『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

蟻との闘い

2013-07-21 07:15:00 | 生活


先日、突然、
2階なのにパソコンを操る手元に
蟻が這っていたので
「ヘッ!?」
と驚いた。

よく見ると、机の上をゾロゾロと
行列が行進しているではないか。

最初のうちこそ
元生物教師でもあり、
一々摘んでは窓から
外に逃がしてやっていた。

ところが、次第にキリがなくなって
プリンターやキーボードの周りを
うろつき始めたので、
これでは電子機器に
故障が来たすやも
という恐れが出てきたので
「害虫」と認定して
駆除に方針を変更した。

まずは、じっくり蟻の出所を
追跡してみたら、なんと、
床が沈んだようで、壁との間に
数ミリの隙間が生じていた。

そこから、壁の内部を
蟻が外から上ってきて
ワンサカと大挙して
やってくるようだった。

そこで、楽器製作用の
木工ボンドで5メートルほどの
隙間を埋めた。

それでも、翌日、まだ
蟻がやってくるので、
ほんのわずかな隙間も
一々全部埋めた。

そして、侵入してきた蟻は
掃除機で吸い取ったり
アルコールの入っている
リセッシュで撃退した。

およそ、四日の攻防で
やっと姿が見えなくなって
一安心しているところだが、
この夏、いつまた
わずかの隙間から
やってくるやもしれない。

しかし、よくよく考えてみたら
ヒマな夏休みをずいぶんと
蟻と戯れていたとも
思えなくもなかった。


****************

魂理学随談

『あまちゃん』を語る



じぇじぇじぇ 

奈保子 今、人気の連ドラ『あまちゃん』をサブカルのテキストとして、その魅力、現代性など、いろいろと分析してみたいと思うんですが、如何でしょうか。
先生 なるほど。今、視聴率のトップのようだから、現代人の心性の一端が解るかもしれませんな。
奈保子 まず、なんと言っても、人気のいちばんの要因は「じぇじぇじぇ」ですよね(笑)。
先生 せやね。今年の流行語大賞は、間違いないでしょう。
奈保子 語感が新鮮だったんでしょうか。
先生 いや。あの手の言葉はサカナ君の「ギョギョギョ」だって近いじゃないですか。
奈保子 あ、そうでしたね。「ゲゲゲ」っていうのもありましたね。
先生 『ゲゲゲの女房』も人気があったものね。
奈保子 ああいうオノマトペ的な表現というのは日本人は好きだし、わりとスラングのように広まることがありますね。
先生 こないだ、『クローズアップ現代』でも特集していましたが、日本人は言語表現よりも直裁的に理解可能なのでオノマトペ優位になるようですね。
奈保子 「すごく驚いた」というのを「じぇ」の回数で現すのと、言葉で一々説明するのでは、絶対に「じぇ」の方が心情的にピッタリきますよね。
先生 かつてなら「めっちゃビックリした~」とか言ってたんでしょうね。
奈保子 今なら、『じぇじぇじぇ』で事足りますものね(笑)。
先生 でも、若い子は連ドラなんて見いひんから、定着はしないんとちゃうかなぁ。
奈保子 そうですね。一過性の流行語で終るかもしれませんね。
先生 ただ、ドラマのなかでは、地方から集まってきた地元アイドルの卵たちも「じぇじぇじぇ」を使うでしょ。
奈保子 はい。
先生 ドラマの演出だけど、あれは面白い現象じゃないですか。それぞれが多様なお国言葉を語る少女たちが、驚きの表現だけは一人の方言に収斂されるでしょ。
奈保子 なるほど。そうですね。国柄の違う少女たちの心に納まるインパクトがあったということですね。
先生 それと、大人世代の鈴鹿ひろ美にも一時的に感染するでしょ。
奈保子 最初は「じょじょじょ」でしたけどね(笑)。
先生 そうそう。でも、スカウトだった水口には最初から感染しないよね。
奈保子 そういえば、そうですね。地元に潜入していたのに、なぜなんでしょう。
先生 きっと、彼のペルソナ(外的人格)が硬いからじゃないのかな。
奈保子 都会人として、スカウトマンとしてのですね。
先生 そう。その点、アキのペルソナは柔軟だからすぐに方言に染まったでしょ。
奈保子 あれは、愛する人たちと同化したいということなんでしょうね。それと、元々、東京人だったアキが、東京に戻っても方言に徹しているのは、やはり三陸を誇りに思い、そのアイデンティティを失いたくないからなんでしょうか。
先生 それもあるけど、それと、GMTの戦略方針と合致しているからでしょ。
奈保子 あ、そうですね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンテナ交換

