イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

船底塗装

2024年10月20日 | Weblog
昨日とは打って変わって、今日は北からの爆風だ。



気温もかなり低くなった。この風では釣りにも行けないので延ばし延ばしにしていた小船の塗装をする。当初の予定ではこの週末はこれだけをやるつもりであったのだ。
渡船屋も休業していて好都合だ。風が強くて休業しているのかと思っていたら、こんな日は変な客が来るので休みにしたという。なんとも強気な商売だなと羨ましくなった。まあ、素人のような釣り人がこんな日にやってくると事故の危険もあるからこれはこれで賢明な判断なのかもしれない。

満潮時刻の午前8時に港にやってきたが198センチの潮位ではスロープは海水が押し寄せてしまっている。叔父さんのところで1時間、円卓会議に出席して午前9時から上架の作業を開始。風が強くて船を安定させるのに難儀しながらようやく船体の半分ほどを引き上げる。これ以上はスペースがないので潮が引くのを待つしかない。



その間に少しずつフジツボを掻き落とすが、大きい船と同様、例年以上にいっぱい付いている。

船体がほぼ露出しコンクリートブロックの上に乗せることができた頃には午前10時を回っていた。前回は作業を急ぎ過ぎて生乾きのままで塗装を始めたが今回はしっかり乾燥させようとその間、シラスを買いに和歌浦へ向かった。店番のおばさんに話を聞くと、例の魚は遊漁船でもたくさん釣れているらしい。いったいどれくらいの量の魚がやってきたのだろう。アマダイもそうだが、不思議な現象だ。

スロープに戻って一気に塗装を始める。もう少し塗面を乾かしたいけれども潮が引き切る前に海に戻した。
毎度のことで雑な作業だったがこれで秋を迎える準備ができた。

新たな獲物も嬉しいが、僕はそれほどの変化を好まない。普通に毎年釣れる獲物が普通に釣れる方が嬉しいのである。
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紀ノ川河口~住金沖~水軒沖釣行

2024年10月19日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口~住金沖~水軒沖
条件:大潮 7:17満潮
釣果:タチウオ3匹 サゴシ1匹 例の魚8匹(3匹放流)

本当は今日は安息日にするつもりであった。当初の予報では強い南風、朝から雨となっていたのでこれでは草刈りも中止で釣りにも行けないから1日中映画を観ようと思っていた。しかし、前日の予報では南の風は強いものの、雨は午後からに変わっていた。そして、同じく前日、Nさんから例の魚が爆釣だという知らせが入ってきた。風が強いのは覚悟の上でこれは行かねばならない。



とりあえずはタチウオを狙いながら風の様子を見ることにした。新々波止の北側は少し風が遮られているとはいえ船は安定しない。そのせいなのか、それともシーズンがすでに終わってしまったか、まったくアタリはない。やっとアタリが出たのはかなり明るくなってからだ。それもすぐに外れてしまいやっぱりダメかと思っていると間もなく次のアタリでしっかり魚が掛かった。今日の最初で最後のアタリは3匹掛かっていた。そのうち1匹はおそらくサゴシに喰いつかれたか、内臓が喰いちぎられていて背中の肉でかろうじて頭と胴体がくっついているという状態だった。今日はこれだけと思いこれも持って帰ることにした。
次のアタリはサゴシであった。1匹はバラしたが1匹を確保してタチウオ狙いは終了。

例の魚は住金沖が本命だそうだ。風と波が怖いのでとりあえず近場からと青岸沖から禁断の仕掛けを流し始めたがいきなり本命が喰ってきた。しかし、期待に反して型は小さい。



ここでも釣れる感じだが、もっと大きな獲物を求めて風と波は強いが住金方面へ舳先を向けた。連続してアタリがあるのかと思ったが紀ノ川の河口ではまったくアタリがない。河口からの淡水の流れが悪いのかもしれないと思い一度仕掛けを回収して釣り公園の隅から再び仕掛けを流し始めた。しかし、ここまで来ると風と波はさらに酷くなり、ひょっとしてここは来てはいけないところなのかもしれないと思い始めた。写真を撮っておきたいと思っても恐怖が先行してカメラを構えることができない。すぐに引き返すことにしたが、速度を上げることもできないので仕掛けを流したままにしているとこんな時にアタリが出てしまった。デッキの上では何かに掴まっていないと立っていられないような状態だったのでしゃがんだままで仕掛けを回収する。やはり小さいが例の魚が喰っていた。その後もすぐにアタリ。2匹の一荷だ。その後、紀ノ川の河口に差し掛かるとやっぱりアタリがない。最初にアタリがあった場所に戻ろうかとも考えたが、昨日、渡船屋の釣果で98センチのサワラが上がったという情報を思い出し、風はまともに当たりそうだが新々波止の南に向かうことにした。
波止の先端の赤灯台を廻ったときにアタリが出た。はやり例の魚だ。河口を除いてどこにでもいるようだ。沖の一文字に近づくまでずっとアタリが続く。たくさん持って帰っても仕方がないのと少しの罪悪感で合計3匹を放流。しかし、この魚はパワーはすごいものの、一度触ってしまうとすぐに弱ってしまう。1匹は鉤を飲み込んでしまっていたので魚を握って鉤を外したのでかなり弱ってしまっていた。放流した時には海底のほうに向かって泳いでいったが果たして生き延びてくれるのかどうか・・。それならやはり持って帰ったほうがよほど供養になったのではないかと思い悩むのである。

