか
アップされている。

『こころの時代』の
「忍性律師」の説明のくだりでは、
ハンセン氏病(らい病)の患者を
山の保養所から背負って
奈良の街に降りるという場面で、
感極まって涙声になられ、
それには驚き、また、
こちらの胸も熱くなるようだった。

その患者は感激して、
次に生まれてくる時も
律師のお弟子になりたいので、
ここに痣を持って生まれてくる、
と言って亡くなり、
何年かして言った通りの若者が
やってきたという噺だった。

それを
中村先生が泣きながら
淡々と話されたので
一生忘れることが出来ない気がした。

そしたら、
『忍性』というのが
映画化されていると知って、
これは是非見なければと思った。



近頃、
ベートーヴェンのピアノ曲や
宗教学の勉強をしていて、
【少年老い易く 学成り難し】
【一寸の光陰 軽んずべからず】
という諺を
しみじみと痛感している。

まさに、
【真理は永遠なり
 人の命は一瞬なり】
である。





PNES
(Psychogenic Non-Epileptic Seizure/
心因性非てんかん発作)
を頻発していたJCが
発作が消退してきて、
やれ安心と思っていたら、
今週、単発的に一度起こったという。

揺り戻し的な症状は
よく観ることがあるので、
いつものように箱庭療法に誘ったら
「曼荼羅」相を創りだしたので、
症状のターミネーション(終結)を
象徴していると確認しながらも、
植物円相の周囲をトラの親子を先頭に
しんがりがアヒルとニワトリと、
動物が行進しながら
円相を描いているのを見て
合点がいくようだった。

タイトルを付けさせると
『運動会』だという。

なるほど・・・。

唯一の肉食動物である
大トラ公はまだ
運動会場からは
姿を消してはいなかったのだ。

それでも、
生前と草食動物を従えて、
あたかも退場門から
フィールドを去る前の
行進をしているかのようであった。






きのう、
仕事から帰宅すると、
ご無沙汰していた
Tちゃん先生から
手紙が来ていて、
ご紹介頂いたクライエントから
言付かられたメッセージも
同封されていた。

開けてみると
カウンセラーの
「やんちゃ坊主の頃」
というイメージ画があり
微笑ましく思わせて頂いた。





来年9月の
国試を目指しておられる
お弟子さんたちのために
「私塾」のような
グループ・サイトを立ち上げ、
『あつまれ国試の森』
として、日々、
いろんな「森の住人」に
キャラ変しては
過去問の解説をしている。

以前に、
フェイスアップという
アプリでさんざん遊んだ
「老人」や「女装」への
変換画像をまた使うことになり、
ひと様のお受験をネタに
遊ばせて頂いている。

SC仕事の隙間時間に
近年の過去問と向き合って
クイズのつもりで解いてると
けっこう間違ったりして
冷や汗ものである(笑)。

2年間、必死に受験勉強した事を
駄々忘れしているのである(笑)。

これは、神様が、
この機会に、
自主研修として、
もっぺん基本に返れ、
という御計らいなのかも
しれんなぁ・・・と、
思わせて頂いた。



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GO TO~!

2020-11-15 07:31:00 | 勉強
その御生涯で
謦咳に接することはなくも、
私淑してきた大先生が
幾人かいる。

中村 元(はじめ)先生も
そのお一人である。

ご生前には、
ちょいちょいNHKの宗教番組
『こころの時代』に
ご出演なされており、
その口跡の良さに
まず耳が魅かれてしまい、
そして、その語り口の優しさ、
笑顔のチャーミングさ、
なにより、学識の深さに・・・と、
感銘を受けて、先生の
学目的“オッカケ”(推し)に
なってしまった。

没後、すぐに、御遺影を
書斎に飾ったほどである。

今でも、
『こころの時代』は
YouTubeに何篇かアップされており、
先生に会いたくなると、
そこでご尊顔を拝している。





河合先生との対談も
カセットで保存してあり、
ご講演のものも数十本あり、
時折、聴かせて頂いては
勉強している。

自分の仏教学関連のベースは
すぺてが中村先生に負うものである。

先生は、高校時代に、
腎臓病を患われて1年間休学され、
「人よりも遅れることが、
ほんとに、辛うございましたね」
と仰っておられたが、
「また、それが、
よい時でもあったように思われます」
と意味付けをされていた。

事実、学者になられてからの
研究への意気込みと成果は
常人の及ぶところではなく、
その有名なエピソードとして、
東大院での博士論文を
5年がかりで完成させ、
その原稿は大量で
リヤカーで弟に手伝ってもらって
大学に運び込んだという(笑)。

それを見た指導教官が
悲鳴を上げたというから、
さもありなん、である(笑)。

さらに、凄すぎるエピソートがあって、
お独りでコツコツと20年かけて完成させた
『佛教語大辞典』3万頁の原稿を
事も在ろうか、バカ過ぎる出版社が
紛失させるという大事件があった。

