どうも自分には、
マンガモードと
小説モード、映画モードと、
周期的に来るようで、
とことんマンガを読んでると
無性に小説が読みたくなり
活字にかかりっきりになる。
それに飽くと
今度は思いっきり映画が見たくなる。
…といっても、
いっときは劇場通いに
明け暮れていたが、
最近はもっぱらBS録画が多く、
年間100本近く観ている。
マンガ→小説→映画
↑ ↓
←←←←←
…というのは、
あんがい理に適った
サイクルなのかもしれない。
マンガは、
活字+ヴィジュアル媒体で、
映画は、
ヴィジュアル+オーディアル媒体だが、
小説がいちばんシンプルゆえに
想像力を掻き立ててくれる。
思うに、
リビドー/サイコ・エネルギーの関与は、
小説>マンガ>映画
の順であろうか。
映画は、丸ごと受身で、
ただ観てりゃあいい(笑)。
小説は、
読むというアクティヴな
インヴォルヴメント(関与)が要る。
丸々二日間、
家から一歩も出ず、
寝室に籠もりっ切りで、
598頁もある
中島らもの超大作
『ガダラの豚』を読破した。
文庫版では
3冊の分冊になっているが、
新書版だと750gもあって
手に持ちながら読むのには
かなりの負荷だったので、
書見台とクリップを用いて
フリーハンドで臨んだ。
らも氏の作品は、
エッセイ等も含めほぼ読んできたが
この『ガダラ』は
氏の最高傑作と言ってよかろう。
アフリカの呪術をめぐる噺で、
理不尽な「呪い」と対峙する
日本の文化人類学者一家の
サスペンス物である。
緻密な活劇描写が
映画のように生き生きとしており、
まるで読む『インディー・ジョーンズ』
のようでさえあった。
〔日本推理作家協会賞受賞作〕
となったのも
むべなるかなである。
らも氏は晩年、
新作の『こどもの一生』が
ホラー大作だと自ら喧伝していたので、
乗せられて読んでみたら
さほどでもなく
(アル中の大言壮語?・・・笑)、
『ガダラ』の方が
ホラー作品としても一級品である。
なんせ、二日間、
家に縛り付けられるほど
夢中にさせられたのだから・・・。
これが、
未だに映画化されてこなかったのが
不思議なくらいだが
(マンガ化はある)、
映画以上に映像的描写だから
映画人も二の足を踏んできたのだろうか。
「ガダ豚」ファンの間でも
映画化の要望は多いようで、
勝手にキャスティングを
組んでるサイトもあった(笑)。
自分なら、
このシーンにどんな音楽を使うか、
という劇伴が浮かんだが・・・。
久石 譲なら
どんな音楽を創作するだろうか、
なぞと考えてみるのも興味深い。
今週は、
定演ウィークで
橘高「ブラ4」
福高「ラフ2」
ジュニオケ「ドヴォ8」
と3つのシンフォニーを
音楽堂で聴くつもりなので、
せっせと復習をしている。
ブラ4は
いろんな盤があるが、
教員時代に高槻の新星堂で買った
バルビローリの全集のが
いちばんのお気に入りである。
当時、出だしを耳にして、
「ウワーッ!!
