5/7 石油連盟 『エネルギー検定』(筆記試験)の実施について http://www.paj.gr.jp/paj_info/topics/2013/05/07-000632.html
5/8 Shell Shell lays keel for world's first floating LNG project http://www.shell.com/global/aboutshell/media/news-and-media-releases/2013/prelude-keel-laid-080513.html
5/9 JX日鉱日石エネルギー 役員等の人事異動について http://www.noe.jx-group.co.jp/newsrelease/20130509_01_01_0794529.pdf
5/9 JX日鉱日石エネルギー ニューヨーク事務所の設置について http://www.noe.jx-group.co.jp/newsrelease/2013/20130509_01_0970780.html
5/9 コスモ石油 ヒュンダイオイルバンクとの緊急時の相互協力体制構築に関する覚書締結について http://www.cosmo-oil.co.jp/press/p_130509/index.html
5/9 国際石油開発帝石 南米 ウルグアイ東方共和国Area 15鉱区権益(探鉱鉱区)の取得について http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20130509.pdf
5/10 JOGMEC 国際石油開発帝石のモザンビーク共和国沖合における探鉱事業の出資採択について http://www.jogmec.go.jp/news/release/news_10_000005.html
5/10 石油資源開発 役員の異動に関するお知らせ http://www.japex.co.jp/newsrelease/pdf/20130510_yakuin_ido.pdf
5/10 国際石油開発帝石 信用格付会社ムーディーズからの新規信用格付けの取得について http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20130510.pdf
2013.5.6
多国籍職場の「ゲスト・ワーカー」
当時のカフジ鉱業所の従業員はおよそ千人であった。かつては遊牧民がラクダと羊を放牧するために訪れるだけで人間が定住していなかった土地カフジ。石油発見後に会社は電気と水を含む一切の設備を「無」から「有」で作り上げたのである。世界中の石油開発の現場はどこでも似たようなものであるが、サウジアラビアやクウェイト、アブダビなどペルシャ湾沿岸では石油会社が国家そのものを造ったと言っても過言ではない。
カフジ鉱業所には沖合の石油生産施設の他、陸上には製油所が建設され、そこで生産されるディーゼルオイルを燃料とする発電所と造水プラントもある。砂漠では雨が全く降らないため飲み水は海水を蒸留して作らねばならない。すべてを自給するため多種多様なプラントが建設され、またそれらを維持補修するための工場と倉庫が設けられた。そして従業員とその家族が生活するための社宅がある。病院も自前であり、従業員の子弟のための幼稚園と小学校も併設された。医者、看護婦、教師等はすべて正社員である。
というような訳でカフジ鉱業所には「水・電力部」、「地域開発部」、「教育部」、「病院部」等々普通の企業では考えられないような部署があった。毛色の変わったところでは寄港するタンカーに気象情報を提供するための測候所も設けられていた。シャマールと呼ばれる強い砂嵐が吹く時、タンカーは原油の積み込みを中止して沖合に退避しなければならない。そのための気象予報が欠かせないのである。
このような種々雑多な仕事をこなす従業員の国籍も多彩であった。サウジアラビア人が多数を占めているが、日本人もトップの所長以下枢要な部署を占めていた。日本人の人数は従業員とその家族を含めると200人ほどであった。サウジアラビア人は開発と生産の現場に多く配属されていた。これは現地政府の意向であり、将来の国有化に備えて人材を育成するという本来の目的のほかに、石油生産と言う国の命運を左右する部門にエジプト人、パレスチナ人などのアラブ人を置くことを嫌ったためである。現地政府は基本的に自国民以外のアラブ人を信用せず警戒していた。
