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第6章:現代イスラームテロの系譜
5.敵と味方を峻別する一神教
強引にイラク戦争に突入したブッシュ大統領は、フセイン政権をイラン及び北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」の一翼と決めつけ、「世界は米国側につくか、テロ側につくかのいずれかだ!」と叫んだ。あいまいさを許さぬ二者択一である。それは正義と悪の対決であり、宗教的に言えば神と悪魔の対決である。この場合もちろん米国が正義であり神(God)の代理人である。これに対してイラクは悪であり悪魔の代理人ということになる。そこには一神教のキリスト教が構造的に有している敵と味方を峻別する論理がある。
これを逆にイスラームの立場から見れば全く同じことが言える。つまりイスラーム諸国にとって正義は自分たちにあり自分たちこそ神(アッラー)の代理人である。そして米国や他のキリスト教西欧諸国は悪であり、悪魔の手先であると言うことになる。「悪魔の詩」事件がその好例である。英国の作家サルマン・ラシュディが1988年にムハンマドの生涯を題材にして著した小説がイスラームを冒涜するものだとして、当時のイランの最高指導者ホメイニ師が著者、発行者はもとより外国の翻訳者にまで死刑を宣告、日本語翻訳者の筑波大学助教授が何者かに殺される事件が発生した。
このような過激な反応は一神教特有のものである。ギリシャ神話、日本神道或いは仏教のような多神教(仏教を多神教と見るかどうかは異論があろうが、キリスト教やイスラームのような一神教と異なることは間違いない)では、善と悪、神と悪魔は自らの心の中に共存していると教える。ここでは敵と味方の闘争はあっても、それは決して正義と悪の対決、神の代理人と悪魔の代理人の対決ではない。
敵と味方を正義と悪、神と悪魔で峻別する一神教の世界で敵と味方に分かれるケースは三つ考えられる。一つは異なる宗教との対決(異教対決)、二つ目は宗派の違いによる対決(宗派対決)、そして三つ目は同じ宗派の中の正統派と異端派の対決(異端対決)である。そしてそれぞれの対決のなかでテロが発生する。
これら三つの対決をイスラームの側面で見ると、異教対決とはイスラームとキリスト教及びユダヤ教との対決となる。イスラエルとアラブ諸国の間の中東戦争、或いはアル・カイダが911同時多発テロを始め世界各地で引き起こした対米テロ事件は異教対決のケースと言えよう。ソ連共産主義と対決したアフガン戦争は一神教対無神論の対決として一種の異教対決と見ることができる。そして二つ目の宗派対決はシーア派対スンニ派の対決としてのイラン・イラク戦争がその典型と言える。
三つ目の同一宗派内の異端対決は現代イスラム世俗主義とイスラム原理主義(サラフィー主義)の対決となるが、こちらは少し問題が複雑になる。何故ならこの対決ではお互いに自分たちこそ正統派であり、相手方を異端者、背教者と呼び合う。それぞれが自分たちこそ教祖ムハンマドの正しい教えに従っていると主張して互いに譲らない。妥協の余地は全くないと言ってよい。
異端対決は中世キリスト教社会でも起こった。カソリック対プロテスタントの対決である。しかし西欧キリスト教社会はこの対決を克服し、相互不可侵の形で共存している。しかるにイスラームではどうしてこの対決を克服できないのであろうか。
イスラームの場合、原理主義はムハンマドの布教初期の精神に立ち返ろうと呼びかけるサラフィー主義、つまり復古主義である。原理主義者たちは教義と組織を近代社会に合わせようとしているのではなくむしろその逆である。
なぜそのような復古主義が大手を振ってまかり通るのか。それはイスラームがたかだか7世紀余り前、すでにある程度の世界規模の通商体制が整った14世紀に生まれたためと考えられる。原理主義者たちは7百年前の当時に戻ることが可能だと説く。キリスト教にも原理主義はあるが(元来「原理主義」という言葉は米国福音派の機関紙名が起源である)、キリスト教が生まれた今から2千年前は農耕牧畜の農奴社会の時代であり、生活のすべてを復古することはあり得ず、ただキリストの教えの原点に立ち返ろうということになる。ところがイスラームの原理主義者たちはできるだけ昔の生活を取り戻そうと本気で考える。
原理主義者たちは自分が絶対正しいと信じ込んでいるだけに拙速に自分たちの理想の実現に取り組む。この結果、彼らは対決する相手だけではなく、一般市民からも敬遠される。それでも彼らの勢力が衰えない間は、彼らは一般市民を無理やり従わせようとする。従わない者は「異端者」或いは「背教者」として暴力的に排除される。そして彼らの思想に同調或いは感化された過激な若者をテロリストとして利用し、自爆テロで命を落とした場合は「殉教者」として祭りあげる。教義に逆らえない一般市民はただただ過激な原理主義の嵐が通り過ぎるの耐えて待つことになる。
ところがイラク戦争は全く別の次元で始まり、別の次元で終わった。米国がイラク戦争の開戦理由とした大量破壊兵器は見つからず、またフセイン政権とアルカイダとの関係も証明できなかった。湾岸戦争ではクウェイト解放という大義名分があったが、イラク戦争が何だったのか米国は答えられない。
それでも米国は戦争により圧制者サダム・フセインの政権が倒れ、イラクに民主政権誕生の素地が生まれたと主張した。しかしフセイン政権崩壊後のイラクはまるでパンドラの箱を開けたかのごとき様相を示した。3年後の2006年、サダム・フセインは公開裁判を経て処刑されたが、イラクはスンニ派とシーア派が攻守を変えた政争に明け暮れている。そこに付け込んだのが「イラクとシリア(或いはシャーム)のイスラム国(略称ISIS)」であり、後にアブ・バクル・アル・バグダーディが自らカリフを名乗る「IS(イスラム国)」となって猛威を振るっている。
米国は帝国主義時代の英国、フランスに次いで中東で大きな問題を起こした。これが間違っていたかどうかは今後の歴史が決めることである。キリスト教中世のプロテスタント異端論争ですら問題が落ち着くまでに数百年が必要であったことを考えれば、中東イスラーム世界で現在起こっている事象の正誤を判断するにはまだ相当の年月を要するに違いない。
中東イスラーム世界の異教対決、宗派対決、異端対決が第二次大戦後のわずか100年足らずで円満解決の大団円になるはずはない。しかるにこの世に正義と神の国を実現せんとして真っ向から対決する米国もISも解決を急ぎすぎている。
甚だ無責任な言い方に聞こえるであろうが、ここしばらくは「奢れるものは久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」の心境で事態の推移を見守るしかないようである。
(続く)
荒葉 一也
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