トロッケン・ベーレン・アウスレーゼだぁーッ!!」
と、思わず叫んでしまった。
それは、
ドイツの極甘でトロリとした
極上の「貴腐ワイン」である。
久しぶりに聴いてみて、
当時の感動が蘇ってきた。
ライナーノーツを読んで、
堂々とした力強いフレーズを
「騎士の動機」といったり、
最終楽章が「シャコンヌ」形式だったのを
久しぶりに思い出した。
20代の頃には、
ドーバー社の大型スコアを入手して、
いろんな盤を何十回聴いたかわからないので、
曲の隅々まで頭に入ってはいる。
残響豊かな音楽堂で
十代の高校生たちが
どうそれに若い命を吹き込み
演奏してくれるのかが
楽しみである。
「ドヴォ八(はち)」は、
いつも「つぼ八」を連想するが(笑)、
初版がロンドンの出版社だったことから
かつては『イギリス』という愛称があった。
初めて聴いたのは
セル盤だったが、
その第三楽章のリリカルさには
総毛立つほどに感動したのを覚えている。
後に、京都の十字屋で買った
『全集盤』でノイマンを聴いてみた。
チェコの指揮者が
チェコ・フィルを振って
自国の作曲家をやるのだから、
正調節なのかもしれないが、
なんだかカッチリして
遊びと開放感がないように感じた。
隣国ハンガリー出身のセルの方が、
クリーヴランドという米オケながら、
瑞々しく、伸びのびしていて、
歌が自然体なのである。
たしか、
『名曲名盤500』では
1位になったように思うが・・・。
(ポーランドのピアニストが
必ずしも名ショパン弾きでもない
ということもあるなぁ・・・)
と思わないでもなかった。
カラヤン/小澤の師弟コンビは
やはり、どことなく表現が似ており、
ボヘミアチックな色が
日独人の憧れ的に表現されている
感じであった。
「ラフ2」は、
アシュケナージ盤だけを
集中して聴いてアナリーゼもしてるが、
まだ、メロディーラインが
暗譜できていないので、
生演奏される金曜日までには
口ずさめるくらいには
聴き込んでおきたい。
34人もの犠牲者を出した
大放火殺人事件となった
「京アニ」事件の犯人が
精神異常歴があったというので、
久しぶりに院時代の師匠である
市橋先生の名著『心の地図』の
Schizo(統合失調症)の章を
再読してみた。
一般書だけあって、
具体的、平易に病像が記載されており、
現在、複数のケースを持っているので、
いい復習教材になってくれた。
きのうは、
夏休み前にリファー(依頼/紹介)
したケースへの
サイコセラピー研究会で
ご一緒したドクターから
ご丁寧な〔診療報告書〕が届いた。
診断の結果、
「Schizo」とのことだったので、
二学期から、また、
その対応をせねばならない。
夏休み前に、
<急性期>と思われる、
幻聴や混乱、興奮、自傷が激しく、
家の中が不穏になるほどだったので、
願わくば、
この夏休み中に
薬と休息が奏功して
<休息期>から<回復期>へと
症状が落ち着いてくれればと
ご神前でもご祈念させて頂いている。
カウンセリング中にも、
錯乱、興奮状態になったので、
その凄まじいエネルギーに
危うくこちらも呑み込まれそうになったので、
二学期以降は侵襲性の少ない
表層的アプローチでの
アート・セラピーに変えようかと
治療計画を練っている。
別ケースでは、
近々に近親者の対象喪失の危機があり、
その時のリスク・マネジメントも
担任はじめ指導委員会として
対策案を練っている。
今は、嵐のような急性期が過ぎて、
感情の起伏が乏しい休息期に在るが、
対象喪失の刺激が誘因となって
急性期に逆戻りする
「かもしれない」
という想定でいるが、
その時はまた入院対応で
医療側に任せるより仕方がない。
***
「Schizo」は、歴史的には
「クレペリン検査」で有名な
クレペリンによって「早発性痴呆」と
最初に唱えられ、後に、
ユングの師匠であるブロイラーによって
現在の「統合失調症」の概念が唱えられたので、
臨床心理学との縁も浅からぬものがある。
初期には、
やがて人格荒廃に至り、
いわゆる「廃人化」するものと
恐れられていたが、
昨今では、薬物療法と
心理社会的療法(リハビリ・プログラム)の発展で
多くの人が自立した社会生活を
送れるようになってきたのは幸いである。
統計的には、
発症後20〜30年の経過は、
回復/社会的治癒群が20〜30%、
軽症/中等症群がそれぞれ25〜30%、
重症群が15〜25%
だという。
軽症群は、
症状はあるが、
日常生活には支障をきたさないものである。
なので、
回復/社会的治癒群と合わせると、
約半数が社会的生活を
問題なく営むことができている
と考えられている。
この程度の基礎知識は、
昨今はスマホで誰でも分かるのだが、
やはり、専門家の口から
保護者に対して
「安心感・安全感・大丈夫感」と共に
丁寧に心理教育するのが
大事な治療姿勢なのである。
師の市橋先生の言葉を借りれば、
「我々は、地図とコンパスを持ってますから、
富士山の樹海でも遭難することはありません」
と、よきガイドでもあらねばならない。
マンガモードと
小説モード、映画モードと、
周期的に来るようで、
とことんマンガを読んでると
無性に小説が読みたくなり
活字にかかりっきりになる。
それに飽くと
今度は思いっきり映画が見たくなる。
…といっても、
いっときは劇場通いに
明け暮れていたが、
最近はもっぱらBS録画が多く、
年間100本近く観ている。
マンガ→小説→映画
↑ ↓
←←←←←
…というのは、
あんがい理に適った
サイクルなのかもしれない。
マンガは、
活字+ヴィジュアル媒体で、
映画は、
ヴィジュアル+オーディアル媒体だが、
小説がいちばんシンプルゆえに
想像力を掻き立ててくれる。
思うに、
リビドー/サイコ・エネルギーの関与は、
小説>マンガ>映画
の順であろうか。
映画は、丸ごと受身で、
ただ観てりゃあいい(笑)。
小説は、
読むというアクティヴな
インヴォルヴメント(関与)が要る。
丸々二日間、
家から一歩も出ず、
寝室に籠もりっ切りで、
598頁もある
中島らもの超大作
『ガダラの豚』を読破した。
文庫版では
3冊の分冊になっているが、
新書版だと750gもあって
手に持ちながら読むのには
かなりの負荷だったので、
書見台とクリップを用いて
フリーハンドで臨んだ。
らも氏の作品は、
エッセイ等も含めほぼ読んできたが
この『ガダラ』は
氏の最高傑作と言ってよかろう。
アフリカの呪術をめぐる噺で、
理不尽な「呪い」と対峙する
日本の文化人類学者一家の
サスペンス物である。
緻密な活劇描写が
映画のように生き生きとしており、
まるで読む『インディー・ジョーンズ』
のようでさえあった。
〔日本推理作家協会賞受賞作〕
となったのも
むべなるかなである。
らも氏は晩年、
新作の『こどもの一生』が
ホラー大作だと自ら喧伝していたので、
乗せられて読んでみたら
さほどでもなく
(アル中の大言壮語?・・・笑)、
『ガダラ』の方が
ホラー作品としても一級品である。
なんせ、二日間、
家に縛り付けられるほど
夢中にさせられたのだから・・・。
これが、
未だに映画化されてこなかったのが
不思議なくらいだが
(マンガ化はある)、
映画以上に映像的描写だから
映画人も二の足を踏んできたのだろうか。
「ガダ豚」ファンの間でも
映画化の要望は多いようで、
勝手にキャスティングを
組んでるサイトもあった(笑)。
自分なら、
このシーンにどんな音楽を使うか、
という劇伴が浮かんだが・・・。
久石 譲なら
どんな音楽を創作するだろうか、
なぞと考えてみるのも興味深い。
今週は、
定演ウィークで
橘高「ブラ4」
福高「ラフ2」
ジュニオケ「ドヴォ8」
と3つのシンフォニーを
音楽堂で聴くつもりなので、
せっせと復習をしている。
ブラ4は
いろんな盤があるが、
教員時代に高槻の新星堂で買った
バルビローリの全集のが
いちばんのお気に入りである。
当時、出だしを耳にして、
「ウワーッ!!