一方、医者や教師は自国民に有資格者がいないためエジプト人やパレスチナ人を雇った。イスラムの掟により女性の就業が禁止されているため看護婦はフィリピン女性であった。その他機械の修理や補修には勤勉で腕の良い東南アジア出身者を使い、ゴミ収集、建設土木工事など酷暑の野外作業は暑さに強いインドやスリランカからの出稼ぎ労働者が雇われた。こうして現場は顔や肌の色、文化、宗教の入り混じったミニ多国籍社会を形作っていた。そのような中で誰の母国語でもない英語を唯一のコミュニケーション言語として日々の仕事をこなしていたのである。
サウジアラビア政府は外国からやってくる出稼ぎ者を「ゲスト・ワーカー(客人労働者)」と呼ぶ。つまり外国人労働者は「客人」扱いなのである。それは「移民」とは意味が全く異なる。移民は定住労働者でありいずれ国籍を取得してその国の国民となるのが普通である。しかし「ゲスト・ワーカー」は数年の期限付きの労働ビザで働く出稼ぎ労働者である。彼らの身分は極めて不安定であり、雇い主がビザを更新しないと宣言すれば直ちに失業し帰国しなければならない。と言って祖国は就職難であり、何よりも祖国には本人からの送金を心待ちにしている父母兄弟がいる。結局彼らは今の仕事にしがみつく他ないのである。出稼ぎ者と雇い主の力関係はおのずと明らかであり、出稼ぎ者の権利を守る法律などありはしない。彼らは首を切られないようにただじっと我慢するだけである。
「ゲスト・ワーカー」と呼ばれる出稼ぎ外国人に対し、彼らを雇い入れるサウジアラビアのような国は「ホスト・カントリー」と呼ばれる。呼び名こそ客(ゲスト)と主人(ホスト)であるが、それは絶対的な主従関係の世界である。ホストはゲストに一方的に命令し服従を強いる。まさに奴隷と主人の関係である。「ゲスト・ワーカー」と言う言葉の裏には計り知れない闇が見えるのである。そして「ゲスト・ワーカー」自身の心の中にも深い怨念が宿る。1990年のイラクによるクウェイト侵攻の時、クウェイトで働いていたパレスチナ人がその怨念を爆発させるのであるが、そのことについては改めて触れることになろう。
筆者が所属した企画部は、部長以下日本人が3名とベテランのパレスチナ人1名、ヨルダン人2名。それに学校を出たばかりのクウェイト人1名と言う総勢7人の小さな部署であった。クウェイト人は学校を卒業したばかりで学力も経験も乏しかったが地元政府の命令で受け入れたものである。国籍の違い。「ゲスト」と「ホスト」と言う主従関係。ベテランと新入りの経験の差。それらの違いを乗り越えて一緒に働く、と言えば国際企業として美談である。確かに職場は和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。しかしお互いの間に埋めようのない深い溝があったことも事実である。それを表に出さず日々の仕事をこなすことが暗黙のルールであった。
(続く)
これまでの連載
1. 消えゆくアラビア石油
2. 1976(昭和51)年 アラビア石油、中途採用す
3. 日本一の高収益会社
4. 1977(昭和52)年 胡蝶の夢の始まり
5. 70年代の石油開発業界
6. 悲願の石油精製進出
7. 7姉妹(セブン・シスターズ)とOPECのはざまで
8. 1979(昭和54)年、サウジアラビア現地に赴任
9. 1980(昭和55)年、対岸の火事:イラン・イラク戦争勃発
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp
4/29 石油資源開発 カナダ ブリティッシュ・コロンビア州におけるシェールガス開発・生産プロジェクトおよびLNGプロジェクトへの参画手続きの完了について http://www.japex.co.jp/newsrelease/pdf/20130429_BritishColumbiaCanada-J.pdf
4/30 Shell ADNOC selects Shell to develop Bab Sour Gas project in Abu Dhabi http://www.shell.com/global/aboutshell/media/news-and-media-releases/2013/bab-sour-gas-reserves-abu-dhabi-300413.html
5/1 経済産業省 サウジアラビア王国との間で投資協定に署名しました http://www.meti.go.jp/press/2013/05/20130501002/20130501002.html
5/2 コスモ石油 アラブ首長国連邦における日本語教育の充実に関する覚書締結について http://www.cosmo-oil.co.jp/press/p_130502/index.html
5/2 Shell Chief Executive of Royal Dutch Shell plc - Peter Voser to retire in 2014 http://www.shell.com/global/aboutshell/investor/news-and-library/2013/ceo-peter-voser-to-retire-in-2014-02052013.html
