
母親の祈りは、思いがけぬ形で天に届いた。
なんと里奈の乗った家舟は、ビリヤードの玉のように、無数の漂流物に押し合いへし合いされたのと、津波の巨大な渦によって方向を変えられ、母親のいる高台近辺へとその舳先を向けていたのだ。
布団から這い出し、窓辺にかじりついて外の情景に目が釘付けになっていた里奈は、そのことに気付いた。
「お母さん。そっちへ行くよーッ!」
という予想だにしなかった娘の言葉に、母親は瞬時にはその状況が呑み込めずにいた。
そして、まるで、娘が学校から帰宅でもするような姿が脳裏に浮かんで、ほんの一瞬だけ胸の内に明かりが灯ったような気がした。
しかし、それは妄想にしか過ぎなかった。
母親も、今この状況で、娘が言ったことの意味がようやく了解できた。
そして、逆巻く濁流の彼方へと目を凝らした。
すると、どうだろう。
我が家のと思しきあのオレンジ色の屋根がこちらへ向かって流れてくるではないか。
今しばらくしたら、高台から数十メートル辺りまでやってきそうな…と、思っているうちにも、どんどんと接近してくるのであった。
「里奈ぁーッ!」
思わず母親はその方角に向かってありったけの力を振り絞って雄叫びをあげた。
その時だった。
堅く閉ざされていたサッシの窓がガラリと開き、里奈が半身を乗り出してこちらに向かって叫んだ。
「お母さぁーんッ!」
母親の目に、はっきりとその姿が映った。娘である。ケータイの向こうの生身の里奈がそこにいた。
「お母さぁーんッ!」
と二度目に叫んだ声は、よりハッキリと母親の耳に届いた。
「里奈ぁーッ!」
母親も無我夢中で叫んだ。
親子共々、諸手を広げて互いを抱擁せんとばかり、互いを呼び合った。
その場面を、高台の大勢の避難者たちが目撃していた。
なんという母娘の邂逅であり、そして告別であろう。
「お母さぁーんッ!」
「里奈ぁーッ!」
二人の距離が最短に縮まったとき、母娘の目と目がしっかりと合った。
「里奈ぁーッ!」
「お母さぁーんッ!」
二人は泣きながら互いを呼び合ったが、次の瞬間には、家舟は無常にも海岸線に向かって特急列車のように高台前をすり抜けていった。
「里奈ぁーッ!」
「お母さぁーんッ!」
わずかの間にも、娘の叫び声は母の耳からどんどんと遠ざかっていった。
その先には、まるで娘のことを家ごとひと呑みにしようと魔人が大口を開いて待ち伏せしているかのように母親には思えた。
さすがに、娘も母親も、この逆巻く怒涛の中に身を投じようとは思いもしなかった。
それは間違いなく確実な自殺行為であり、漂流にまかせて救助される確率の方がまだ高いはずだった。
母親はまたケータイに向かって娘に呼びかけた。
「だいじょーぶ。
だいじょーぶだから。
がんばるのよッ!
きっと自衛隊が助けてくれるからッ!」
と、はじめて母親の口から具体的な救助の希望を娘に告げた。
「わかった。
がんばるッ!」
里奈は、母親の励ましが功を奏したのか、いくらか気丈さを取り戻していた。
母親も娘も祈る思いだった。
(自衛隊でも、海上保安庁でも、漁船でも、なんでもいいから助けて…。神様ぁ…)
里奈を乗せた家舟は、海岸線を超え沖へと向いだした。
わずか数分で、母のいる高台は遠方に遠のいた。
恐るべき引き波の速さである。
それでも今のところ、バッテリーが続く限り、母娘の応答を阻むものがなかった。
「里奈ッ。窓を閉めなさいッ!」
母は強い口調で娘にそう指示をし、娘はそれに従った。
部屋中は完全に潮の匂いに満たされていた。
もう、洋上に出ており、我が町は、遥か彼方へと後退していた。
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