その大失態に対して、
中村先生は怒ることもなく、
「怒ってみたって、
原稿は戻りませんから・・・」
と、茫然自失の日々を
過ごされていたという。

そりゃ、そうだろう。
凡夫であれば、
たとえ、平謝りに謝られたとて、
許しがたい所業である。

そしたら、
“糟糠の妻”である奥様から、
「もいちど、やり直したらどうですか・・・」
と、励まされ、
再度、執筆に立ち上がり、
なんと、8年かけて、
さらに1万5千頁を追加し
「おかげで、前より
いい仕事ができました」
と語ったというから、
もう「学聖」と尊称するよりない。

事実、先生の戒名は
「自誓院向学創元居士」
である。

まさに、宗教学者の鏡である。

そんな、大先生も、
高校時代に患った腎臓が
“命取り”となり、
急性腎不全のため満86歳で
お亡くなりになられた。

語学にも堪能であられ、
世界の宗教界では、
「プロフェッサー・ナカムラ」として
リスペクトされていた
大仏教学者であられた。

スタンフォード大や
ハーバード大でも
教鞭をとられ、
学生たちとも映画を見に行くような
フレンドリーで気さくなお人柄であった。

退官後には、
『東方学院』という私塾を創設し、
ご自身も「寺子屋」と称して、
学歴も年齢も問わず、
向学心のある人たちの為に
亡くなるまで講義をされていた。

先生の御功績は
十指に余るものではあるが、
何より、サンスクリット語や
パーリ語に精通されていたので、
原始仏典の翻訳を苦心されて
平易化したことである。

仏教を抹香臭い仏事とせず、
黴臭い学問対象ともせず、
一般人にも解かるように
されたことである。

「生きる指針を提示するのも学者の仕事」
が持論であられたので、
「ニルヴァーナ/ニッパーナ」を
「涅槃/ねはん」とは訳さず
「安らぎ」と“やまと言葉”で訳された。

先生に拠れば
「ニルヴァーナは、
教義学者たちが言うような
煩いものではなく、
心の安らぎ、心の平和によって得られる
楽しい境地というような意味でしょう」
と仰っている。

まこと、
尊敬するより知らない、
見事な大老賢者である。

不安になると、
すぐに、中村先生の
お声が聴きたくなるので、
自分にとっては
「安定剤」的存在でもあられる(笑)。





尊師・中村先生に倣って、
「佐々木心理教育カウンセリング室」も、
看板こそ出していないが、
『国際魂理学院』という私塾も
兼ねている。

当院でも、
教育分析を受けられた方を
大勢排出しているが、
今般、来年度の
第四回『公認心理師』国家試験に
挑まれるお三方がおられる。

全員が女性教員で、
46、44、42・・・と、
初項46、公差2の等差数列なので
オモロイなぁ・・・と思った。

いずれも、
ユング心理学を
一度は勉強した
元ユングフラウ(乙女/Jungfrau)
でもあられる(笑)。

きのうも、
そのうちのお一人が
分析にこられたが、
後半は、さっそく、
国試対策のゼミになった。

なんだか、院長様自身も、
林センセばりに
受験予備校の講師にでもなったような
エンジンがかかり(笑)、
昔取った杵柄で、
過去問の分析やら
テキストを引っ張り出して
“競馬の予想屋”のような
好奇心を沸かせている。

そしたら、
きのうはオシリ痛が
鳴りを潜めていたので、
ノンビリ座ってばっかりいんと、
なんでもええから
立ち上がって公益の仕事をせいッ!
いうことやねんな・・・
と思うてしまった(笑)。

“競馬の予想屋”つながりで、
なんだか、失礼は承知で(笑)、
馬主にもなったような気分でもあり、
優秀な三頭のサラブレッド牝馬が
「3連単」の1・2・3着に
入賞してくれないかなぁ・・・
とも夢見ている(笑)。

そのためには、
助力を惜しまず、
名伯楽たる調教師役も
勝って出ようと思っている。

お三方とも、
教え子世代でもあるので、
なんだか、若い頃の
「担任」に戻ったような
気分なのかもしれない。

別に競馬が好きなワケでもないので、
“オンマさん”に例えたのは、
知らぬ仲なら超失礼なハナシだが、
それを笑い飛ばしてくれるような
キャラたちなので、
さすがに、賢い熟女・オバハンたちは
有り難い(笑)。

教養のない人間や
洒落の解らぬ堅物には、
こういうユーモアが
通じないから
「やだね~…!!」
「馬鹿だね~…!!」
と、時折、
辟易させられる事がある。

そういう馬鹿には
以後、二度と
近づかない事にしてる。

馬鹿が移るから…(笑)。





久しぶりに、
ドレスウォッチを
いくつか稼働させるべく、
アマゾンで安価な電池を
まとめ買いした。

届いたら、さっそく、
ルージュ(赤)やジョーヌ(黄)
の「眠り姫」たちを
その微睡(まどろ)から
醒まさせる王子様に
なってあげよう。

そして、
彼女たちと
街に出よう。

座ってちゃダメなんだ、
オシリ君(笑)。

「立ち上がって、GO TO~!」
である。


コメント
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