2013-07-20 07:10:00 | TV・ドラマ


BSにたびたび
ブロックノイズが入るので、
ストレスになり、
近所の電気屋さんに
アンテナを交換してもらった。

デジタル対応の
45径最新型アンテナなのに、
受信レベルが逆に下がってしまい、
途中のアナログ時代の
セパレーターやコード類との
マッチングがよくないのかもと、
部屋に直結工事になった。

新アンテナ料金を聞いたら
定価なのか「価格.COM」の倍もするので
肝を冷やしてしまったが、
自分で取り付け調整ができないので
仕方なくプロに丸投げとなった。

2週間ほど様子を見てから
ということで、
まだ、支払いが済んでいないが、
はたらして設置費と合わせて
いくらになるのか
ボンビーな身の上には
ハラハラ、ドキドキである。



***************


魂理学随談

我が物にして我が物ならず

先生 最近、ふと感じたんですが…。自分ちの土地を、長らく「自分のもの」と思い込んで暮らしていたんですが、考えてみたら、いっ時、天地から借りて住まわせてもらっているだけなのかもしれない、と思ったんですね。
奈保子 はい。
先生 以前には、自分の「いのち」について、我が物にして我が物ならず、というフレーズが出てきたと思いますが…。この世の私物だっと思っていたものは、すべからく天地宇宙からの借り物に過ぎない、ということですね。
奈保子 なるほど。『借りぐらしのアリエッティ』公開のときにも、そういう話題がありましたね。
先生 そう。あの頃から、薄々気づいてきたんです。
奈保子 自分の「いのち」も「からだ」も「こころ」も「たましい」も、全部借りものだったんですね。
先生断定するには、いささか抵抗がありますが…。そういう一面もあるようですね。
 最近、こんな歌に出会って、得心がいったんです。

 天地のこといのちの神秘
  知りて知り難きものぞ
   とかしこみ思ふ

奈保子 なるほど。碧水先生をしても、天地悠久のことは、知り難しことなんですね。
先生 そうなんだね。あたりまえかもしれないど…。だから、いろいろと考察を重ねてきましたが、けっきょくは何一つ「知り難き」というのが今の心境でもあります。
奈保子 まさに、天地のこと、いのちのことは、知り難きものぞ、という歌のとおりですね。
先生 あたりまえのことだけどね。
奈保子 それでも、人は知恵を絞って知ろうとするし、知りたいと欲しますね。
先生 それが、人間の業なのかもしれませんね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母校

2013-07-19 08:03:00 | 風景


気が向くと、
ふらりと小中の母校に
立ち寄ることがある。

清明幼稚園は
50年前の姿のまんまで、
園児だった頃の自分が
感じたことが蘇ってくる。


ただ、今の姿は、
セシウム汚染で
遊具が封鎖されている。




隣接する清明小も
50年前と変わらぬ姿である。

内部には耐震工事の
鉄骨の筋交いが見えるが。

グランドのこの位置では、
ソフトの町内対抗で打席に立ったり、
運動会の徒競走で走った風景が蘇る。




校庭隅に設置されている
古タイヤも昔のまんまである。

低学年の頃は、
ここを馬跳びして、
途中で腕がくたびれたが、
高学年になるとこの上を
ポンポンと跳び渡ったりした。


********


魂理学随談

現代宇宙論と疑義

奈保子 最新の宇宙科学では、この宇宙は138億年前のビッグバンによって始まったということが明らかになっていますね。
先生 もう教科書的な定説ですね。
奈保子 また、現在、この宇宙は加速しながら膨張しており、そこから10の33乗年後には、すべての物質を構成している素粒子が崩壊し、宇宙も終焉を迎えるだろう、と言われているらしいんです。
先生 ほう。そうですか…。ちゃんと宇宙にも終わりがあるんだ。
奈保子 もっとも、太陽は50億年後には燃え尽きますし、1億年後には膨張により地球は生命生存圏ではなくなっているでしょうね。
先生 そうでしょうね。宇宙にも太陽系にも地球にも寿命がある、ということは、現代宇宙科学のセントラル・ドグマでもあるね。
奈保子 「生きても死にても天地は我が棲みか」という言葉がありますが、これが詩的な比喩でなかったなら、地球が滅亡して、宇宙に終焉があるとしたら、「我が棲みか」というのは物質世界をさすのではなく、現宇宙とパラレルにある異次元の非物質的世界(霊界・神界)を意味するのでしょうか。
先生。なるほどね。そうとも考えられますね。もっとも、現代科学が絶対正しいとは限らないでしょうが…。
奈保子。それもそうですね。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝林寺

