夏風邪の諸症状も
だいぶと抜けてきたが、
まだ、寝返りすると
クラリとくるので
カラダを固くして寝ているせいか
背中が凝っている。
それと、
右足の親指に若干の
シビレ感があり、
おとついに右の臀部に
痛みがあったので、
左側に続いて新たな
坐骨神経痛の発症かと懸念している。
顎関節症は、
ブログを辿ると
去年の8月に始まったようだが、
丸々一年で、どうやら
開口度と痛みが
八部まで治ってきた。
夏休みに入ったとたん、
緊張感が緩んだのか、
夏風邪にかかってしまって
長引いているが、
一月ものロンバケなので
ゆっくり養生して、
完治したら、また古楽器製作を
開始したいとも思っている。
**
今朝方、またまた、
ドタリと、ベッドから
落下してしまった・・・(笑)。
打ちどころが悪かったら
そのまま、あの世行きなので、
笑い事ではないが、
ついつい、昭和の「落語家」
林家 三平のギャグが
脳裏を過り
(あっ!! 落伍者)
と、自虐的に笑えてしまった。
最近になって、
二回も落差50㎝くらいの
ベッドから落下してるので、
何事三度で、大事故にならないよう、
寝しなにも、寝室にも掲げている
『天地書附』に一晩の無事をも
御祈念させて頂こうかしらん、
と思わせられた。
*
祇園祭りの
宵山と山鉾巡行が
ニュースで流れ、
いつもなら一月前には
玄関の室礼をそれに改めているのに、
この夏に限って、忙しかったのと
体調不良で忘れていて、
きのう、「名残り」として
味わうことにした。
ちょうど、庭の紫陽花も
梅雨明けの時季には
全部花が枯れるが、
一輪だけ枯れずにあったものを
「名残り」として活けられた。
日本人特有の美観である
「侘び寂び」として
「残心」や「名残り」を
味わうというのもある。
ギヤマンの灰皿は
誰も喫煙しないので、
蹲(つくばい)に見立てて、
冷水を張って
見た目に涼を感じるように仕立てた。
*
おとついの日曜に、
三ツ星フレンチのシェフが
ひょっこり来られて、
『ブラン・ド・ブラン』の
ヴァン・ムスゥを持ってきて
くだすった。
聞けば、
月一デジュネ(ランチ)の
5回目にオーダーした
『プレサレ』
(モンサンミシェル産仔羊)が
お客様方に好評で、
追加オーダーされたという。
「福の神」になって頂いたので・・・
という事のお礼だというので、
恐縮したが、有難く頂戴した。
体調が回復したら、
快気祝いとしてカミさんと
開栓したいと思っている。
*
読了したばかりの
狐狸庵センセイの『侍』が
軽薄短小な昨今の小説類と違って
さすがの重厚長大な筆致で
極上のフルコース・ディナーを
味わったような満足感が得られた。
全編に「侍は・・・」という主語が
用いられており、
その名は「長谷倉 六右衛門」とあり、
先に読んだ米版翻訳者ゲッセル教授の
『解説』にも支倉とあったのに、
それが「支倉 常長」の事だと、
ドクターのS先生にご指摘頂くまで
気付かずに読了した(笑)。
もとより
常長の事については
名前だけ知っていて
何の予備知識もなかったので、
読了後に、改めてウィキで
調べてみた。
まるで、小中学生の
「夏休みの自由課題」である(笑)。
そしたら、
その肖像画や
復元された渡航船などの画像があり、
前もって見ておけば、
もっと小説を別の視点で
味わえたのに・・・とも思ったが、
それらの予備知識がなかったからこそ、
自由なイマジナリーを膨らませることが
できたのかもしれない・・・とも感じた。
常長は米沢生まれというから、
亡き祖母の実家や
亡父がその実家で
山大時代を過ごしたのと
不思議な縁をも感じた。
*
狐狸庵センセイの作品は
ほぼ全作品を蒐集し
純文学とエンタメ物を読破してきたが、
キリシタン物は
代表作の『沈黙』を読んだだけで、
ほぼ手つかずで数冊が
書庫に長らく保管されてきた。
なので、この夏休みに
それらに取り組もうと思っていたが、
最初の『侍』は宗教文学としても
傑作で、哲学・心理学・魂理学の
いい勉強素材にもなった。
外国で
日本文学やカトリック文学を
専攻する学生の中には、
遠藤 周作「大先生」と
称してリスペクトする
コアなファンも少なくない。
宗教性の本質と
教団のポリティカルな恣意性とは
相容れないものがあり、
その矛盾を徹底的に描いたのが
「大センセイ」でもあるので、
純粋な「魂の救済」に
関心を持つ者であれば
洋の東西を問わず、
その純粋性に魅かれるのであろう。
*
第二弾で読み始めた
『銃と十字架』は
『侍』とは違って
物語仕立てにはなっておらず、
全編、「大センセイ」の講義口調で
書かれているので、
エンタメ性は全くない。
それでも、
96年に亡くなってから久しい
狐狸庵センセイの
キリシタン研究者としての一面に触れ、
その謦咳に接している
学徒のような気分が味わえている。
これも、夏休みならでは・・・であり、
そして、今、病気療養中ならではの
寝養生しながらの勉強になっている。
***
「魂の救済」の勉強は、
二学期以降も
子ども達やその親たちの
「困り感」の救済にも
役立つこと必至と思っている。
学術論文を読むだけが
勉強ではなく、
殊に、心理臨床家は
多くの物語を読むことも必要だと、
亡き河合先生もよく仰っておられた。
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