午前9時には草刈りに参加しなければならないので一筆書きで船を進めたが、アタリがあった場所を丹念に釣ってやればいくらでも釣れる感じだ。
今までこの魚がこれほど釣れたことは経験がない。いったいどうして群れがやって来たのかはまったく不明だ。これも猛暑の落とし子なのかと考えると嬉しくもあり怖くもあるのである。

例の魚はレアカツにしてもらった。



これはいくらでも食べられる。いつ頃まで群れが居続けるかわからないが、これはもう一度食べたいのだ・・。
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加太沖釣行

2024年10月13日 | 2024釣り
場所:加太沖
条件:若潮1:40満潮 8:53干潮 
潮流:5:36転流 9:34下り2.3ノット最強
釣果:タチウオ7匹 サゴシ3匹 カワハギ4匹 〇△×?1匹 真鯛2匹 スマガツオ1匹

無事進水を済ませた翌日、久々に加太を目指した。すでにカワハギはシーズンに突入しているらしい。今日は潮が速い時間帯はカワハギを狙い、最強時刻近くから高仕掛けをやってみたいと考えている。思い付きで作ったタチウオの仕掛けも試してみたいのだが、すでに小潮の廻りは終わってしまっているので次の機会に持ち越すことにした。

まずは保険のタチウオだ。午前5時半に青岸に到着していれば大丈夫だろうと思っていたら今日は雲が少ないのか、早いうちから東の空が白み始めてきた。



4、5匹あれば十分だと思っているのでそこは慌てずにポイントを目指す。先週は大きな型が混ざったのですでにシーズンは終わりかけているなと思っていたので最初のアタリが出てホッとした。その後はコンスタントにアタリは続く。しかし、釣れてくるタチウオの型は小さい。中盤の頃に戻ってしまった感じだ。時折大きなアタリがあるのはサゴシだ。まずまずの大きさだったのでこれはこれでうれしい獲物だ。この海域でサゴシが釣れたのは何年ぶりだろう。釣れない海が釣れる海に変わってきたのかもしれない。
アタリはまだまだ続きそうだったがおかずは確保できたので加太を目指す。
船足は快調で、このままイスカンダルまででも行けそうな雰囲気である。

まずはFさんポイントからカワハギ狙いだ。



仕掛けを降ろしてしばらくしてアタリがあった。鉤には乗らなかったので仕掛けを回収してみると鉤が喰い切られていた。次のアタリは鉤に乗ったものの、上がってきたのはサバフグだ。次もサバフグ・・。これでは鉤の消耗が激しすぎるので軍港前へ移動。しかし、今度はアタリがない。ここにはほかの船も浮かんでいるのできっと釣れるのだろうけれども流す筋が悪いのかもしれない。もしくは、箕島の底引き船が夜中に荒らしまわっていたのかもしれない。この辺りは底が幾分平坦だから奥深く攻めるとしたらこの辺りだろう。
このままでは時間がもったいないので再びFさんポイントへ戻ってみた。そして、今日はすべて、この判断が功を奏した。
戻ってすぐにアタリがあり1匹目のカワハギを確保。その後もアタリは続く。この一時期が時合だったのかもしれない。それでも、頻繁にアタリがあるというほどでもない。ただ、喰い気はあるようで、最初のアタリを逃しても他の鉤に喰ってくるという感じだ。そして5匹目、今日一番の大物と思われる獲物をタモ入れに失敗して目の前で逃してしまうという失態を演じてしまい、もうすぐ潮流の最強時刻を迎えることもあるのでこれを機に高仕掛けに変更することにした。
本当なら下り潮なので友ヶ島の北側にできている船団に入るべきなのだろうが、カワハギを釣っている間、魚探には時折反応があったので動くのも面倒だし、1時間ほどで帰る時刻になってしまうので同じ場所から始めることにした。




そして、この判断もFさんポイントへ戻ったことからの流れでの奏功だった。

鉤には乗らなかったものの、すぐにアタリがあった。魚は間違いなくいるらしい。そして次のアタリはすぐにあった。今度は鉤に乗ってくれた。青物のように走るが時々叩くような引き方だ。なんだかわからないと思いながら仕掛けを引き上げてみると真鯛の下にスマガツオが掛かっていた。鯛と青物のハイブリッドの引きだったというわけだ。
もとの場所に戻ってみるとすぐにアタリ。今度は大きい。これは間違いなく青物系だ。この竿とこの仕掛けなら60cmクラスのハマチでも十分上げられる。しかし、魚の重みは途中でなくなり幹糸から切られてしまった。魚が大きすぎたか、何度か使ったあとの仕掛けだったので仕掛け自体が弱っていたのかもしれない。
仕掛けが切れた理由はそのあとわかった。次のアタリは禁断のあの魚だった。前の魚はきっとこれよりも大きな禁断の魚だったのだろう。スマガツオといい禁断の魚といい、水温がかなり高いままでいるようだ。
次のアタリもすぐであった。今度も大きい。また禁断の魚かもしれないと思い慎重にやり取りをしていたがまた軽くなってしまった。と思ったが、まだ魚は付いているようだ。上がってきたのは1匹目よりも小さいが真鯛であった。仕掛けをチェックしてみると、枝素が根元から切れてしまっているのが1本、鉤を喰い切られているのが1本あった。やはり大きな魚が喰っていたようだ。
最初の真鯛の時も鉤が喰い切られている枝素があったので今日は大きな魚が何度も喰ってきていたようで、この感じだと潮止まりまでアタリは続きそうであったが昼ごはんは家で食べるというのをモットーにしているので午前10時過ぎに終了。

あとから考えると、今日、僕のいた場所の下り潮は地の島の際からナカトシタの南の方に向かって流れていた。おそらくナカトからも潮が入って来ていていたはずだから、この潮とぶつかり壁のようなものができていたのだろう。僕は偶然その壁の上を流れていたに違いない。それがよかったと考えられる。まあ、あとからなら何でも理由付けというものはできるのではあるのだが・・。

カワハギはもう少し欲しいところであったが、高仕掛けでは1時間余りでこれだけのアタリがあれば十分釣ったという感じがあった。
加太でもずっと釣れない時期が続いた(のは僕だけかもしれないが・・)が、ここも釣れる海が戻ってきたようである。
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船底塗装

2024年10月11日 | Weblog
こんな時にこんなことをしていてもいいのだろうかという気持ちはある。しかし、予定していたことはやっておかねばならない。
といいながら、やっぱりそういうことはいかんのだよと言うがごとくに機械室の鍵を取りに行く際に予約のノートを見てみると僕の予約が勝手に消されて別の人の名前が書かれている。最初に書いた予約が消されていたのは何度も予定を変更していたので今回はキャンセルだろうと管理人の人が勘違いしたと思って書き直した予約も消されていた。これは間違いなく意図的に消されたものに違いない。
これは困った。ここでは僕はよそ者で使わせてもらっている立場だから文句を言ったりするとじゃあ使わせてやらないと言われるのが落ちだとはいえ無茶苦茶なことをする。やっぱりここもムラなのである。よそ者は基本的に拒絶されるのだ。

う~ん・・としばし思案。勝手に消した人の予約は明日と明後日、僕は今日と明日。それならこの人が船を上架する前に僕の船を降ろせば問題がないだろうと考えて、朝早すぎるかと思ったが、ノートに書いている管理人さんのところへ電話を入れてみた。多分、この人は前回お金の回収に来ていたヨシヤさんという人だろうと思う。さすがに漁港に住んでいる年寄りだ。午前7時半だったがちゃんと電話に出てくれた。事情を説明して、明日の上架の時間までには船を降ろすから今日使わせてもらえるように相手に了解を取ってくれないかとお願いをしてみた。何をややこしいことを言っているのだとけんもほろろにあしらわれるのかと思ったがそこはあっさり引き受けてくれて10分後には了解が取れたでと連絡をくれた。
明日は午前6時に引き揚げると言っているというのだが、潮が低すぎるのではないかと思って聞き返すとここはけっこう潮が低くても大丈夫とのこと。あとで潮位表を確かめてみると、12日の午前6時というのは潮が引ききる前の時刻で、今日、僕がここまで待てば大丈夫だろうと思った潮位とほぼ同じだった。僕としては、翌日の朝は潮が引きすぎているから降ろせるのは昼からだろうと思っていたけれども、みんなきちんと海を見ているなとある意味感心してしまった。僕も明日はお昼前に用事があるのでそれまでに船を戻せたら午後からはゆっくりできるのでありがたい。

ノートだけで予定を管理しているほどだから何もかもアバウトというか、ムラではこれでなにもかもうまくいっているのだろうからこれで問題がないのであろう。Nさんに言わせると、「あいつらのやっていることは無茶苦茶や。」となるのであるが、そこに他所のものが入ってくるとややこしくなるだけなのであると僕は思う。普通なら僕も逆ギレしてしまうところだが、おカネを節約するためには他人に従うしかなくて、そうなると自分の運命を他人にゆだねているということになる。だから、郷に入っては郷に従え。ムラの掟に背いてはいけないと思うしかないのだ。

今回はいとこにウインチの操作を頼んでいる。ひととおり説明をして午前8時半に上架を開始。多分大丈夫だろうと思いながらも船台は船を乗せられるくらいまで沈んでくれるだろうかと心配していたがヨシヤさんが言っていた通り、ギリギリどころか余裕で安全な位置まで沈んでくれた。潮位は85センチあれば大丈夫だということが確認できた。