2013-07-18 08:41:00 | 風景
もしも、一度も
生まれ故郷を出ていなかったら、
自分の過ごしてきたいろいろな処を
懐かしく思ったりしなかったかもしれない、
とふと思った。

故郷を十数年離れ、
そして、再び戻ってきたがゆえか、
はたまた、父親が亡くなった歳に
あと15年と近づいたせいか、
近頃、幼少期を過ごした場所に
時折出かけては懐かしい昔の頃を
思ったりしている。



宝林寺は、
小6までを過ごした柳町時代の
子どもたちの溜まり場、遊び場であった。

大銀杏はいまも健在だが、
幾度も落雷に見舞われて
元の大木の半分ほどになっている。

それでも、子どもの頃
足をかけて登った幹が
いまだに元型を留めている。




今や市の文化財指定になっている
熊野様のお堂は場所が移されたが、
散々遊び場にした処で、
兄は高縁から飛び降りて
膝に大怪我をし、
7針も縫ったことがある。


**************



魂理学随談

神の視座


奈保子 心ある人ならば、なぜ、2万人もの人が、この現代で、自然災害の犠牲にならなくてはならなかったのか、と心を痛め、且つ、素朴に疑問を抱いたのではないでしょうか。
先生 そうですね。至極、真っ当な疑問でしょうね。
奈保子 あの犠牲者の死は、何のためだったのか、という「問い」は形而上的なものですよね。
先生 人間中心原理的には、とてもその答えは見出せないと思いますよ。だから、その視座をより高次の宇宙中心原理、ないしは神中心原理から考慮してみる必要があるでしょうね。 
奈保子 宇宙的な無窮の時間からすれば、私たちの生涯なんかは、瞬間の出来事に過ぎず、一個人の存在もまた、全宇宙の物質、あるいは全生命からみれば微々たるものに過ぎませんね。
先生 そうだね。例えてみれば、一年間のなかでの1秒間よりも短く、全海洋のなかでの一滴の水滴よりも小さいと想像したらどうだろうね。
奈保子 どうしても3・11で2万人が死んだという圧倒的事実に目を奪われていますが、そもそも、「死」を人間中心原理により、忌避するもの、悪いもの、嫌なもの…と、ネガティヴな概念で捕らえる所から誤謬を犯しているのかもしれませんね。
先生 いいところに気がついたね。そうなんですよ。神の視座からは、「死と生」は状態の違いでしかなく、それは、磁石のNとS、電気の+と-のように、広く宇宙に存在する対立状態であり、どちらかに価値があるというものではないんじゃないでしょうか。
奈保子 なるほど。そうかもしれませんね。
先生 かつて、航空機事故史上の大惨事だった日航ジャンボ機事故で、教え子のお父さんが亡くなったので、その子のカウンセリングをしたことがあるんですが、その際、たくさんの遺族文集を見せてもらったなかに幼い子の手記を見て、ハッとしたことがあるんです。
 それは『かみさまへ』というものでした。

 かみさま
 なぜぼくのおとうさんしんだんですか。
 ぼくにはわかりません。
 でもぼくがしんだらわかるよね。

 子どもの直感は、この世的な視座からでは不条理な出来事は理解し得ず、あの世的な視座をもって、はじめて全体性のなかで了解可能なことがある、ということを見抜いているんですよ。
奈保子 なんだか感動的な詩ですね。
先生 でしょ。はたして、3・11で身内を亡くされた方々が、こういう気持ちに辿り着けたか…と、思いましたね。
奈保子 現代人は、科学的実証主義に思考やライフスタイルが偏向しているので、魂の存在や、霊、神、という目に見えぬものを入れ込んで、あるいは信じて、世界や宇宙の全体を見るということが出来ないところに、心穏やかならない日常の根源があるのかもしれませんね。
先生 まったくですね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏休み

