
写真は滇池沿いの公園、海硬公園。他にも大公園がいくつもある。そのなかには清代からある公園もあれば、文革期間中に滇池を埋め立てたものの、使い道がなく、公園となったところもある。共通するのは、お年寄りらの石のテーブル上の麻雀風景だ。
【囲海造田 運動】
いかに雲南出身コンビの誕生が必要だったのかについては、2回に分けて、雲南での文革の状況を振り返ってみます。
建国以来、雲南では第一書記、という実質上の雲南の行政トップは代々、中国共産党から雲南出身ではない人が統治のために送られてきていました。その人々の文革中の行状をいくつか挙げてみましょう。
1949年の建国期から1952まで雲南省委員会第一書記や雲南軍区、昆明軍区に籍を置いた謝富治は、文革中の1972年に病死するものの当時は公安部長として江青ら4人組に荷担したとして、1980年に共産党員を除籍されています。
さらに1981年1月に中華人民共和国最高人民法院特別法廷では、これら4人組の活動の主犯とされました。死者に一番の罪を着せたというわけです。
1955年から昆明軍区政治委員で雲南省革命委員会主任だった譚甫仁は1966年5月に雲南での文革が開始されると、滇池を埋め立てて、農地を増やそうという運動「囲海造田」運動を始めました。
これにより全体の7%にあたる約20平方キロが1年で埋め立てられたのですが、専門的な知識もなく、ただただ、土を放り放り込んだけの土地は、作物も実らず、土の状態も悪いまま、池の浄化作用も低下し、その後は放置され、現在は一部は池に戻り、一部は公園になっています。
つまり後世に禍を残すプロジェクトでした。
譚甫仁は文革中の1970年に昆明で何者かに殺されました。
(つづく)