写真は大理国の出入り口・雲南駅(地名です)に今の残る茶馬古道。日陰と日向の境目に縦に一筋見える縦長の石をはさんで左右の道をかつては数百人の大商が馬に茶や塩などの産物を乗せ、昆明へ、さらにチベット高原をへて北京へと往来したという。おそらく元のクビライが南宋攻略に用いた道は、未開の道ではなく、そのような周辺民族が古くから利用していた道だったのだろう。
大理はすっかり開発が進んだが、周辺の街には古きよき時代の名残を見ることができる(2005年撮影)
【雲南王・毒殺される】
中国が南宋から元へとうつるころ、雲南では・・。
モンゴル軍はいよいよ中国全土を支配下におさめようと、北から南宋を正面突破する軍とは別に、別働隊として南宋領をさけて西安からチベット高原東部を南下して雲南に至り、背後から南宋攻撃に出る戦略を立てていました。1252年、その難路をクビライ(以前の歴史教科書では「フビライ」と書かれていました。この時点ではまだハーン位には就いてません)は見事に指揮。雲南を支配していた大理国を1253年に降服させます。
以後、つづく南宋攻略のためにも(南宋がモンゴル軍に滅ぼされたのは1279年)、雲南は重要な拠点となります。やがてクビライの庶子・フゲチが初代雲南王として送り込まれてきました。
当時の雲南は血気盛んな多数の民族・部族が割拠しており、さらにクビライに滅ぼされたとはいえ、実質的に権限を持ち続けた大理国や、部下であるはずのモンゴル軍の中からさえも、隙さえあれば首をかききろうとする輩がひしめくという厳しい状況。また、南宋だけではなく、カンボジアやベトナムへの侵略も仕掛けていました。
そんな中、若いフゲチは着任4年目の1271年に元帥宝和丁に毒殺されてしまいます。
この不安定な状況に、事態を重く見た大ハーン・クビライが直々に声をかけ全幅の信頼を置いて雲南に派遣したのが、先週、ご紹介した賽典赤・贍思丁(サイード・シャムスッディーン)でした。
チンギス・ハーンに自軍1000騎を率いて投降後、チンギス死後も歴代ハーンに重用され続け、中央部の大型行政区の高官を歴任し、実績と威望もある一級行政官。その彼も指名時は64才となっていました。おそらく、雲南に骨を埋めるつもりで任地に赴いたに違いありません。ブハラ(現ウズベキスタン)当時からの部下や一族郎党引き連れて、1274年(至元11年)、設置されたばかりの雲南行省平章政事として着任したのでした。
(現代まで連綿と尊敬され続ける、彼の豊かなエピソードは次号で。)
大理はすっかり開発が進んだが、周辺の街には古きよき時代の名残を見ることができる(2005年撮影)
【雲南王・毒殺される】
中国が南宋から元へとうつるころ、雲南では・・。
モンゴル軍はいよいよ中国全土を支配下におさめようと、北から南宋を正面突破する軍とは別に、別働隊として南宋領をさけて西安からチベット高原東部を南下して雲南に至り、背後から南宋攻撃に出る戦略を立てていました。1252年、その難路をクビライ(以前の歴史教科書では「フビライ」と書かれていました。この時点ではまだハーン位には就いてません)は見事に指揮。雲南を支配していた大理国を1253年に降服させます。
以後、つづく南宋攻略のためにも(南宋がモンゴル軍に滅ぼされたのは1279年)、雲南は重要な拠点となります。やがてクビライの庶子・フゲチが初代雲南王として送り込まれてきました。
当時の雲南は血気盛んな多数の民族・部族が割拠しており、さらにクビライに滅ぼされたとはいえ、実質的に権限を持ち続けた大理国や、部下であるはずのモンゴル軍の中からさえも、隙さえあれば首をかききろうとする輩がひしめくという厳しい状況。また、南宋だけではなく、カンボジアやベトナムへの侵略も仕掛けていました。
そんな中、若いフゲチは着任4年目の1271年に元帥宝和丁に毒殺されてしまいます。
この不安定な状況に、事態を重く見た大ハーン・クビライが直々に声をかけ全幅の信頼を置いて雲南に派遣したのが、先週、ご紹介した賽典赤・贍思丁(サイード・シャムスッディーン)でした。
チンギス・ハーンに自軍1000騎を率いて投降後、チンギス死後も歴代ハーンに重用され続け、中央部の大型行政区の高官を歴任し、実績と威望もある一級行政官。その彼も指名時は64才となっていました。おそらく、雲南に骨を埋めるつもりで任地に赴いたに違いありません。ブハラ(現ウズベキスタン)当時からの部下や一族郎党引き連れて、1274年(至元11年)、設置されたばかりの雲南行省平章政事として着任したのでした。
(現代まで連綿と尊敬され続ける、彼の豊かなエピソードは次号で。)