

写真上はセブ島本島にあるサンカルロス大学博物館で見かけた展示物。ミンダナオ島の骨壺の蓋、と書かれていた。なんだかかわいらしい。
写真下は1000年から1450年までのセブ島人の墓から出土したもの。中国製もしくは東南アジア系の陶磁器などが多数見つかったらしい。1967年のセブ島の下町に電話線を通すために掘削していたところに発見された、と書かれていた。
展示物には頭頂部が平べったい人骨や、木製の爬虫類の飾り物、日本が一時、占領していたころのものなのか、甲冑や黒塗りの漆器、雛飾りなども展示されていた。
博物館は大学構内にあるので、入口で警備員のセキュリティチェックを受け、パスポートを見せないと入場できない。
セブの優秀な学生たちが菓子パン片手に勉強したり、談笑したりする姿を見ることもできる、セブ島のリゾートとは違う一面をのぞくことができる。
【街づくりの歴史1】
まずセブ島は島が一つあるわけではなく、周辺の小島を含めた総称です。リゾート地として知られ、私の通った語学学校があるのはセブ島を囲う島々の一つのマクタン島です。この二つの島は大きな橋でつながっていて車で自由に行き来しています。
さて、マクタン島は16世紀にマザランが世界一周を成し遂げる航海のなかで1521年に西洋人として歴史上はじめて上陸した場所。
セブ本島はその44年後にフィリピンを植民地化するにあたって最初に拠点を置いたところです。
そこでこれらの町に西洋人による都市計画が立案されるのですが、たったの6年でスペイン人の拠点がマニラに移動してしまい、セブ島の都市が出来上がる前に放置されてしまいました。
その後、セブ島が世界史に載るのはメキシコからスペインへ物産を運ぶガレオン貿易の中継都市として。これも1590年から1604年のみで役割を停止。その後は中国と東南アジアとの伝統的な交易拠点として港街は存在していました。
それから300年後。米西戦争(1899年~1902年)によってフィリピンはスペインから米国に服属することに。あとは時系列で羅列します。
1936年にセブは信託統治市の地位を確立し、フィリピン人によって独立的に運営。
第2次世界大戦時、日本軍に占領される。
1946年に独立。
※参考文献:J.R.ヒメネスホス他「セブ市(フィリピン)の都市形成とその都市核の空間構成に関する考察」『日本建築学会計画系論文集 第76巻 第608号』2011年10月
このような歴史の流れの中で西欧モデルの植民都市が作られかけては放棄されることを繰り返されています。それはセブに住む人たちが必要とした街ではなく、外から征服にきた人たちが住みよい街。
なんとも中途半端な街づくりが何百年もの間、断続的に行われてきたわけです。
もともとセブは農業、漁業を基盤とする中国、東南アジア各地と交易をおこなう港市でした。在来の首長が率いるいくつかの集団で成り立っていました。街という大きなものはなかったようです。
こうして放棄が何度か続いていくなかで、自分の土地の感覚が薄らぎ、町全体で住み心地を追求するのではなく、自分の所有する土地の中だけで考えるようになったのでしょうか。
(つづく)