5/2 三菱商事 イラクにおける大規模天然ガス回収・有効利用プロジェクト/合弁事業会社の操業開始 http://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/pr/archive/2013/html/0000021217.html
2013.5.1
1980(昭和55)年、対岸の火事:イラン・イラク戦争勃発
前年の1979年にイランで革命が発生、イスラム教シーア派のホメイニ師が最高指導者となった(イラン・イスラム革命)。テヘランでは米国大使館占拠事件が発生、それまでの米国とイランの関係は一転して最悪の状態となった(それは30数年後の現在も続いている)。革命の混乱の中で原油の輸出はストップ、BPなど国際石油会社は日本向けの供給量を削減した。加えてOPECは原油価格の大幅な値上げと石油産業の国有化を推し進めた結果、1973年に次ぐ「第二次オイルショック」が発生した。
政治と宗教が一体化したイラン・イスラム共和国のホメイニ最高指導者はイラク南部からクウェイト、サウジアラビア東部およびバハレーンに住むシーア派住民にスンニ派君主国家の打倒を呼びかけた。イラクとバハレーンはシーア派が多数を占めているにもかかわらずスンニ派が支配しており、サウジアラビアではシーア派住民が少数派の悲哀を味わってきた。アラビア石油にもシーア派社員がいたが彼らは社内の昇進で差別され、隣近所の冷たい目に晒されてひっそりと暮らしていたのである。
サウジアラビア王家はホメイニによるシーア派住民の扇動に危機感を抱いた。かつてのイランは米国のバックアップを受けた強固な軍事体制、いわゆる「ペルシャ湾の警察官」を自認する絶対君主体制で盤石であった。しかし反政府デモが燃え広がった時、米国はパーレビ―国王を支えず革命勢力のなすがままに、ただ手をこまねくだけであった。民主主義の盟主を自負する米国は「絶対君主制」のイランよりも「共和制」のイランが歴史の理に適っていると判断したわけであろう。米国が民主主義や共和制に対して過大な幻想を抱く傾向があることは最近の「アラブの春」におけるエジプトやチュニジアの例にも見受けられ、米国はその都度幻滅を味わわされるのであるが、イランの例はそのさきがけと言えよう。
ホメイニの革命輸出宣言は湾岸の君主制国家に「イランの次は自分たちか?」と言う恐怖心を植え付けた。イラン以前にも第二次大戦後に中東・北アフリカ各地で王制が次々と倒れている。1952年にエジプトでナセル率いる自由将校団がアリー王朝を倒し、1958年にはイラクでバース党が当時のハーシム王家から権力を奪取、そしてリビアでは1969年にイドリス国王がカダフィー大佐の軍事クーデタで倒されている。そして今回のイラン革命。サウジアラビアなど湾岸の絶対君主制国家が「次は自分たち」と考えたのも無理はないのである。
王制を打倒した勢力はエジプトの若手将校であり、イランの宗教勢力であった。サウジアラビアのサウド王家は国内の軍部と宗教の二大勢力に細心の注意を払った。それを支えたのは豊かなオイル・マネーだったが、二つの勢力に対する金の使い方は大きく異なっていた。軍に対しては給与や待遇を高めて彼らを懐柔し、或いは有力な部族長を通じて部族出身の若手将校を黙らせた。一方同じオイル・マネーを使って国内治安の元締めである内務省の秘密警察を拡充しシーア派を徹底的に監視弾圧したのである。それでも1980年代のサウジアラビアではリヤド爆弾事件(1985年)、メッカでのイラン巡礼団事件(1988年)など大規模な騒擾事件が次々と発生している。
1980年9月、イランとイラクは戦闘状態に突入、その後8年に及ぶイラン・イラク戦争が始まった。主戦場となったファオなど南部国境地帯はカフジから200KMほどであり、決して遠い距離ではなく、時にはロケット砲の衝撃音が聞こえることもあったが、所詮はイランとイラクの戦争であり「対岸の火事」だという妙な安心感があった。サウジアラビア辺境の地カフジは騒乱とは縁遠い平穏な日々であった。
1980年代はアラビア石油及びその社員にとってはきな臭く多難な時代になるのであるが、まずは平穏な幕開けであった。日本ではビートたけし(ツービート)、神介・竜介などの漫才ブームや原宿竹の子族がもてはやされた。日本も高度成長の名残の太平の時代であったと言えよう。
(続く)
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp
(連載)「挽歌・アラビア石油:ある中東・石油人の随想録」(9)