先週のタチウオ釣りの時点で異常なほど船の速度は落ちていてスクリューには不規則な形でフジツボが付着しているのか、異常なほど船が振動していた。上架した船を見てみると確かにものすごい数のフジツボが付着している。



5月に上架したときは船底があまりにもきれいでこれは1年に1度で大丈夫じゃないかと思ったけれども今年の猛暑で逆転してしまったようだ。このような気候が来年も続くのであればやっぱり年2回の作業はやめられそうもない・・。

作業は特に問題なく終了。



しかし、スクリューのシャフトのブラケットの基部の割れがひどくなってきているのが気になった。次の作業の時にはFRPで補修を施さねばならないかもしれない。補修自体に効果があるのかどうかはわからないがFRPの扱いは小船で経験したので見た目だけでも割れ目を埋めることができるかもしれない。

翌日は次の人に迷惑がかからないように午前5時半に港に到着。いとこが5時45分に来てくれるのを待っていると管理人さんが先にやってきた。名前を告げると、「えらい無理を言ってすまないね~。」との言葉。もう、こっちが下手にでなければならないと思っていたので拍子抜けした。その後にやってきた当の二重線で僕の名前を消した人も、不愛想で強面の人かと思ったら腰の曲がった小柄な爺さんで、「急かして悪かったね~。」と言う。なんだか悪気が一切ない中で先の予約を消しているのかと思うと恐ろしくもあった。けれども、これがムラの中だけならスムーズに事が運んでいくのだろう。世の中では田舎への移住が人間関係で失敗したというような話が出ているが、確かにこれをよそ者がクリアするのはなかなか難しいのだと思った。
まあ、僕の印象としては結果として、思っているよりもみんないい人たちだったということなのである。

結局、船を降ろす作業は管理人さんがやってくれたので朝早くから起きてくれたいとこには申し訳ないことをしたのだが、せっかくなので港までのクルージングにつきあってもらった。水軒で育ったので子供の頃は港をうろうろしたり海に潜ったりしていたらしいが、海自体を見るのは久しぶりらしく、全然景色が違うと驚いていた。確かに、40年前とはまったく景色が変わってしまっている。少しの百姓仕事をしながらずっと家にいるので近いうちに釣りにも連れていってやろうと考えている。
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「私たちはどこにいるのか:惑星地球のロックダウンを知るためのレッスン」読了

2024年10月08日 | 2024読書
ブルーノ・ラトゥール/著、川村久美子/訳 「私たちはどこにいるのか:惑星地球のロックダウンを知るためのレッスン」読了

だめだ・・、僕の中のスキーマも文脈もまったく歯が立たない・・。
確かに、タイトルを見て一体何が書かれているのかということがわかるようでわからない。
パンデミックを経験した人類に価値観の変化はあったのか。とか、生きる目的を見直す啓蒙か、それともSDG‘sのような持続可能な世界を実現できるのか、そして人間はどうしたら生き延びられるのかというようなものを想像しながら読み始めたのだが、この本のテーマは、
『惑星地球それ自体がロックダウン状態にあり、(すべての生き物は地表数キロの薄膜=地球生命圏の内側にいわば「幽閉」された状態でしか生きられない)、人類はこの永遠のロックダウン(地球最古の生命以来、すべての生き物はこの薄膜に「包み込まれた状態」を維持しながら生き延びてきた)を肯定し、あらゆる他者との相互生成を共に紡ぎ続けることによって初めてロックダウン状態から抜け出すことができる』というものだそうだ。
この時点で疑問符がいっぱい浮かび上がってくる。それに加えて、カフカの「変身」の主人公が虫に変身してしまって部屋の中に閉じ込められてしまうというストーリーを重ね合わせて展開されてゆくのだからよけいにわからない。「変身」自体が読んでいてもさっぱりわからないものだからわからないのももっともだ・・。
閉じ込められたのに自由になれる・・。う~ん、わからない・・。
読み進めるうちに、唯一僕のスキーマに引っ掛ってきたのは、この本は哲学の本ではないのかのいうことであった。途中で著者のプロフィールを読んでみると、フランス人で科学人類学者で哲学者であるということだった。これだけは当たっていた。哲学者が書いた本なのだからわからなくて当たり前だと納得した。
そして、最終章で著者はこう語っている。この本は『哲学的寓話スタイル』で書いたと・・。わからないのはもっともだ。さらに、各章の理解を深めるためにはこういう本や論文を読みなさいと見たことも聞いたこともないものが並んでいる。論文なんて読む機会もないし日本語じゃない原書なんてもちろん読めるはずもない。この本の中で著者はおそらく、哲学、科学、宗教、政治、社会という、この世のすべての知を統合して人類のたどるべき道を説いているのだろうからそれにふさわしい知識を持っていなければ読めないということだ。

