『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

ポスト・コロナ時代

2021-05-26 06:56:00 | ノンジャンル

T中の通勤路に
「田沢青果店」というのがあり、
そこの店頭の
「ちまき あります」
「おはぎ あります」
という張り紙があり、
どちらも偏愛があるので
惹かれるように寄ってみた。

ちまきは
5ケ600円、
おはぎは
4ケ360円だった。

どちらも
店自家製のもので
添加物なぞ入っていないから
安心してやれる。







三角粽は
生家の柳町時代に
よく祖母や叔母たちが
こしらえては
家の中に物干し竿を掛けて
そこに沢山吊るしてあった。

学校から帰って来ると、
そこから一個もぎ取って
黄粉をペタペタつけて
オヤツ代わりにやるのである。

なので、
昭和時代の郷土食として
脳裏に刷り込まれている。

ぼたもち類も
よく家で作っていた。

その頃は
枝豆のものは
「ずんだ」とは言わず、
すり鉢で擦ったので
「豆ずり」と呼んでいた。

仙台の「ずんだ餅」が
全国的に有名になってから、
「ずんだ」という名が
フクシマでも定着した感がある。












ゴールデンウイーク中に
完成予定だった
『夢十夜』の製本が
やっと仕上がった。

いつも、紹介患者さんが
お世話になっている
精神科の先生には、
毎回、お礼方々、
拙著をお送りさせて頂いている。

教育分析や
夢分析に来られている
お弟子さん方たちにも
差し上げようと思っている。









毎週のように、
二校で箱庭療法を
生徒に実施しているが、
そのたびごとに
撮影・印刷しては
カルテに入れている。

それから、
じっくりと
象徴解釈やらの
分析を行い
心理状態や病理水準を
カルテに記述していく。

この作品のような
余白がなく
空間をびっしりとアイテムで
埋めるような構成は
ASD(自閉スペクトラム症)の
傾向に多い。













カミさんが
T中と同じ学区で
隣にあるS中に勤務しているので、
同じ町内の菓子舗から
名代の白餡入りの
『あんぽ柿』を
買ってきてくれた。

1ケ330円もする
というので驚いた。


我が家の茶事御用達
『松屋清風庵』の
練り切りよりも
高価である。

 












伊藤 潤二の全作品を
蒐集しようと
アマゾンから購入したものが、
中身がカバーと違って
『星のカービィ』で
ビックリした(笑)。

高知のブックオフだったが、
さっそくクレームのメールを
送ったら、お詫びメールがきたものの、
返金するから
返品してくれというので、
その手間も大変だった。

個人中古書店では、
クレーム書に関しては、
客側の煩瑣を察して
そのまま廃棄して下さい
というのがほとんどだが、
ブックオフは融通が利かない。

なので、
アマゾンから公式評価の
アンケートが来たら
「悪い」にしようと待っている。

伊藤 潤二の作品を
だいぶ読み込んできたが、
傑作の『うずまき』を
凌駕するものはなく、
80年代のものは
取るに足らない駄作ばかりである。

『双一の勝手な呪い』
なぞはその最たるもので、
酷いものだった。

それでも、
ヤフオクで
全16巻の選集を今
入札中だが、
落札できたら
5500円ほどになりそうだ。

なにせ、
市内の古書店では
一冊も見当たらないので
仕方なかった。

***

今朝方、
トイレの学習用ラジカセで、
河合先生の『ユング心理学』の
講義を聴いていたら、
これまで
「母性社会」オンリー
とばかり思っていた日本にも、
受験の厳しさや
武家社会の切腹制度など
けっこうな「父性性」が在った
という事に改めて気づかされた。

