高谷オカリナの里発2

栃木県佐野市白岩町高谷(たかがい)にある、「高谷オカリナの里」の管理人(自称)のブログです。

火山久さんの超レアな?資料を入手しました。

2011-07-24 00:44:13 | 情報です

谷力さんの、オカリナの師匠である、
火山久(かやまひさし)さんに関する資料を入手しました。
と言っても、オカリナとはあまり関係ない資料ですが・・・
資料の提供者は、ブログにコメントをいただいた、大島さんです。
本人に了解を得て、今回その資料を紹介したいと思います。
資料と言うのは、1949年12月23日に、
福島県矢吹町矢吹中学校で行われたレコードコンサートの、
手書きのプログラムのコピーです。
火山久さんのプロフィールは、知り合いから聴いたり、ネットで調べたりして
ある程度知っていると思っていたのですが、
中学校の音楽の先生をしていたとは知りませんでした。
火山のオカリナのコレクターの足利市の福田さんに聞いても、
中学校で音楽の先生をしていた事は、知らなかったみたいなので、
かなりレアな情報だと思います。
それでは、大島さんから送られてきたコメントと、プログラムのコピーを紹介します。
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[コメント]
レコード・コンサートのプログラムのコピーを昨夕投函しました。
プログラム上のピアノの絵などはQ先生と仲のよかった絵の先生が描いたものと思います。
実際の大きさはA4ですが見づらいので拡大してあります。
譜面は残っていませんがQ先生は中学の応援歌の作曲もしています。
インターネット上のブログを見ると「スイスで生まれて、
東京音楽学校に学び、空襲で半死半生の目に会って云々」と出ているのですが
私たちは短い矢吹時代の記憶が鮮明なだけでそれ以前のことはほとんど知りません。
特徴的なことは片方の足が悪いことで、
それをほとんど跳ね上がるようにして引きずって歩いていました。
ブログの中には、空襲で怪我をしたためと書いているのがありましたが、
同僚であったある先生は「子供の時に脱臼したのを放置しておかれたため」と本人から聞いています。
チェロを弾いている写真をコピーしておきましたが、ピアノからチェロ、
その後交通事故にあってからオカリナと転身し、
作曲もしている意思の強さは驚くばかりです。
この同僚であった先生はQ先生が東宝劇場でチェロを弾いていた時期があり
劇場付近で出合ったことがあるといいます。
不自由な身体でチェロを運んでいるときにでも交通事故にあったのかもしれないと言っています。
このような次第で故人となられた谷力さんなどその後のQ先生について
記憶されていることがあればお知らせ戴きたいと思います。

「1949.12.23 レコードコンサート・プログラム(pdf)」をダウンロード

火山久さん(本名 渡辺久三郎)が、当時「Q先生」と呼ばれ、個性的で人気のあった先生であった事、
手書きのガリ版刷り、限られた紙面の中で、書かれている気持のこもったプログラム。
その当時の資料が、今まで保管されていたいた事にも、驚きでした。
それほど、魅力のあった(変わった?)先生だったのでしょうね。

ps.渡辺久三郎氏が'45年の東京大空襲で右手小指の自由を失い、
ピアニストをあきらめ、東京音楽学校を退学して、ウィーン音楽大学留学して、
帰国後、チェリストとしてまた作曲家として活動するまでの、
ある意味での空白の期間の貴重な情報だと思われます。


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