* 33 *
人間は金以外の動機で動くものなのに、ほとんどの人はそうではないと思っている。
養老 孟司
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「ソーちゃん、考え過ぎて、アタマ痛くなっちゃったぁ・・・」
カナリは、師匠について書かれた伝記を読み返すと、幼稚園の頃に、母親に言ったという一言に目がとまり、とどめなく泪があふれた。
あの刹那もそうだったのだろうか・・・。
「将棋の神様」と言われる大名人が、初心者がやらかすような「二歩」を打つなんて、正常ではあり得ない。
あの時、思考途中で、父の脳内に異変が起こったのだ・・・。
その違和感を圧して指した最後の手が・・・反則手とは・・・。
でも、あれは健常な父の手であるはずがなかった。
とカナリは棋士として確信していた。
病変が打たせた「悪手」なのだ。
父は、永世八冠とタイトル一〇〇期という偉業を為し遂げてこの世を去った。
享年三十三歳。
それは、三十五歳で没した大天才モーツァルトよりも更に短い「四百年に一人の大天才」の駆け抜けるような、凝縮した生涯だった。
父は、棋界のおよそすべての記録を塗り替えた不世出の「棋神」である。
そして、ほんとの「カミサマ」になってしまった・・・。
カナリは、いろんな事を走馬灯のようにぼんやり考えながら、溢れる哀しみを流れるままに任せていた。
でも、ふと・・・
(そうだ。私はこの家の長女なんだ)
と我に返った。
父にして、師匠を失った自分は、自我が崩壊しそうなクライシス状態だったが、夫を失った母や、父を失った妹、弟もいるのだ。
しっかりせねば・・・と、オーファン・スピリット(孤児魂)が我が心を鼓舞した。
しかし、刹那的に気弱になると、途端に「シャドウ」が心の悪魔となって、不運なお前がこの家に不幸をもたらしたんだ・・・という、気が狂いそうな呪詛を投げかけてきた。
「黙れーッ!」
と、カナリは絶叫して、己れにまとわりつくネガティヴ・シンキングと闘った。
この家に来て、父にも、母にも、ネガティヴな事は考えちゃいけない、と言われてから、ずっとポジティヴ・シンキングでいようと努めてきた。
が、この対称喪失の失意のドン底で、またもやシャドウが自我を脅かしてきた。
仏陀は、沙羅双樹の下で結跏趺坐をしていた時に、マーラにささやかれ
「悪魔よ、去れッ!」
と怒号したという。
イエスも荒れ野においてサタンにそそのかされ
「悪魔よ、去れッ!」
と命じている。
これらは、いずれも身の内から湧いてくる自身の「影の声」であり、ある意味、自我を開祖に相応しいほどに強化するための試練でもあったのだ。
カナリもまた、影との戦いに苦戦したが、それも、偉大な棋士になるための・・・そう・・・父の跡を継がねばならぬ娘としての、命運であり宿命でもあったのだ。
カナリは底知れない哀しみを怒りに変えて悪魔と闘った。
それは、父から一子相伝で受け継いだAIに勝ち越す戦術とは違ったたぐいの「こころの力」が要った。「たましいの力」も要った。
それこそが、カナリが「父を超える」「名人を越える」のにやり遂げねばならない、彼女の「個性化の過程」であり、真の意味での「自己実現」なのであった。
そして、父/師匠の死は、彼女にとっては、苦しい自身の「象徴的な死」でもあり、今こそ、独立独歩で生きていかなくてならないという「象徴的な再生」が、心の深い層に潜む得体のしれぬ実存的なものから求められていた。
この《通過儀礼》の逆巻く流れの河を渡りきるには、まさしく、命懸けの、全人的な精神エネルギーを投入せねばならなかった。
乗り越えてみせる。
やってやる・・・
という声も、彼女の深部から、たしかに沸いてきた。
(お父さん。見ててください。
師匠。見守って下さい・・・)
と、カナリは天上の棋神となりし人に向かって手を合わせ瞑目した。
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