その事が、
多くのアジア諸国にあって
逸早く近代化に成功した遠因である
という河合先生の分析には
納得させられた。

農耕社会、村社会は
総じて、「皆と同じく」を
大切にする「場の倫理」である。

それに対して、
西洋社会は、
「個の倫理」の確立によって、
近代的「自我」を確立し、
その事により、産業革命から
科学技術を推進させてきた。

日本は、維新期に
富国強兵・殖産興業を為した。

もっとも、
その自我肥大的な奢りから
覇権主義・軍国主義にも邁進して
アジア諸国を蹂躙し、
とどのつまり、
大東亜戦争(WWⅡ)で
手痛い大敗を喫する。

そして、そこからも
さらに奇跡的な復興をして、
世界第二位の経済大国にまでなる。

その国民の心性には、
母性性とバランスの取れた
父性性が在って、
中空構造(ドーナツ)的な
『自我』を形成したという。

西洋近代社会の自我は、
キリスト教等の
プリンシプルを核とする
「中心統合型」と
河合先生は命名している。

***

占星術の世界では、
2020年の12月22日でもって
「地の時代」の200年が終わり、
コロナ禍の今現在は
「風の時代」に入ったという。

その偶然の一致で
占い好きの女性雑誌などでは、
またぞろ「新しい時代」の
「金運」やら「恋愛運」の話題で
盛り上がってるそうな(笑)。

そこで、ネット上の
いくつかの占星術関連の
サイトをのぞいて見た。

中には、
鏡 リュウジのような
ユングの批判的研究で
修士号を取得して
大学教員となり、
心理学会広報誌の対談記事にも
載ったような占星術研究家もいる。

なんでも、
「地の時代」は
産業革命から始まった
物質主義の時代だったという。

物・蓄財・組織
というハード系が中心だったが、
過渡期の「情報化社会」が登場してから
ソフト系が優位になり、
キャッシュレスや
カーシェアリング/ルームシェア、
マイナンバー制など
「所有しない」という
「エア(空気/風)」的な事が
潮流になるそうな。

知的なことや
一芸的な無形のものが
価値を持つ時代ともいう。

そして、
ボーターレス化が進み、
性差やLGBTなども
問題でなくなるというが、
その兆候は、すでに
マツコやらイッコーやら
ゲイタレントがすっかり
定着したことでも
実感はある。

「風」の漂泊性では、
一ケ所に留まるということも
必ずしも必然性がなくなり、
このコロナ禍では、
テレワークやワーケーションを
お上が推奨するほどで、
これにより東京一極集中が
大分と解消される可能性がある。

コロナ・ウイルス自体が
飛沫感染するものであり、
室内換気やら
空気清浄機やら
「風」に関するのも
何やら興味深い。

そして、
象徴研究では、
心理学の語源になった
「psyche プシケ/サイキ」は
もともと「息」という意味であった。

それが、転じて
「こころ」「たましい」「いのち」
となったのである。

「息」もまた
呼気・吸気によって
「小さな風」が起こるものである。

とすれば、
ポスト・コロナに訪れる世界観は
「こころの時代」
「たましいの時代」
「いのちの時代」
という精神主義が
ポスト物質主義として
興るやもしれない。












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作品搬入

2021-05-25 05:53:00 | 仕事
仕上げて
二日間だけ
茶室に飾った『般若心経』を
学校カウンセリング室の
ギャラリーコーナーに
搬入した。

自分の作品は
こないだの『いろは歌』に
続いて二点目である。

これからも、
作品製作しては
持ち込もうと
創作のモチベにしようと思う。







20号の油彩
『静物画』も
ほぼ完成したので
搬入してから
補筆していきたいと思っている。








新しいカウンセリング室も
2ケ月がかりで
ようやく完成してきた感じである。

箱庭用のツールも
こつこつと集めているが、
まだまだアイテムが
不足している。









きのうのお昼は
「ちまきベント」だった。

オカズは
生ハムにモッツアレラ、
サラダのみである。

前日に、
ギター部のマドンナ三人から
菓子折をどっさり頂いたので、
おやつも持参した。








カミさんと
食後のいいデザートになっている。









原っぱで採取したアスパラと
庭のサクランボを活けてたのが
どちらも萎れてきたので、
蕾の紫陽花と
遅咲きの木瓜に
柿の黄色い花を
活けてみた。

走り花と
名残り花が
季節のバトンタッチのような
取り合わせになった。









おとついの晩は、
カミさんと
自家製フォアグラのテリーヌを
半分こして
貴腐ワインで味わった。

今回、初めての挑戦で
課題が残ったので、
また、スーパーで見つけたら
レシピを改良して
より極上の仕上がりを目指したい。









毎朝、
世界のコロナ禍の死者数欄を
チェックしているが、
間もなく、アメリカとブラジルで
104万人になろうとしている。

そこに、
インドが激増で
追い上げてきている。

なんせ、
一日4000人からの
死者を出しているので、
ブラジルに迫ろうかという
勢いである。

日本よりも
人口の少ない
EU諸国では
軒並み10万人以上の
死者を出している。

発祥の地・中国が
4000台というのが
どうも解せないが、
当局は党指導のもと
封鎖に成功したと
勝ち誇っているが、
そもそもデタラメな国だから
その数にも信憑性はない。

世界をパンデミックに陥れたのは、
武漢のロックダウン情報を
事前に察知した人々500万人ほどが
封鎖直前に北京・東京・EU諸国
という国際都市に無症状で感染したまま
避難したことから始まったと
推測されている。

***

1000年に一度の
カタストロフィ「3.11」の
体験者として、
自家本3冊分のコンテンツを
ネットに発表し、
上梓もした。

今度もまた、
数百年に一度の
パンデミック「コロナ禍」の
体験者として、
何をか言わんとして
論文を読み案を練っている。

まずは、
100のキーワードを
揚げてみようと
「思考実験」ノートに
書き込んでいるが
なかなか100まで達せないでいる。

サブカル界の占星術では、
2020年末で200年続いた
「地」の時代が終わり、
これから200年は
「風」の時代となる、
というのを昨日知った。

これが何を意味するのか、
これから、じっくり
調べてみたいとも思っている。

ネットでは
サブカル領域の眉唾ものの
恣意的な解釈ばかりなので、
ユング心理学的な
象徴解釈から
「コロナ禍」現象と
人類としての「個性化の過程」
の関連性について
考察してみたいと思っている。





























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多可橋のキレイ

2021-05-24 06:49:00 | 食物・飲物
きのうは
年に一度の恒例の
『アンムクライ会』だった。

福大ギター部の
元マドンナたち3名が
6年間の『復興支援リサイタル』に
毎年来てくれては
ご祝儀をも届けてくれたので、
旧交を温めるようになり、
きのうで5回目の会食会となった。

いずれも還暦を過ぎ、
教職を退職して
主婦業に専念しておられる。

してみりゃ、
まだガッコで働いてるのは
自分ばかりである(笑)。






昨日の会場は
懐石の名店
『多可橋』にした。

これまで、
2200円の「ミニ懐石」
5500円の「和(なごみ)」
としてきたので、
三たび目の今回は
8500円の「豊(ゆたか)」に
グレードアップした。

来年は
12500円の
「匠(たくみ)」にしようと
すでに決めている(笑)。

その先には
最高峰の
17500円の「極(きわみ)」
があるが、
再来年には、晴れて
コロナ禍が明けて
清々したら
それで寿ぐのも楽しみである。

それまで、
まさに「洗心」の想いで、
日々(にちにち)を
更なる気持ちで
実意を込めて
丁寧に生を紡いでいきたい。






「先付け」は
富山の蛍烏賊に
車海老、雷胡瓜、若芽の
三杯酢である。

小振りながらも
烏賊の腸(わた)の味が
コク深く、日本海の
初夏の清涼な気分を
感じさせた。

三杯酢の加減が絶妙で、
こればかりは
素人の腕では再現のしようもなく、
味わうように飲み干した。








「八寸」は
螺(つぶ)の煮貝、小袖玉子、
蓬麩田楽、茄子の鋳込み、
蓴菜(じゅんさい)、梅甘露煮。

肉厚の螺貝は
丁寧にスライスしてあり、
その平滑な切片は
口中で包丁技の冴えを
感じさせてくれた。

幽かな磯の風味に相まって
味も滋味深く、
これに純米大吟醸を
合わせられなかったのが、
返す返すも残念でならなかった。

冷たい吸い地に張った
ツルンとしたジュンサイは
夏になったことを
しみじみと感じさせてくれる
逸品であった。

今日の市内は、
日中29℃の予報である…(笑)。





「煮物椀」は
筍の真蒸に
海老、生麩、
コシアブラ、青柚子を
あしらい一式とし、
海苔を吸い地に溶かした
「磯部風」であった。

具材もさることながら、
この出汁加減は
薄からず濃からずの
さすがに絶妙なものであった。

最初はすこし物足りない感じを
させておきながら、
一碗を吸い切った時に、
ちょうどよい塩梅で
満足するのが最良なのである。

茶懐石においては、
ここを頂点とし、
もっとも大切なものとしている。

なので、
単なる料亭の「お吸い物」とは
"以て非なるもの"なのである。

時折、
「煮物」が出るものと
誤解される向きもあり(笑)、
茶弟子だったサイトー君も
初めての茶事で
煮物を出してきて、
それは「茶事百回」の偉業を
達成した今でも
笑い草になっている。






「お造り」は
鮪大トロ、雲丹、
鯛松皮、紋甲烏賊。

ギヤマンの器が
いかにも涼しげであった。

【懐石は「椀刺(わんさし)」が花】
というのを
『吉兆』の創業者
柚木 貞一が語っていた。

たしかに、
京都吉兆での
「椀刺し」は
それは見事なものだった。





「茶碗蒸し」には
驚きのトリュフとフォアグラが
用いられていて、
なるほど、ここで「高級感」を
出したのか…とも思ったが、
フレンチ愛好家で茶人としては、
いささかこの和洋折衷には
軽い失望を覚えた。

