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“Letter to Kaizo Yamaoka “ ’18-11-13

2018-11-12 14:50:43 | Massy's Opinion

★Massy'sOpnion

前略

海三山岡君今年もカレンダーの季節に成りましたね。又作りました?最近あのタイプのカレンダーが少なく成り、自動車屋のカレンダーがあまり楽しくない。又送ってください。

さて、相変わらずの貴君のスタイル、アッチヤ、コッチヤ具合が悪いとは言いながら仲間の中では一番元気なように見受けられますよ。みんな高校の仲間は残っているメンバーは耳の遠いいのが多くなったが、その他は元気ですね。大学の仲間は野球の巧かったプロへ行った3人を始め結構早く亡くなりましたね。先日古い「六球会」の写真をブログにアップしたら、結構見てくれた人が多かったですよ。でも「日石」の戸谷さん、「大昭和」の徳丸さん、「ビール梅垣さん、松本悦雄さん等こわい先輩も居なく成り寂しいですね。昔、お宅のお父様が「三田倶楽部」の会長をされて居た頃、よくお宅で「すき焼きパーテイー」をやっていましたよね。確か僕が一番初めに呼ばれた時は、梅垣さんが一番上級生であれ以来梅垣さん=梅さんに可愛がられたのもあの時以来の様な気がします。会社に入ってから車をズット僕から買って呉れました。貴君のお父様はあの時、三田倶楽部の会長をされて居たんですね。松尾さんの力作「慶応義塾野球部史」を読んで早慶戦の18年間の中断、復活早慶戦に至るご努力等を知り改めて貴君、御父上の野球、特に早慶戦に対する熱き想いを感じました。今日多様化するスポーツの多い中、早慶戦だけは我々塾員、塾生の力で守り続けたいものだと思います。今秋は残念ながら早慶戦に敗退し、優勝を逸しましたて残念でした。

・慶応高校、大学野球部の近況

秋のリーグ戦は相変わらず、全試合見ましたがテレビ観戦が3試合ありました。高校野球部が2回連続の甲子園出場、大学が昨年秋と今年春と連覇。まあ「慶応野球此処にあり」という好成績でした。三田倶楽部の会費納入率が約83%と異常な高さです。OBも色んな年代に別れますが、一番年長組の「六球会」の野球年1回、ゴルフ2回の定期会合も優秀な成績で他校を圧倒しています。基本的には60歳以上ですが、80歳が限度でしょうか?

昔はメンバー集めに苦労したものですが、今は六球会の参加費(神宮球場の借用料)も三田倶楽部の予算に組み込まれているし浜 元監督、小西マネージャー等がしっかりコミュニケートして呉れているし、我々の代では幹事会には河内君が頑張ってくれていますので、万全でしょう。随分長い間(70年位?)神宮球場で野球を見ていますが今年は初めての事を二つ見ました。一つは、1塁ゴロの太陽安打です。人工芝なのでイレギュラーバウンドはしない筈なのに慶応の一塁手の前で高く跳ねあがり、丁度夕方の落日の中に入りライト前に飛んでいきました。あの時間、あの角度あのイレギュラーのバウンドが全く重なるなんて、全く初めてでした。もう一つは、慶応高校の出身の投手が津留崎3年、木澤2年、森田1年と続いて一試合に登板した事です。まあ出来はそれぞれですが、最近は志木校も藤沢も一軍で投げる好投手も随分いますが、こんな順番で登板したのは初めて見ました。これで。貴君の父上や石丸部長先生、特に長尾部長先生がご覧に成ったら皆さん非常に喜ばれるでしょうね。

・昔の話

確か、高校2年の秋でしたか?急に長尾部長先生から「教員室に来い」と呼び出されました。担任でもないし、英語も教わって居ないし、悪い事をした覚えもないし、こわごわと教員室に行くと、長尾先生が一人のご婦人と話をされて居ました。「おいこっちに来い」と呼ばれて「こちら三田倶楽部会長の奥様だ」「今度、お子様を野球部に入れたいとおっしゃる。君と同じ学年だから、良くお世話して、友達になって呉れ...」と言う話で安心した。クラスは違うしそれから君が練習に出て来るようになった。守備は同じ外野、で右投げ左打ち、まあライバルの参加である。幸い、僕はライト、君はセンターだったね。あの当時は、先輩の2回生、3回生が大学野球部に入っても、直ぐ辞めてしまうので君のお父様は高校から入らないと「慶応は強くならない」と良く言われていたね。2月学校の試験が終わると直ぐ合宿にいれられた。ご飯はどんぶり飯一杯、にオカズは味噌汁と一品、沢庵が大きなどんぶりに山盛りに成って居て、お腹に足りない分は良く沢庵を食べて我慢したっけ...4月に入ると地方勢が予想以上に入学してきて、慶応高校は自宅から通えと言う事になったんでしたね。

まあ、当時の部長、監督は内部進学の途絶えるのを心配されていたのでしょうね。当時、最強と言われるメンバーを揃えていながら、9シーズンも優勝できなかったので、阪井監督も相当プレッシャーを掛けられていたのでしょうね。一度、2軍の練習でバッテイングの時に、「慶応高校は打たんでいい」と言われて頭に来たことを今でもよく覚えて居ます。僕は阪井さに「増田打たんでいい...」と言うのなら良いですが、学校を名指しで言うのは困ります。未だ、他にも居るのですから...」と口答えをしました。其の1週間位後に山岡さんから「どんな練習をしているんだ」と聞かれたので、その話をしたら、山岡さんは直ぐ阪井さんに電話して怒ったようです。翌日、練習が終わった後監督に呼ばれて「本科の3年まで外野の後ろの小川で球拾いをしていた宇田川さんを使ったら名ショートになった話とか、全部俺は見ている...」一時間半お説教をされました。この話は山岡さんにはしませんでした。兎に角いろんなことがありましたね。部員も少なかったから、山中湖の清遊、とか葉山海岸遊泳とか...僕らはマネージャーを含めて、6人大学に入りましたが結局4人は最後まで居ましたよね、次の学年は甲子園へ行って、殆ど一チーム入ってきましたから心強かったですね。

あれから、50年前記したように塾高出が中心で良い野球をやって居ます。いい仲間も沢山出来ました。貴君と「菊正宗」を焼酎と知らず渋谷で飲んで、四の橋の君の家まで送って行ったことや、君の親戚の芦ノ湖の「松坂屋旅館」に遊びに行ったのも覚えています。あの時から貴君は写真が好きでしたね。「ファインプレーをファイプレーでなくするプレー」とが大事とか、長尾先生の「当たり前のことをやれば、当たり前のことが出来る」とかあの時代の人は謎かけ問答の様な話し方が好きでしたね、巨人の藤田監督の座右の銘は長尾先生の言葉でした。

早々


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