トロッケン・ベーレン・アウスレーゼだぁーッ!!」
と、思わず叫んでしまった。
それは、
ドイツの極甘でトロリとした
極上の「貴腐ワイン」である。
久しぶりに聴いてみて、
当時の感動が蘇ってきた。
ライナーノーツを読んで、
堂々とした力強いフレーズを
「騎士の動機」といったり、
最終楽章が「シャコンヌ」形式だったのを
久しぶりに思い出した。
20代の頃には、
ドーバー社の大型スコアを入手して、
いろんな盤を何十回聴いたかわからないので、
曲の隅々まで頭に入ってはいる。
残響豊かな音楽堂で
十代の高校生たちが
どうそれに若い命を吹き込み
演奏してくれるのかが
楽しみである。
「ドヴォ八(はち)」は、
いつも「つぼ八」を連想するが(笑)、
初版がロンドンの出版社だったことから
かつては『イギリス』という愛称があった。
初めて聴いたのは
セル盤だったが、
その第三楽章のリリカルさには
総毛立つほどに感動したのを覚えている。
後に、京都の十字屋で買った
『全集盤』でノイマンを聴いてみた。
チェコの指揮者が
チェコ・フィルを振って
自国の作曲家をやるのだから、
正調節なのかもしれないが、
なんだかカッチリして
遊びと開放感がないように感じた。
隣国ハンガリー出身のセルの方が、
クリーヴランドという米オケながら、
瑞々しく、伸びのびしていて、
歌が自然体なのである。
たしか、
『名曲名盤500』では
1位になったように思うが・・・。
(ポーランドのピアニストが
必ずしも名ショパン弾きでもない
ということもあるなぁ・・・)
と思わないでもなかった。
カラヤン/小澤の師弟コンビは
やはり、どことなく表現が似ており、
ボヘミアチックな色が
日独人の憧れ的に表現されている
感じであった。
「ラフ2」は、
アシュケナージ盤だけを
集中して聴いてアナリーゼもしてるが、
まだ、メロディーラインが
暗譜できていないので、
生演奏される金曜日までには
口ずさめるくらいには
聴き込んでおきたい。
34人もの犠牲者を出した
大放火殺人事件となった
「京アニ」事件の犯人が
精神異常歴があったというので、
久しぶりに院時代の師匠である
市橋先生の名著『心の地図』の
Schizo(統合失調症)の章を
再読してみた。
一般書だけあって、
具体的、平易に病像が記載されており、
現在、複数のケースを持っているので、
いい復習教材になってくれた。
きのうは、
夏休み前にリファー(依頼/紹介)
したケースへの
サイコセラピー研究会で
ご一緒したドクターから
ご丁寧な〔診療報告書〕が届いた。
診断の結果、
「Schizo」とのことだったので、
二学期から、また、
その対応をせねばならない。
夏休み前に、
<急性期>と思われる、
幻聴や混乱、興奮、自傷が激しく、
家の中が不穏になるほどだったので、
願わくば、
この夏休み中に
薬と休息が奏功して
<休息期>から<回復期>へと
症状が落ち着いてくれればと
ご神前でもご祈念させて頂いている。
カウンセリング中にも、
錯乱、興奮状態になったので、
その凄まじいエネルギーに
危うくこちらも呑み込まれそうになったので、
二学期以降は侵襲性の少ない
表層的アプローチでの
アート・セラピーに変えようかと
治療計画を練っている。
別ケースでは、
近々に近親者の対象喪失の危機があり、
その時のリスク・マネジメントも
担任はじめ指導委員会として
対策案を練っている。
今は、嵐のような急性期が過ぎて、
感情の起伏が乏しい休息期に在るが、
対象喪失の刺激が誘因となって
急性期に逆戻りする
「かもしれない」
という想定でいるが、
その時はまた入院対応で
医療側に任せるより仕方がない。
***
「Schizo」は、歴史的には
「クレペリン検査」で有名な
クレペリンによって「早発性痴呆」と
最初に唱えられ、後に、
ユングの師匠であるブロイラーによって
現在の「統合失調症」の概念が唱えられたので、
臨床心理学との縁も浅からぬものがある。
初期には、
やがて人格荒廃に至り、
いわゆる「廃人化」するものと
恐れられていたが、
昨今では、薬物療法と
心理社会的療法(リハビリ・プログラム)の発展で
多くの人が自立した社会生活を
送れるようになってきたのは幸いである。
統計的には、
発症後20〜30年の経過は、
回復/社会的治癒群が20〜30%、
軽症/中等症群がそれぞれ25〜30%、
重症群が15〜25%
だという。
軽症群は、
症状はあるが、
日常生活には支障をきたさないものである。
なので、
回復/社会的治癒群と合わせると、
約半数が社会的生活を
問題なく営むことができている
と考えられている。
この程度の基礎知識は、
昨今はスマホで誰でも分かるのだが、
やはり、専門家の口から
保護者に対して
「安心感・安全感・大丈夫感」と共に
丁寧に心理教育するのが
大事な治療姿勢なのである。
師の市橋先生の言葉を借りれば、
「我々は、地図とコンパスを持ってますから、
富士山の樹海でも遭難することはありません」
と、よきガイドでもあらねばならない。