・・・というのも、
料理長とはカウンター席越しに
幾度も料理談義をして、
「『極み』の素材には
何を使われるんですか」
と忌憚のない疑問を
ぶつけてみたら、
「それが悩みのタネで、
やっぱり高級食材を
使わなっきゃならないんです…」
という
言葉を思い出したからである。

フレンチならば、
三大珍味を用いても
違和感はないが、
それを「茶」懐石に用いるとなると
また話は別なのである。

ならば、
フレンチでは珍しい
鼈(スッポン)やら
鱧(はも)、河豚といった
和の食材の方が
まだ懐石には合っている。

さりとて、
高級な松葉蟹なぞを
もってこられても
なんだかぞっとしないが…。

この疑義については、
次回、カウンター席での
"ぼっちランチ"の時に
�兇気鵑砲屬弔韻討澆茲Δ�C箸
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茶室開き

2021-05-23 06:40:00 | 趣味
春休み中から
ずっと『夢十夜』の
深層分析をするための
臨時研究室にしていた茶室を
久しぶりに室礼を変えて
教育分析に来られたS先生を
薄茶時にお迎えした。




午前中、
学校に仕事に赴いた
カミさんが、
帰りに保原の菓子舗
『須田屋』で幾種類か
茶菓子を調達してきてくれた。

ナッちゃんが
仕事用デスクの天板にしていた
無垢の板を手前座と直角に
客座に敷いて
正客席から掛け軸が
見えるように設えた。

去年、
炭火の不始末で
風炉が割れて
畳を焦がしてしまい、
危うく小火になりかけた。

その焦げ跡が痛々しいが、
今後の教訓の為にも
手前座に見えるようにし、
炭を排して電熱器に換えた。








前日に完成したばかりの
『般若心経』を掛け、
上部に阿弥陀菩薩様を
お祀りした。

そしたら、
なんとなく
寺の一角のような
風情になったので、
極太の蝋燭を合わせてみた。

庭の柿が
黄色の花をつけ、
木瓜が名残りの花を
二輪ほどつけていたので
一緒に活けてみた。

仮床の前には
竹の結界を置いていたが、
大きな箏の置き場がなくって、
「箏結界」という
独自の設えをしている。

興が乗ったら、
茶事の時に
一曲弾じさせて頂くこともある。

雨の降る夜半などに、
香を炊いて
ひとり濃茶を練り、
燭台の灯かりで
即興演奏していると
何やら幽玄な境地になれ、
ストレス解消にもなる。











「阿弥陀菩薩様+お経」
の組み合わせで
宗教性が感じられたので、
思わず頭(こうべ)を垂れて合掌し、
コロナ禍の収束を願った。

書は顔彩を用いた
「遊字」なので、
きちんと正座して
書いたものでなく、
立膝で書いてるので、
一行の中心を意識せず
ひと升内に自由に書いたので、
行がうねっている。

もともと
『集字聖教序』そのものが、
書聖・王 羲之(おうぎし)の
さまざまな字を集めて
『般若心経』に当て嵌めているので、
前後の字の「気脈」が通じていず
ひと升ひと升の字の
集合体によって成されている。

「遊字」なので、
"楽しんで"書くことを
一義にしてるから
あちこち気が抜けて
間違っては
色を換えて重ね書きしている。

前半は中筆でやってたが、
それに飽いたら
細筆に換えたりしてるので
字体の太さも
バンラバラである(笑)。

遊び作品ではあるが、
自分の生きた時間的プロセスと
その時の興感の情を
空間に固定したものであり、
同時に、1700年前の
中国東晋の書聖とも
「漢字」で繋がったものではある。











前日に仕込んで
一晩、冷蔵庫で寝かせた
フォアグラのテリーヌを
"ぼっちランチ"でやってみた。

溶けた脂を濾してから戻す
という手間を省いたせいで、
黄色く固まった部分は
幾分ザラッとした感触だったが、
本体はネットリ、シットリと
仕上がり、レストラン製と
遜色がなかった。

これには、
定番のソーテルヌの
貴腐ワインが
絵に描いたような
ヴィアン・マリアージュだった。

夜には
カミさんにも振舞ったら
久しぶりのフォアグラに
感激していた。

これまで、
フォアグラのテリーヌが
食べたくなると
郡山のフレンチ・レストラン
『コートドール』に赴いていたが、
近所のスーパーで買えるんなら、
ちょいちょい自家製で
出来そうである。

また、
冷凍コーナーに
入荷したら買い占めて
調理に熟達したいと
思っている。






『王様の仕立て屋』の作者の
25年前の『ジャンプ』連載作品
『かおす寒鰤屋』を
アマゾンから取り寄せて
読んでみた。

そしたら、
現在のタッチと違っていて、
ギャグもストーリーも、
ジャンプの読者に
迎合したかのような稚拙なもので
現作品のような洗練さが
全くない駄作だった。

だからなのだろうか、
9話で完結の1巻で、
おそらくは、ジャンプの
苛烈な読者アンケートでも
生き残れずに
連載中止になったのだろう
と想像できた。

たまたま、
同じく25年前の
伊藤 潤二の作品
『死人の恋わずらい』をも
読んでみたら、
これも現作品よりも
画質が粗削りで
大味感があった。

どちらの作者も
今や名作をものにしたが、
若描きのものは
ラフさと垢抜けなさがあった。







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般若心経

2021-05-22 05:05:00 | アート
オフ日の昨日は
丸一日がかりで
『般若心経』の製作に
かかり切りだった。

兼ねてより
準備・練習してきた
書聖・ 王羲之(おうぎし)の
『集字聖教序』の臨書である。

K中のカウンセリング室の
ギャラリー・コーナー用の
作品創りである。





当初は
墨色一色でやるつもりだったが、
それだと、お経が如何にも
抹香臭くなりそうなので、
日頃親しんでいる顔彩を用いての
色彩書にしてみた。

筆も中筆・小筆と
使い分けたので
統一感はいささかない。

それでも、
いちばん大事なことは、
"楽しい"ことなので、
途中で、何度も、
「楽しいか?」
と自問自答した(笑)。

墨色も二種用いて
八色にしたので、
飽きずに楽しくやれた。

ただ、
厚さ1.5㎝のボードに乗って
前屈み状態で
一心不乱に書くので、
二行書くと首と肩が
懲り懲り状態になり、
そのたんびに休憩をとって
マッサージ機をしたり、
漫画を読んだり、
ランチを挟んだりした。

そんな調子だから、
午前中から初めて
完成するのに夜まで
かかってしまった。







前の行が乾かないうちに
次の行を書くには
ティッシュを被せるのだが、
それが乾いた後で
顔料に付着してしまい、
そこに霧吹きをして
ピンセットで除去するという
修復作業も同時にやるようだった。

きっと、途中で
間違うだろうなぁ…
と思っていたが、
案の定、三回も行を間違えたり
脱字したりして、
そこは色を換えて
上から重ね書きした。

最後になって、
一行分のマス目が
足りなかったことに気付き(笑)、
仕方なく、余白部分に
小さ目に収めて
なんとか事なきを得た。

あちこちに
筆遣いのあまい字もあるが、
いくつかは
王 羲之のそれに迫る
勢いと気脈を感ずるものもあり、
何より、丸一日、
書三昧で楽しめたことが
良かった。







作品製作の合間に
散歩&買い物にも行き、
「いちい」で残っていた
フォアグラ4ケを
全部買い占めてきた。

1ケ398円だから、
およそ1.600円である。

テリーヌにしたら
二人前くらなので、
一人前800円だから、
レストランの1/4くらいになる。

シーズニングをしてから、
ラムカンに隙間なく詰めて、
40年物のヴィンテージ・ポルトに浸し
半日、冷蔵庫で寝かせた。

それから、
オーヴンで湯煎しながら
120℃40分火入れした。

黄色い油が溶けて
浮いていたが、
そのまま冷蔵庫で
一晩寝かせた。

今朝方、
固まった脂を
ちょっと味見したら
ちゃんとフォアグラの風味がして
安心した。

もう一晩寝かせて、
明日の晩にはカットして
カミさんと貴腐ワインに
マリアージュさせたい
と思っている。










"ぼっちフレンチ"用には
刺身用サーモンを買ってきて、
塩で脱水し、酢〆するという
鮨ネタの江戸前仕事をして
レモン・オリーヴ油と
スコーピオン(タバスコ)で
やってみた。














「オシャレ道」の教科書である
『王様の仕立て屋』の新刊を
書の合間に読んで
休憩に当てていた。

4シリーズ目で
これで、61巻目である。

どれも熟読玩味して
フルコーデの参考にしている。









大学の同級生が
校長退職後に
塾経営に乗り出し、
医学部の息子さんなどが
講師を務めるというので、
羨ましい老後ぶりだなぁ…
と感心した。

新潟での開業なので、
これがフクシマだったら、
生物の雇われ講師か、
顧問カウンセラーに
立候補すんのになぁ…
と思わないでもなかった(笑)。


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