石油と中東

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(再録)現代中東の王家シリーズ:サウジアラビア・サウド家(2)

2018-12-02 | その他

 

初出:2007.6.24

再録:2018.12.2

 

(第2回)サウド家の亡命生活と19世紀末の中東情勢

  サウド家当主のアブドルラハマンは1891年、宿敵ラシード家にリヤドを追われてクウェイトへ逃れ、同地のサバーハ首長家の庇護のもとで亡命生活を送った。彼の長男で後にサウジアラビア王国(第三次サウド王朝)の初代国王となるアブドルアジズ(通称イブン・サウド)は当時まだ11歳であった。

 サウド家とラシード家の抗争及びクウェイト・サバーハ首長家がサウド家を庇護した関係は単なる部族間の対立或いは同盟関係によるものではない。そこにはオスマン帝国と大英帝国をめぐる帝国主義の覇権争いの影があったことを見落としてはならない。

 当時のオスマン帝国は「瀕死の病人」と言われながらも中東から北アフリカに至る広大な版図を有し、首都のイスタンブールからイスラームの聖都マッカを含むアラビア半島に睨みを利かせていた。ラシード家はオスマン帝国の支援を受けてアラビア半島中央部ネジドの支配権をサウド家と争っていたのである。一方の英国はイエメン、オマーンなどアラビア海沿岸一帯に植民地を築き、次にペルシャ湾を制して内陸部へ進出する機会をうかがっていた。こうした中で1899年、英国はクウェイトを保護領とすることに成功した。

 英国はサウド家とラシード家の抗争を利用してアラビア半島からオスマン帝国の勢力を駆逐することを考えた。そのためクウェイトにサウド家の亡命を受け入れさせて、サウド家を温存しようとしたのである。ラシード家とサウド家の部族抗争はオスマン帝国と大英帝国の代理戦争に仕立てられたと言える。

 サラフィー(ワッハーブ)主義の過激なイスラーム思想をバックボーンとするサウド家は、クウェイトにとって必ずしも歓迎すべき食客ではなかったと思われる。後日アブドルアジズと彼のイフワーン軍団がアラビア半島制圧の勢いに乗じてクウェイトに攻め込んだことを考えると、クウェイトの懸念も杞憂ではなかったことがわかる。このような歴史があるため、現在でもクウェイトのサバーハ家及び一般国民はサウジアラビアに対する警戒心を解いていないと言われる。

 しかし当時のクウェイト首長ムバラクは、サウド家嫡男アブドルアジズの聡明さが気に入り、彼を非常に可愛がったようである。そのことは外国使節との引見の場にアブドルアジズを同席させたと言うエピソードにも表れている。

 こうしてムバラクの庇護の下で英才教育を受けたアブドルアジズは10年の歳月をクウェイトで過ごし、その間に勇敢なベドウィン戦士へと成長していった。身長180センチ以上の堂々たる体躯のアブドルアジズは、サウド家再興の星として「イブン・サウド(サウド家の息子)」と呼ばれるようになった。彼の正式の呼び名は「アブドルアジズ・イブン・アブドルラハマン・アル・サウド(サウド家のアブドルラハマンの息子アブドルアジズ)」であるが(*)、一族からは期待と尊敬を込めて「イブン・サウド」と呼ばれたのである。
(*)アラブ人の名前の呼び方については前回「サウド家のはじまり」参照。

(続く)

 

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荒葉一也

Arehakazuya1@gmail.com

 

 

 

(再録注記)

 

コメント
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