本編を読んでみてもまったく意味がわからなかったので、訳者のあとがきに期待をしていた。
そのあとがきでは、著者のラトゥールは、『今回のロックダウンは人類に重大な教訓を残したと見ている。今回の経験は、私たちがより大きなロックダウンの只中にいるという現実を思い起こさせてくれた。「閉じ込められた」という経験は実は、私たちにとって新奇なものではなく、私たちの常態を表している。「閉じ込められた」という事態、「そこから再び自由になること」がどのような意味を持つのかを今一度問い直す必要があるとしている。』と言っているのだと書いている。
人類はこの地球上で生きていくしか道はないのだから、『この同じ世界にこれまでと異なる居住方法で生きていけるかどうか』ということが問われているのだと言っているのである。

閉じられた空間ではそのまま生き続けることはできない。それを組み替え続けることが必要であるというのは、企業が現状維持では必ず倒産してしまうというのと同じことを言っているのだろう。コロナの前も最中もその後も生活に何の変化もなかった僕にはよくわからないのはもっともな内容であるのは間違いがないのである・・。
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紀ノ川河口釣行

2024年10月05日 | 2024釣り

場所:紀ノ川河口
条件:中潮6:56満潮
釣果:タチウオ8匹

夕べはなぜだか寝つくことができずほとんど一睡もできずに午前2時に布団から抜け出した。最近は時々そんなことがある。
とりあえず外に出てみるとかなり風が吹いている。予報でも風が強いとなっていたが雨が止む時間が早かったので風が弱まるのも早いだろうと思ったが甘かった。港まで行ってみて風が強ければ帰ればいいだけなのでとりあえず行ってみると、風向きは北東からなのでここだけ見れば十分行ける。
もう雨は降らないと思っていたが水軒川の堤防を走っていると雨が降ってきた。嫌だな~と思うがここまで来たら仕方がない。それに、雨が降っているときというのはえてして風が弱い時が多いのでそれはそれでいいじゃないかと寝不足のわりには前向きな考えだ。

少し寒いのでヤッケを着て出港は午前4時40分。



前向きなのはここだけで港内に出てみるとやっぱり吹いている。しかし、小船ではないので釣りができないほども流されない。青岸の灯台を越えて沖へ行けないかもしれないと思ったので港内のかなり手前から仕掛けを流し始める。
すると、仕掛けを下ろし終わる前にアタリがあった。この辺りのタチウオもそろそろ終盤かと思っていたのでこれは幸先がよい。しかし、合わせが悪くてこれは鉤に乗らなかった。港内でそこそこ数を稼げると思ったがその後はまったくアタリがない。
やっぱり沖かと考え行けるところまで行くことにした。青岸の灯台を越えたところで何度かアタリがあったがこれらも鉤には乗らない。やっと鉤に乗ったのは午前5時半を回った頃だった。型はまずまずだ。今日は沖の一文字の赤灯台の内側がいいようだ。もっとアタリがあるのかと思ったがかなり散発的だ。それでも午前5時に入港したフェリーが再び出ていく頃からアタリが多くなった。指4本を超えるようなまあ、ドラゴンと言っても差し支えなさそうなサイズもある。



空には雲が多いので明るくならないうちは期待が持てると思いきや、午前6時を待たずにエソの2連・・。これは打ち止めの合図だ。今日の地合いは20分ほどで終わってしまった。

数ではまったく満足はできないが、指4本サイズが2本あればまあまあ満足である。
しかし、型が大きくなってきたということは紀ノ川河口のタチウオシーズンも終盤というかほぼ終わりだ。
今年のタチウオは始まりが遅かったのでまったくの不発に終わってしまったのである。
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『「わかる」のしくみ―「わかったつもり」からの脱出』読了

2024年10月02日 | 2024読書

西林克彦  『「わかる」のしくみ―「わかったつもり」からの脱出』読了

「わかったつもり」、僕には痛い言葉だ。このブログに書いている感想文も「わかったつもり」の塊である。
『人は時として、必ずしも十分にわかっていなかったにもかかわらず、「わかったつもり」の状態にある。それは対象に関する追究がそこで止まってしまっている状態であり、「わかったつもり」というのはある種の安定状態であり、人はそこに留まっていることが可能なのである。そして、それ以上の情報収集や探索を止めてしまう。』そうだ。

この本は、人がどうやって文章を読み進め「わかる」のかというメカニズムとそこからどうして「わかったつもり」になるのかということを解明しようとしている。
著者は教育心理学の学者で、日本の国語教育のなかで「わかる」ことがどう扱われているかということに対して批判を加えている。実は、著者として最も訴えたかったというところはここなのかもしれないが、そこはさらっといきたいと思う。

人は文章を読むとき、どんなことをしているかというと、「スキーマ」と「文脈」というものをガイドとして使って読んでいる。「スキーマ」とは、『我々の頭の中にあるひとまとまりの知識が活性化されて外部情報を処理するのに使われる知識群』というもので、「文脈」とはスキーマとよく似ているが、『外部にそもそも存在していたり、示唆・説明されたり、対象をわかるために、その時点でわれわれが仮設的に構築したりするもの。』である。
スキーマは、文脈によってどのようなものを使用すべきかが明らかにされ、文脈のもとで、文脈から得られる知識と共同で働くのである。
文章の構成というのはどれも一から十まで優しく詳しく書かれているものではない。「わかる」ためのガイドを使ってその不足分を補い解釈を進める。少し違うかもしれないが、これは細胞の中でたんぱく質が作られる工程に似ているような気がする。細胞はRNAの情報とリポソームの働きでたんぱく質を作るが、RNAとリポソームのセットがスキーマや文脈であり、できあがったたんぱく質が「わかったもの」に当てはまるものであるような気がする。

