それは初めてのコンサート会場であった。
僕は、隣県の未訪の音楽ホールに向かうべく、ナヴィにそのアドレスを打ち込んだ。
開場は7時で、7時半の開演だったので、途中でコンビニに寄って、車中で軽食するつもりだった。
日も長くなったので、家を出た5時半ごろでも、まだ明るい筈だったが、今にも降り出しそうな雨雲に覆われていたせいで、もう前照灯を点けた方がよさそうと思われるほどの仄暗さだった。
楽しみにしていた今日の為に、数日前から今宵の演奏家のCDをずっと耳にしていた。
それは、車中でも、到着まで、プログラムの予習のつもりで聴こうと持って来ていた。
これまでも、隣県には仕事で何度か赴いてはいるが、わりと高速を使って移動することが多かった。
今回に限っては、演奏会でもあるし、急ぐ必要もないし、のんびりと一般道で行くことに決めていた。
フロントガラスに、雨粒がポツリと付着した。
「降ってきたかぁ・・・」
と、僕は独りごちた。
ワイパーを「間欠」で稼動させると、CDから流れるアダージョの流れに、時折シンクロするかのようなリズムでもあった。
やがて、ワイパーをアレグロ(急速)にせねばならぬほど本格的に、いや、かなりの激しさで叩きつけるように、土砂降りとなった。
「あーあ。これじゃ、CD聴こえねぇなぁ・・・」
もの凄い雨音のうえ、暗闇と雨煙とで、前方の視界が心許なかった。
こうなると、やっぱり、単純な道の高速の方がよかったか・・・と、なかば後悔しないでもなかった。
それにしても、いやに道が細く、以前に通った記憶もないような木立が両脇に茂っている。
いくらなんでも、ナヴィがガイドしてるんだから、道順を間違えるはずもなかった。
あたりはすでに闇に包まれ、雨は降る、ライトの先は覚束ない・・・で、なんだか、段々と心細くなってきていた。
それでも、ナヴィを信じるよりない。
それは、年齢不詳の女性の、ボカロチックな無機質な音声だった。
強いて推察すれば、アラサーくらいの妙齢か・・・(笑)。
そんな愚にも付かない事で気を紛らせていたが、なんだか街から外れて、次第に山ん中に入ってきているような気がしてならない。
勾配、傾斜こそないが、やたら周囲が樹々で鬱蒼としている。
(ウッソーっ!)
と、クダラナイ親爺ギャグで不安を誤魔化した。
車内に光るデジタル時計を見ると、もう6時半を過ぎていた。
本来なら、もう会場近辺の街中のはずである。
なのに、まだ山ん中って、どういうこと?
ナヴィに嘘つかれた?
いやいや、人格があるわけでなし・・・。
イカレたんかな?
動作異常・・・か。
そういや、今更だが、僕は相当な方向音痴だった。
『地図の読めない女』というベストセラーがあったが、自分はその男版である。
生まれもって、方向感覚というのが、母親の胎内に落っことしてきたのか、左右・東西南北に弱い。
なので、幼い頃は、親との買い物でも、遊園地でも「迷子」の常習犯だった。
何度、母親から「手ぇ、放したらダメだかんねっ!」と言い含められたことか。
いい歳こいて、また、迷子なのオレ?
・・・と、洒落になんない気分に、胃の腑がジワリといった。
その時・・・。
ナヴィが告げた。
「目的地に到着しました」
はぁ・・・?
それは、明らかに、寂しい山ん中だった。
雨は降り続いている。
ワイパーはカチャカチャと相も変わらず窓を拭っていた。
ビーム(遠目)にしたヘッドライトは、こないだの車検でハロゲンランプ(電球)を交換したばかりであった。
暗闇と雨煙に対して、それを切り裂くように鋭角に一直線に伸びた光の先に、何やら人らしきシルエットが見えた。
ヘッ・・・、何っ・・・?
なんで、こんな山ん中の、真っ暗闇ん中に・・・。
シルエットは段々近づいてくる。
ライトを反射させる白いワンピース姿に見えた。
女・・・?
誰・・・?
何・・・?
この世の者・・・?
僕の混乱する思考を嘲笑うかのように、女はライトの前に棒立ちになっていた。
(・・・・・・)
いや・・・
立ってなんか、いない・・・
つま先が、宙に浮いてる・・・
それが、どうやってなのか・・・
だんだん、こっちへ近づいてくる・・・
そして、とうとう・・・
ボンネットに両腕を付いた・・・
すると、ゆっくり四つん這いになって、その上を這いだした・・・
髪も、服も、ずぶ濡れ・・・
額から血が流れている・・・
(・・・!)
僕は、座席からずり落ちながら、睨む女の視線を外すことができなかった。
それは、この世の人間の眼ではなかった。
女は・・・
蚊の鳴くような・・・
か細い、かすれ声で・・・
つぶやいた・・・。
「モクテキチニ・・・
トウチャク・・・
シマシタ・・・・・・」
⁂
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます