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雲南の書記と副書記12 雲南出身コンビ生まれる

2017-06-14 09:34:20 | Weblog
写真は麗江県攞市郷野生動物保護駅。左の看板には麗江納西(ナシ)自治県攞市郷林業工作駅と書かれている。麗江はナシ族が多く暮らす地区。ナシ族は古来、自前の文字を持ち、木造で瓦屋根のどこか日本人には懐かしい家に暮らす。文化水準も昔から高いことで知られた民族である。
麗江は水と緑の美しいところといわれているが、文化大革命時代は、山々が薪の材料のために丸裸にされた。その後復興の過程で植樹されているので、いま、野生保護区とされている地区の緑もよくみると、同じ頃に植えられた樹齢も数十年程度の同じような松の木が並んでいる。

【中国立て直し期に登場した雲南出身コンビ】
このような中央政界のどろどろがストレートに表れる雲南政界で、1980年以降雲南出身の省書記が着任したのは7人中2人。いずれも漢族です。

現状では、少数民族からの最高の地位が副書記までなので、書記への階段にはガラスの天井が存在するといえるでしょう。そして副書記は書記とは違い、複数人数、置くこともできる職種です。

 その最初に少数民族出身者として熱い視線を浴びていたのは、和志強でした。

彼は1934年に納西(ナシ)族の村として知られている麗江県白沙郷に生まれ、重慶大学を出て共産党関係の仕事に就き省副書記となった人物です。ちなみに白沙郷といえば、高倉健主演、チャン・イーモウ監督の『単騎、千里を走る』のロケ地として、いくつもの場所に登場し、いまや麗江の風情ある観光地としても知られる場所となっています。

和 志強は1985年から1998年の長きにわたり副書記をつとめました。

当時、彼のボスであった省書記が、雲南出身者で書記となった貴重な二人のうちの一人、1929年生まれの普朝柱でした。和志強が副書記だったころとほぼ重なる1985年から1995年まで書記の職務を果たしました。

普朝柱の父親・普希賢は中華人民共和国が成立する以前の革命メンバーとして雲南防空司令部作戦科長として着任し、家族ともども移住した雲南で知られた人物でした。その父親が幼年時に亡くなりますが、そんな中で雲南の名門・昆明長城中学を出た人物でした。

そして、雲南の副書記から、雲南省出身者として初めて書記になったのです。苦労人でもあり、雲南の実情も肌で知る人物。同じ雲南出身で5歳年下の和志強とはよいコンビだったことでしょう。

(つづく)
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