文章を読み始めると、自分の持っている文脈(スキーマと文脈はよく似ているものなのでこれから先は「文脈」という言葉だけを使うことにする。)をあてがって理解しようと試みる。この文脈ではこの文章にうまく合わないとなると別の文脈に替えてまた理解を試みるということを繰り返している。
確かに自分でも、読み始めのペースは遅く、大体50ページほど読み進めるとだんだんと速くなっていく。よく読む作家の本ならばそういうことなく最初からペースは変わらないように思う。おそらく無意識に適切な文脈を探っているのだろう。
では、そういう読み方の中でなぜ「わかったつもり」が生まれるのか。簡単にいうと使う文脈が間違っていることになる。所どころはその文脈に当てはまるが全体を通してみると整合性がないということになってしまうのである。
部分的には「わかったこと」になっているのでそれで心地よくなり冒頭に書いた状態になるというのである。
逆に、「統一的な文脈」によって部分間に無矛盾に関連がつけば、それこそが「わかった」ということになるのである。
これはまさに僕の読書そのものだ。感想文を書いているとそれがよくわかる。最初の部分からまとめてゆくと途中でつじつまが合わなくなることが度々ある。そういう部分はきっと僕の文脈がその本に合っていなかったということであり適切なレベルの文脈を持ち合わせていないということでもあるのだろう。
これは文章だけでなく、映画やドラマを観ているときも同じで、途中でストーリーを追えなくなるときやこの作品は何を言いたいのかということがわからなかったりネットに上がっている映画評やドラマ評と自分の感想が違っているときなどは僕の文脈が間違っていたり評を書いた人と僕の文脈が異なっているということなのである。

これはなかなか面白い考え方であり、確かにその通りだよなと膝を打ってしまう内容であった。

このように、文章にはすべてのことが書かれていないので読み手は文脈を使い、少し違うかもしれないが“行間”を読んでわかろうとする。著者は国語教育の問題点がそこに生まれるという。
ある文章が問題文として取り上げられ、「著者のその時の気持ちを述べよ」と問われたとき、答えとしては本来は文章に書かれている内容からのみ類推されることが求められる姿だが、よりよく読ませて「統一的な文脈」を見つける指導がされていなかったり、教師によっては自分が感じたことを正解として押し付けようとすることもある。そういうことは教育としてどうなのかというのである。
確かに、客観的というか、公平というか、そういう読み方というのが正しいとされるのだろうけれども、なんだか味気ない気もする。論理的な読みものでないかぎり、想像することが文章を読む楽しみであるはずである。これはきっと国語教育の限界点なのだろうとも思うのである。最初に書いた通り、これは僕にはあまり関係のないことなのでサラッと通過して感想文を終わりたいと思うのである。
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住金一文字釣行

2024年09月28日 | 2024釣り
場所:住金一文字
条件:中潮8:13満潮
釣果:グレ7匹 チヌ1匹 サンバソウ1匹 アイゴ1匹 タチウオ2匹

金曜日、新しい自民党の総裁に石破氏が決まった。この人、国会議員の中ではあまり人気がないらしいというのは昔からのことだったみたいで、1回目の投票が終わった時点でこれはきっと高市氏に決定だと思われていたようだ。高市氏が総理になるとこれはきっと金融緩和が続くだろうという目論見からか、決戦投票に向かって日経平均が突然上がり出した。木曜日の円安傾向に続いて2日で2000円近く上がったことになる。この時点で地事務所では、「この日のために売らずに置いていたんだ」とか、「これでマイナスが解消できる」というような明るい声が飛び交っていた。僕はというと、「もっと買っておけばよかった・・」と自分の決断力と第1感の無さを嘆いていた。
決選投票の結果が出たのが取引終了後。この時、事務所にいた全員が「エ~!!!」となった。番狂わせというのかどうか、結果は石破氏当選で終わった。「オンナヲソウリニサセルモノカ」といういかにも自民党らしい心の力学でも働いたのではないだろうかと想像してしまう。
その後、急激にというかおそらく5分か10分ほどの間だったと思う。日経平均の先物は一気に1000円以上下がり、為替も1円以上高くなった。



この文章を書いているのは日曜日の午前だが、先物はどの市場も2400円以上のマイナス、為替は2円以上上がってしまっている。



月曜日には2日間で1900円あまり値上がりした日経平均のおかげで積みあがった5万円ほどの利益が一気にマイナスになってしまうだろう。
なんとも困った事態だ・・。


それはもう成り行きに任せるしかないので気持ちを切り替えて釣りに行く。
株価と一緒に気温も下がり始めて住金一文字のフカセ釣りも辛くないだろうとNさんに声をかけてみた。AnotherNさんは来ることができるかどうかわからないけれども行きましょうかということでふたりでの釣行となった。
集合時刻は午前6時なのでそれまでにタチウオに行っておこうと午前4時40分に小船で出港。



もう、まったく速度が出ないので港内だけで仕掛けを流す。2週間の間に夜明けはどんどん遅くなり、それに曇りも加わり空が全然明るくなってこない。
最初のアタリがあったのは午前5時20分ごろ。午前5時半には釣りを終えて港に戻らなければ間に合わないのでこれからという時に泣く泣く仕掛けを回収。まあ、これは本命ではない。エンジンの性能維持だけでいい。



係留用のロープを取りまわすのは僕の役目。失敗すると海の中に落ちてしまうので緊張の一瞬だ。それでもなんとか前後からロープを取ることができて仕掛けの準備。



午前6時半ごろから釣りを開始。風もなく日差しもなく絶好の釣り日和だ。しかし、流れもない。撒きエサも仕掛けもまっすぐ下に降りていく。若干当て潮気味でもあったのであれまあと思ったけれどもそれは杞憂だった。早速アタリが出る。手のひらくらいのグレが上がってきた。幸先がよい。
エサ取りのフグも少なくコンスタントにアタリがあり、特に潮が右に流れてくるといい感じだ。
このポジションばかりで釣りを続けているのでなんとなくこの場所の特性がわかってきた。防波堤だからどこに座っても一緒だろうと思うのだがここは継ぎ目にズレがあり、ほぼその角に釣り座を取っているのだが、そのズレが影響しているのか、釣り座の少し右を境に潮の流れ方が変わるようだ。竿半分ほど右に仕掛けを投入してそこからさらに右に流れてくれるというシチュエーションになるのが一番いい感じである。



沖からの波が強くて跳ね返ってくる潮が沸き上がるという状態は悪い。それに加えて左に流れるともっと悪い。Nさんに聞くと、このスリットの内側は外側に比べて10メートルほど高くなっているらしく、そういった状態ができやすいようだ。
ようは刺しエサと撒きエサがうまく同調しなくなるのである。もっとテクニックがあればこんな状態でも仕掛けを沸き上がりの下に持って行ってなどということができるのだろうがそれは無理だ。こんなことを考えていると、もっと複雑なファクターが存在する磯の上ではエサを同調させるというのは至難の業だ。釣果が上がらないというのは納得できる。
そういう意味ではこの場所は条件を簡素化した実験室のようなところなのである。上から俯瞰できるというのは試験管の中を覗いているようなものだ。

小さなグレやアイゴを放流しながら午前11時頃には撒きエサが無くなり、最後までと思いシャクでバッカンの中の撒きエサを集めていると、気がつけばウキが沈んでいる。合わせを入れるとかなり大きい。リールのブレーキを緩めて耐えるがあえなくハリス切れしてしまった。
もう終わりだからと点検を怠っていたのが悪かったか・・・。残念・・。
そしてこういうことが忘れ物となってすぐにでも次の釣行を考えねばということになってしまうのである。

Nさんも同じ頃にフカセ釣りを終了しカワハギ釣りをするという。僕は一度試してみたかったタコ釣りを始める。防波堤の壁にタコが着いていないかと思ったけれども釣り方が悪いのかタコはいないのかアタリはない。
対してNさんのカワハギは好調のようだ。大きなカワハギを10分ほどのあいだに4匹釣り上げる場面もあった。これだけ大きいカワハギが釣れてしまうと加太へ行ってカワハギを釣るということに矛盾というか疑問というか価値観の変化というか色々なものが沸き上がってくる。これで真鯛とハマチが釣れてしまえばそれが決定的になってしまう。



人は来ないので釣り場を独占できるし、絶対ボウズがない。これで足場の幅が60cmではなくもっと安全でウミネコの糞がなければ真のパラダイスなのだが・・。

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「おなかがすいたハラペコだ。④月夜にはねるフライパン」読了

2024年09月21日 | 2024読書
椎名誠 「おなかがすいたハラペコだ。④月夜にはねるフライパン」読了

椎名誠のシリーズもののエッセイはシリーズ全部読んでいなくてもその中の一冊は大概読んでいると思ったが、このシリーズは全然読んでいなかった。これはその最新版だ。
この本のよると、2021年9月現在で295冊の本を出版しているそうだ。これだけたくさんの本を執筆しているというのはすごい。こんなにたくさんの本が出版されているとしたら、椎名誠の本はかなり読んできたがそれでも五分の一も読んでいないかもしれない。

なんだか意味の分からない本ばかり読んでいたのでちょっと箸休めのつもりで借りてみたのがこの本だ。テーマは「食」にまつわるあれこれというようなものになっている。「食」といっても範囲はもっと狭くて椎名誠が日常の食生活のあれこれを書いている。

驚いたのはこのエッセイが連載されているのが、「女性のひろば」という日本共産党中央委員会が発行している雑誌だということだ。共産党でこのエッセイか~。という内容だ。どう考えても昭和軽薄体と共産主義は合わない気がする。合わないのを承知で共産主義のイメージアップに使っているというところなのだろうか・・。
残念だったのは挿絵が沢野ひとしではなかったことだ。椎名誠のエッセイにはやっぱり沢野ひとしがよく似合う。

椎名誠の食生活にはやたらとソーメンとごはんが出てくる。たしかにソーメンとごはんは美味しい。その前にお酒のほうが美味しいのと太るのが怖いのでごはんを食べる機会は減ったがそれでもごはんは美味しい。ソーメンも夏の暑い日のお昼にはこれしかないと思える。我が家はやたらと焼きそばが出てくるが・・。

9月に入ってお米が不足しているというニュースが駆けめぐり、和歌山でもそのとおりでスーパーマーケットの棚から米が消えていた。



マスクといいトイレットペーパーといい、日本人は不足しているというとそれに拍車をかけて買い占めをする民族のようだが、我が家でもやはりお米飢饉がおこりそうになったようだ。そんなとき、奥さんの妹が義父の山形の実家に緊急連絡をしたら即30キロのお米が送られてきた。あるところにはあるのである。



これには助かったのだが、もっといいことに、この山形のお米がすこぶる美味しい。毎年新米の季節にはおすそ分けをもらうので美味しいのは証明済みなのでいまさら驚くものでもないのだが、我が家は飢饉を飛び越えて贅沢な食卓にワープしてしまったのである。
こんなことならしょっちゅうコメ不足が発生してそのつど送ってもらったら我が家は天国になるのじゃないかとエッセイの感想とはまったく関係なく不遜なことを考えてしまったのである。

朝日新聞の土曜日の別誌に月1回、昭和軽薄体のもう一方の雄である東海林さだおのエッセイが連載されている。最近はどうもこういう文章が煩わしくなってきた。これも歳のせいなのかな~と思ったりする。
だからこのシリーズも遡って読む気にはならない。椎名誠はもっとしっとりとした文章も書くのだからそういう作品を世に出してほしいと思う。

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「第1感~「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」読了

2024年09月20日 | 2024読書
マルコム・グラッドウェル /著 沢田 博、阿部 尚美/訳 「第1感~「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」読了

人は最初の一瞬で何かを見抜く力があるという。この本を日本語訳するときに、その直感を、「第1感」と訳された。英語のタイトルは、「blink」。そのまま訳すと「ひらめき」となる。
僕も時々そういう直感のようなものがあると思う時がある。イカやチヌを釣っているとき、ウキや竿の先にアタリがなくても意識せずに合わせを入れるとちゃんと獲物が掛かっている。あとから考えてもどうしてそこで合わせを入れたのかがわからなくて、無意識に合わせを入れているのか、その瞬間のことの記憶もない。
なぜだかはわからないが、人にはそういう能力が備わっているというのがこの本の趣旨である。

一般的に、勘が鋭いというところで出てくるのは「第六感」という言葉であるが、訳者の説明では、それは身体的な(したがって理屈で理解可能)な五感の優越を前提として、理屈を超えた六つ目の感覚を想定している。それに対して、「第1感」というのは五感に優越するものであるということだ。すでに六が漢字で1が数字だというところからミステリーだ・・。

この本は、いくつかの具体例を上げ、「第1感」の存在を証明しようとしている。なぜそのような能力が人間に存在しているのか。それは、厳しい生存競争を勝ち抜くため、わずかな情報で素早く適切な判断を下す能力が必要であったのだという。こちらをめがけて突っ込んでくるトラックを前にして、あらゆる行動の選択肢を考えていては間違いなく死ぬのである。
しかし、何に対しても「第1感」が働くのかといえばそうではない。何かに対して専門的な訓練を積み、洞察力を高めた末に得られるのが「第1感」なのである。それじゃあ「第六感」と変わらないのじゃないかと思うのだが、まあそれはそれとして置いておくことにする。
そんな第1感も、正しい選択をしてないときがある。それを妨げるのは先入観であったり緊張状態だったりする。
例えば、男尊女卑の先入観がそうだ。緊張状態では、心拍数が175を超えると人間に認知プロセスは完全におかしくなる。F1レーサーのレース中の心拍数は140から190だそうだが、そんな中でおそらく第1感を働かせているというのだからすごい。
結局、何の努力もなく第1感は存在しないということなのである・・。

その「第1感」は体験したうちのごく薄い輪切りの部分だけで全体を把握しているのだという。そして、その感覚は「無意識の扉の奥」にあるという。ガンダムの世界には勘のいい人としてニュータイプという人たちが出てくるが、人類が宇宙に進出した後、重力の低い状態ではポンプとしての心臓の負担はかなり軽減され、極度の緊張状態でも心拍数が抑えられるかもしれない。そんな状態では、人間の第1感はさらに研ぎ澄まされるだろう。そんな状態で数世代を経れば本当にニュータイプが生まれるのかもしれない。

今の僕はいろいろなものに対して第1感はいらない。ただひとつ、明日の株価が上がるのか下がるのか、それだけを見抜ける第1感だけがほしいと思っているのである・・。
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