2013-07-17 10:00:00 | 映画
いよいよ今日から
夏休み突入である。

目標を持って
毎日を有意義に過ごそうと
心づもりしていたが、
いきなり朝寝してしまった。

オホーツク高気圧の冷気のため
珍しく涼しいので、
スイスイ気持ちよく
眠れてしまった。




昨晩はBSで
『男はつらいよ 純情編』が
放映されていたので
途中まで観た。

録画ビデオで全作品持っているが、
フルハイビジョンになってからは
観ていないので、キレイな画面で
しばし楽しんだ。




ジブリの新作は20日から
公開になるので、
これは劇場に観に行くつもりである。


************

魂理学随談

沈黙の神

奈保子 遠藤周作の『沈黙』という作品では、熱心なキリシタンや神父が迫害にあっても、神は沈黙したままでいる様が描かれていますね。
先生 その舞台となった長崎にある遠藤周作記念館には、海を望む句碑があってね、
「人間がこんなに哀しいのに 
 主よ 海があまりに碧いのです」
 って、刻まれているんですよ。
奈保子 なるほど。いかにも…という文句ですね。
先生 これまで、世界に起こってきた天災で、キリスト教の神も、アラーの神も、日本の八百万の神も、それで亡くなられた人々を助けてはくれなかったでしょ。
奈保子 はい。神が沈黙しているのは、人間の自由性を尊重して手を出さないから、という解釈がありますものね。
先生 そう。神が何にでも手を下したら、人間は単なる傀儡(かいらい)になってしまい、存在の意味がなくなってしまうからね。神は、真偽・善悪・美醜・聖邪、すべてを人に任せっきりでいる。
奈保子 「神慮は深遠にして、人の思いぞ及ばざる」ものですものね。
先生 そう。神のみぞ知る「神秘」というのが、あるのかもしれない。 
奈保子 天変地異には、神が、これまでの人類が積んできた天地自然へのご無礼に、人を気づかせるため、そして、ほんとうに救い助けるために神心からなされている、という考えもありますね。
先生 はい。でも、やっぱり、その解釈でも、今現在、被災している人たちや、愛する家族を失った人たちには、はたして、受け容れられるかどうかは疑問でしょ。
奈保子 そうですね。受け入れ難いものかもしれませんね。
先生 自分の身に置き換えてみたら、よく解るでしょ。
奈保子 はい。いくら信仰があっても、スンナリおいそれとは…。
 それと、神が、最終的に人に気づかせるためとはいえ、天災をもたらしたとするならば、なんだか運命論とか決定論になってしまって、人間に神から与えられた自由性というものと論理的に矛盾しますものね。 
先生 人は神の分身、という考えとも矛盾する。神が自分の分身である魂を持つ人に災いを与えて、またそれを助けるなんて、戯れでもない限り、ナンセンスだもの。
奈保子 キリスト教では、人は神の分身とは考えていませんが、人の魂(霊性)は神性の分身という考えですと、この世には本来、一人称しかなくて、二人称以上は存在せず、主格一体になってしまいませんか。
先生 ただ、便宜的に神と人とが対置されて概念化されているとすると、「神が最終的救済のために」という考えは成り立たないしね。
 人生の一回性や、生の一面のみを見ていたら、この世の不条理、理不尽な災害は、納得出来かねることばっかりですものね。
奈保子 そうですね。それに、人生を一回だけじゃなく、死後生をも含めて見るというのは、ふつうの人の考えには、あまりないかもしれませんね。
先生 そうでしょうね。
 生のみでなく、死をも込みで、1枚のコインには表裏があるように、全体性の中で、我われは、生かされもし、死なされもしている、と考えてみれば、また違った視座があることを思わされるんですけどね。
奈保子 ウォルシュの『神との対話』では、魂の選択の自由という考えが出てきますね。
先生 非業の死も、神の分霊である魂が、自らを経験するために「選択」した結果である、というんでしょ。
奈保子 はい。魂というものが「生き通し」のものであって、肉体を得て「生きている」時と、肉体を離れて「生きている」時(死)の二つの位相があり、永遠に経験を続ける、というんですね。
先生 『神との対話』では、神自身があらゆる体験を無限にし続けるために、無数の分身(魂・分霊)に分化して、すべての経験を選択することで、現象が展開していく、と説明していますね。
奈保子 はい。なんとなく、矛盾がないようには思うが、それでも、それも真理かどうかは、信ずるかどうかの個人の神話なんでしょうね。
先生 そう思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする