イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「深海生物テヅルモヅルの謎を追え!: 系統分類から進化を探る ( フィールドの生物学 20 )」読了

2022年11月11日 | 2022読書
岡西政典 「深海生物テヅルモヅルの謎を追え!: 系統分類から進化を探る ( フィールドの生物学 20 )」読了

この本は以前に読んだ「裏山の奇人: 野にたゆたう博物学」と同じシリーズの本だ。「フィールドの生物学」という副題がついているとおり、フィールドワークを中心に生物学の研究をしている科学者が書いたエッセイであるが、自身の学問についての業績を述べているだけではなく、それを志した動機や一人前の科学者となるまでのドタバタのようなものまで様々なことが盛り込まれている。

この本を書いた著者はツルクモヒトデの系統分類を研究テーマにしている科学者だ。クモヒトデというのは大きくは二つの系統があって、ひとつはふつうのクモヒトデ、もうひとつは主に深海に棲んでいるツルクモヒトデという綱だ。ちなみに、生物の分類は界、門、綱、目、科、属、種という具合に細かく分かれてゆく。
その、ツルクモヒトデの綱の中にテヅルモヅルという科が含まれている。前に読んだ、「深海学」の中に、この生物の名前が出てきて、なんともインパクトのある名前だと思いいろいろ調べているうちにこの本を見つけた。著者自身もテヅルモヅルだけの研究をしているだけではないが、この名前にインパクトがあるというのでタイトルとして取り上げたということらしい。(まあ、これは編集者の仕業だろう・・・)

そしてそのテズルモズルだが、こんな形をしている。



普通のクモヒトデだと腕が5本だが、テズルモズルはその先が無数といっていいほど枝分かれしている。なんともグロテスクな形だ。どう見ても動物に見えない。わりと浅い場所にも棲んでいるらしいが僕は見たことがない。そこにいたとしても海藻か何かと間違って見つけることはできないだろうとは思う。
このような生物を研究している科学者は非常に少なく、分類はおろか生態についてもほとんどわかっていないらしい。著者の業績は従来考えられていた分類が、DNAの解析などによって従来の分類が生物学的にはかなり違っていたということを発見したといことだ。



しかし、まあ、こう言ってはなんだが、この生物がどんな分類になろうが世間になにか大きな変化がおこるわけではなく、誰も困らないし関係ないというのは間違いがないことだ。
だから、「仕事をする」ということが世の中のためになることをするものであるというのであればこの分類のための仕事というのはまったく何の役にも立っていないと僕には思える。ひょっとしたら未来の食糧危機の時に有用な食材としてクローズアップされるのかもしれないが、これを食べるくらいなら僕は飢え死にしたいと思うほどあまり美味しそうではない。しかし、僕はどうしてもこのような人に嫉妬してしまう。
そういうことに全身全霊を傾け、そしてそれで生活できているのだ。僕がしている仕事、してきた仕事というのも今思えばまったく世の中のためになるような仕事ではなかったように思う。阪神淡路大震災のときも、コロナショックの間も、その仕事が消滅しても誰も困ることはなかったのだからそれはきっと世の中には必要とされていない仕事であったのだろう。そんなことを言い始めると、世の中の仕事のほとんどは世の中の役に立っていないと言えるのかもしれない。現職の法務大臣でさえ、自分の仕事は「死刑のハンコを押すときだけしかニュースにならない。」ほどくだらない仕事だと自ら述べているのだからそうなのだが、僕の仕事もどう見ても法務大臣以下だ。
そうなってくると、世の中のライフラインといわれる部分を担っている人たち以外の仕事はまったく世の中の役に立たない仕事ということになってしまうのだとは思うが、それを自分で思っていたとしてもそれを言ってしまっては身も蓋もないのだが、今の法務大臣はそれをやってしまったのだからこの人は僕よりもかなり「アホ」、もしくは「正直」であると言わざるを得ない。

しかし、著者はそういうことも少なからず思いながらも自分の使命をその中に見つけようと努力する。それはこんな文章に表れている。『自分が楽しいから研究をするのではなく、誰もやっていないからその分類学を志すのではなく、自分の研究する分類学が、社会にどう役に立つのか?そう聞かれたときに、何でもいいので無言にならないよう、何らかの答えを自分の中に持っておくことが、これからの分類学研究者には求められるのではないか・・』と考えているのだ。
また、自分が目指す学位については自虐的ではあるが『理学の博士号ほどつぶしが効かないものはない。これがあったからと言ってどこの就職に役立つわけではないし、誰が知る資格でもない。しかし、理学部の博士課程の学生はこの号の取得を目指す。なぜか。それは、その人たちが科学者たらんとするからである。自分の中に芽生えた疑問を、科学的な手法で解明せんと欲し、それを究明した、またはそれを究明するための知識と技術を有する証だからである。』とも語っている。まさに自分自身のアイデンティティを求める姿である。僕の所属していた業界もよくつぶしが効かないとは言われていて、転職など考えられることもなくただその会社にしがみついているしか術はなくアイデンティティもなにもないのとは大違いでもある。

ただ、キャリー・マリス博士が言うように、「単に面白いからやっているのだ。」ということも忘れてはいない。『そしてその系統樹が自分の仮説を証明していた瞬間。自分のみぞ知る事実が、今この手にある、という得も言われぬ充足感が胸の中に広がる。』という感覚は僕がおそらく普通の人なら捉えることはできないであろうコウイカのアタリを捉えているときと同じ感覚であろうと思えるのだ。

科学の始まりというのは『西洋では、少なくとも近代の初め頃まで、人々万物を神の創造物と信じた。そして、神に選ばれた人間は、その万物、特に自然物の研究を通じて神の御心を知らなければならない、という思いに従い、それらが人間に有用か無用かを問わず、この世に存在するすべてのものを徹底的に「研究」しようとした。』ことからだそうだ。言い換えれば、自分の知らないことを知りたいと思うのは人間の本能だといえるものなのかもしれない。その本能のままに自分の知的好奇心の触手を伸ばし続け、その欲求を満たし続けているのだからそれはもう、嫉妬するしかないのである。どうせ世間の役に立たない人間であるのなら自分の好きなことを興味のおもむくままに探求する生き方というのは最も人間的であると思うのだ。

科学の読み物だと思っていたが、これはきっと哲学的な読み物であったのだ。



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「旧約聖書の世界」読了

2022年11月05日 | 2022読書
谷口江里也/著 ギュスターヴ・ドレ/画 「旧約聖書の世界」読了

長い旅に持って行く本として師が挙げているのが旧約聖書とレストランのメニューだということがいくつかの本で書かれていた。信仰心がなくてもそれほど想像力をかきたてるのが聖書というのだろう。何冊か旧約聖書について書かれた本を読んだが、この本はかなり詳しく書かれている。
詳しく書かれているといっても、元の旧約聖書というのは、日本聖書教会発行の「聖書 新共同訳」で上下2段組で1502ページあるのだから、本編300ページで書かれ、その3分の1はギュスターヴ・ドレという画家が描いた版画が掲載されているので相当な意訳にはなっている。部分部分は聖書そのものの日本語訳が書かれ、その前後は物語のダイジェストという構成になっていてその場面を描いた版画がセットされるという構成だ。
版画が掲載されていたり、天の部分には金箔が貼られていたりと、聖書らしい重厚感がある。値段も重厚で、税込み4400円だ。



キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の原典になっているのがこの旧約聖書だけれども、もともとはユダヤ人が信じる神様のお話である。それがどうして世界中で信仰の対象になっているのかというは確かに不思議なことである。およそ宗教というのは世界中のどの場所でも発生していて信じられていたはずだがいつの間にかキリスト教やイスラム教に鞍替えされてしまっている。ヨーロッパの植民地であったところは無理やり改宗させられたということがあるのだろうが、そのヨーロッパの各国がユダヤ人の宗教を信じるようになったというのはなかなか謎だ。ローマにはたくさんの神様がいたし、北欧にも独特の神話が伝わってきたのでそれをずっと信じ続けてもよかったはずなのだが・・。

その謎を僕なりに考えてみようと思って、同時進行で古事記の現代語訳も読んでみていた。
旧約聖書は、唯一の神様であるヤウエイ(とこの本にはつづられている。)が生み出したアダムとイヴ、その10代目の子孫であるノア、さらに10代目の子孫であるアブラム(とこの本にはつづられている)の一族と神との関係が書かれた書物である。アブラムの子供のイサクの双子の子供ひとりであるヤコブがイスラエル人の元祖なのであるが、その一族が故郷であるカナンの地を離れエジプトに向かう。その子孫がモーセ(とこの本にはづつられている)であり、再びカナンの地を目指す。
この、ヤコブという人は、父親のイサクが老いてきたことにつけ込んで、父から一族の長とする祝福をだまし取ったり、家督を継ぐ兄からも財産をだまし取ったりする。
ユダヤ人というのは狡猾、用心深さ、忍耐強さがあり、これはある意味差別的な意味も込められているのだろうが、お金にも執着するというあまり良いイメージを持たれていないが、これも聖書の時代から植え付けられているイメージのようである。しかし、天使と一晩中戦っても負けなかったという不屈の精神も持っていて、その時に神様から「イスラエル」と名乗れと言われたというのだから今のイスラエル人の強さというのも聖書の時代から受け継がれているのであるから驚きだ。ここらあたりは創世記である。
そして彼らは飢饉が訪れた故郷を捨てエジプトに逃れたあと、モーセに率いられ再び神の宣託によってカナンの地に向かいイスラエル王国を建国するのだが、この辺りの物語は国土を得るための戦いの物語になる。確かに、こんなことは「イスラエル」な人々ではなかなかできない偉業ではあると思う。そういった物語は、出エジプト記、民数記、ヨシュア記という部分に当たる。サムソン王やダビデ王が登場する。その後、イスラエル王国は一番の隆盛を極める。ここは士師記、烈王記に当たる。ここではソロモン王が登場する。その後、この国は衰退をしてゆくのだが、それらはエレミア書、エゼキエル書、エズラ記、ヨブ記などにたくさんの預言者が登場し、国を腐敗させる様々なものを糾弾し排除しようと努力するが結局、イスラエルのユダヤ人たちはちりぢりバラバラになり世界をさまようようになる。その跡地に住み始めたのがパレスチナ人で、2千数百年後再びこの地でユダヤ人たちがイスラエルを建国したことがこの辺りの紛争の素になっているというはある意味、聖書の世界を引きづっていると言えるのだからすごいし因縁も深そうだ。
対して、日本の建国の物語は穏やかなものだ。
イザナギの命とイザナミの命が日本の島々を創って以来、大した戦いもなく、スサノオノミコトの末裔の大国主命が拡大した国土は、スサノオノの姉(無性生殖ではあるが両神ともイザナギの命から生まれた感じなので姉弟という関係といってもよいだろう)である天照大神の末裔のヒコホノニニギの命にあっさりと譲ってしまうのである。姉弟の相続争いといえばそうなのかもしれないが、何事もなくその子孫が代々の天皇となる。古事記には神武天皇が東に向かって進軍した戦いの記録があるだけで代々の天皇は平和的に正しい政治をおこなってこの国を治めたことになっている。
異教徒は殲滅せよという旧約聖書の世界とは対極にあるように思えるのだ。

地政学ではないが、やはり島国と大陸にあって陸続きで国境を持っていた国の違いなのだろうが、常に戦っていないと自分の国が無くなってしまう中ではたとえそれに疲れたとしても戦わねばならず、心を奮い立たせるためにはそれは人を超えたものから与えられた運命なのだと思うしかなかったのだろうと思うしかなくて、旧約聖書というのはそれにぴったりな物語であったということであったのだろうと思うのだ。しかし、結局、それも実際のところは人間が創り出したものなのだから、なんだか戦うことへの言い訳の無限のループの思想のようにむなしくも思えてくるのである。

ヨーロッパも地続きの国がせめぎ合う世界だから、自分たちが戦う正当性と意味を信じ込むにはちょうどよかったのかもしれない。ギリシャや北欧にはたくさんの神話や宗教が伝わっていたのだろうが、アニミズムや楽天的な神様たちの物語では心を奮い立たせることはできなかったのだろうと思う。

それに加えて、この書物が文字で書かれていたということも大きかったのではないだろうか。旧約聖書が生まれた場所というのは世界で初めて文字が生まれた地域だそうだ。モーセが授けられた十戒も石板に文字で刻まれていたくらいだ。それを見た人たちは、きっと、これはただものではないと中身はともかく、文字の羅列を見ただけで畏れ入ってしまったのではないかとも思うのである。だから、どこに行ってもあっさり信じられてしまったのかもしれないと思ったのだ。

この感想文とはまったく関係がないが、文字が生まれたのはたかだか5000年ほど前のことで、ホモサピエンスが生まれた20万年と比べるとほんのわずかな時間しか経っていない。だから、人間の脳は進化の部分では文字を認識する機能を持っていないらしい。それではどこで文字を認識しているかというと、人の顔を認識しているような領域を使っているらしいのである。人の顔というのは大体左右対称なので、実は左右対称ではない文字を認識するは苦手で、それを無理やりなんとか使っているというのが現状なのだそうだ。だから、鏡文字というような誤った書き方をしてしまうことがあるというのである。大体は大きくなるとそういうことがなくなってくるのだそうだが、僕は時々そういったことを今でもしてしまう。
思い当たるのが、人の顔を覚えるのがものすごく苦手だということだ。だから、文字も覚えるのが苦手で偏と旁を逆に書いてしまったりということになってしまう。どうも僕の脳は子供の頃から発達をやめてしまったようなのだということを知ってしまったのだ。ここでも僕の脳ミソは人並みではないということを思い知ってしまった。

それはさておき、2700年前に生まれた聖書の世界を引きずってイスラエルは戦っているのだと思うと、そんなに簡単にはあの地域に平和がもたらされるということはなく、そのほかの地域でも似たりよったりの思想を持った人たちが戦いを続けているのだから、世界に平和がもたらされるということはなく、むしろ、戦いが行われている世界、そうとまでは言わないが、隣国とは分かり合えることができずに対峙した状態というのが正常な世界の在り方であるのではないかと神聖なものを読みながらも思ってしまったのである。




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「佐藤優の地政学入門 (働く君に伝えたい「本物の教養」)」読了

2022年11月02日 | 2022読書
佐藤優/監修 「佐藤優の地政学入門 (働く君に伝えたい「本物の教養」)」読了

地政学の本をもう一冊読んでみた。というか、この本を最初に読もうと思っていたのだがけっこう予約が多くてやっと順番が回ってきた。

最も知りたかった、紛争や領土問題が起こっているそれぞれの場所で、なぜその問題が起こっているのかということが地域ごとに説明されているのがいいのだ。
ただ、イラスト付きで見開き2ページで説明されているのであまりにも簡単すぎる。まあ、僕でも知っている内容が大半だったのだが、改めてああ、そうだったのかと知らされるものあった。
佐藤優というと、一時、世間を騒がせたひとではあるが、実力のある人はそんな逆境にもめげず何冊もベストセラーを出すというのはすごい。世間の人は何をどの程度知りたがっているのかといことをよく知っているようだ。きっとマーケティングの能力にも優れているのだろう。名は体を表すか・・。

地政学という言葉は、ナチスドイツが他国への侵略の正当性を担保するための論理であったというのは前のブログに書いたが、これはルドルフ・チェーレンの「国家有機体説」という考えが元になっているそうだ。『生命である国家は、生命の維持に必要な(エネルギー資源)を獲得しなければならない。』だから、『国家が、その国力に応じた資源を得るため領土(生存圏)を獲得しようとするのは当然の権利である』という考えとして発展させたのがドイツの元軍人であったカール・ハウスホーファーであったのであるが、まあ、なんとも身勝手な考え方だ。この人の教え子であったのが、後にナチスの副総裁であったルドルフ・ヘスでヒトラーとつながってゆく。
現代の地政学はこういった考え方とはまったく異なる論理で構築されているようである。

新しい時代の地政学は、イギリスの地理学者、ハルフォード・マッキンダーによって拓かれた。世界中の国家をランドパワー国家とシーパワー国家という区分に分けることから始まる。アメリカの軍人、アルフレッド・マハンが提唱する、「世界島」という考えがあって、これは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸を合わせた地域を指し、その地域を、「ハートランド」と「沿岸地域」にわけて世界を考えるのだが、それをさらに発展させたのが「ランドパワー国家とシーパワー国家」というものだった。地政学とは、軍人と地理学者が共同で作り上げたもののようで、やはり、政治学や経済学との関連というよりもほぼ安全保障に関係する学問である。
マッキンダーの考えはその意味のとおり、ランドパワー国家は内陸のハートランドに位置する国家、シーパワー国家は海岸線を持つ国家である。ランドパワー国家は陸続きで他国と接しているため、侵略したりされたりという歴史を持つので国土を守るための強力な陸軍を持つ必要に迫られる。一方、シーパワー国家にはそういった歴史が少なく、土地の支配よりも交易によって得た利益を守ろうという傾向が強いという傾向がある。そして、両国家群は、宿命的に対立する性質があり、両社は実際に歴史的に戦争や紛争を繰り返してきた。
そして、その争いの舞台になったのがリムランド(周辺地帯)と言われる地域だ。温暖湿潤で人口と産業を支える国が集中しているので、『リムランドを制するものがユーラシアを制し、ユーラシアを制する者が世界を制する。』と言われているそうだ。そして、そのための重要なキーが「マージナルシー」という沿海地域である。南シナ海、東シナ海、日本海、オホーツク海、ベーリング海である。なるほど、確かにきな臭い海域であるのは確かだ。だから世界はこの地域でしのぎを削りあっているのである。

この本を読んでいると、現在の世界各地の混迷の元凶というのはきっとイギリスとアメリカなのじゃないかと思えてくる。
アメリカについては、オバマ大統領が、「アメリカは世界の警察官」ではないという宣言をしてしまって中東から手を引いたことがテロ組織のチャンスとなってISやタリバンが勢力を拡大し、2014年のロシアのクリミア併合もアメリカの弱腰が原因だと言われているそうだ。まあ、これはほかの国におせっかいを焼いている場合ではないという国内事情もあるのだろうから外野が文句をいうというのも筋違いと言われればそうなのだが、イギリスはもっとひどい。インドとパキスタン、イスラエルとパレスチナなど、現在も係争が続いているのは無責任な植民地政策とその失敗が今も尾を引いているというしかない。
そこで不思議に思うのだが、日本で暮らしているかぎり、イギリスがこういった過去の蛮行に対して非難を浴びているなどという話を聞いたことがない。むしろ、女王が亡くなったといって世界中が哀悼の意を示すし、そもそも、旧の植民地の一部は今でもイギリス連邦の一員として英国王室を崇拝しているのである。
それに対して、日本はどうだろう。中国と韓国だけかもしれないが、戦時中の様々な行為に対していまだに様々な非難を浴びている。
この違いは一体何なのだろうかとこの本を読みながら考えたのだが、これはきっと戦争に勝ったか負けたか、たったそれだけのことではないのだろうかと思い至った。勝ったイギリスは過去にどんなひどいことをしていていても誰も文句は言われない。日本は経済でどれだけ勝ち組になってもやはり戦いでは負けたのだから永遠に“悪”というレッテルを貼られたままになるのだろう。軍隊を持っていないというのも他国からなめられる原因でもあるのだろうが、これも戦争に負けたから軍隊を持てないのだと言えないこともない。

じゃあ、お前は徴兵に喜んで応じるほど愛国心があるのかと言われればそんなかけらもないのであるが、そういうことは別にしてやっぱりちょっと悔しい。

米ソの冷戦というのは遠い昔で、現在はロシアの横暴と中国の傍若無人ぶりというのが世界中の注目になっている。ロシアは脅威だといいながら、経済規模ではアメリカの10分の1もないくらいらしく、結局は核さえ封じ込めることができれば敵ではないようだ。中国は7割程度しかないとはいっても、この30年間ほどでここまでのし上がってきたというのはものすごいことだし、共産主義国はそのリソースを集中しようと思うところにいくらでも集中できるという強みがあるということを考えると、そんなに遠くない時期に世界の覇権を握るのはきっと中国なのだろうなとこういった本を読まなくてもなんとなく想像できてしまう。
「リムランドを制するものが・・・」という考え方の前には、『ハートランドを制するものが世界を制する。』という考え方が主流で、ナチスが利用した地政学が否定されたのちの新しい地政学の最初の主張であったのだが、そのハートランドの一部はまさに中国そのものだ。
様々な地政学の考えが生まれては時勢に合わせて新しい地政学に取り替わっていくのだろうが、結局、一番はじめの考えに収束していくようである。(僕の根拠のない考えなのではあるが・・)
しかし、がん細胞もそうであるが、急激に増殖するものというのはなにかと厄介で問題を引き起こす。世界情勢など僕の生活には全く無関係のはずなのだが、小さな、しかし意外と大きな部分で僕を悩ませている。
それはウイスキー問題だ。ジャパニーズウイスキーというのは最近人気があるらしく、なかなか手に入りにくくなってしまった。僕は「竹鶴」というウイスキーをちびりちびりと飲むのを楽しみにしているのだが、最近はプレミアムがついてしまって定価の倍くらいの値段で取引をされているらしい。これはもう、僕には手が届かないところまで行ってしまったということだ。
いつもとんかつソースを買う問屋さんにこのウイスキーが置いてあるのを見たので、問屋さんなら定価で売ってくれるのかもしれないと思い、聞いてみると、これはプレミアムがついているので売ることはできないというつれない返事が返ってきた。これで僕は一生竹鶴を飲むことができなくなってしまった・・。



これが最後の竹鶴だ・・。

「マッサン」の影響もあるのだろうが、これはきっと中国人がこういうものを日本で買いあさっているからに違いないのだ。
よい言葉遣いではないのだろうが、成金はお金に任せてなんでも自分のものにしようとする。負け犬の遠吠えでしかないのであるが、品のない奴はできるだけ早く退場してくれと強く言いたいのである。
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「新しい国境 新しい地政学」読了

2022年10月26日 | 2022読書
クラウス・ドッズ/著 町田敦夫/訳 「新しい国境 新しい地政学」読了

ロシアのウクライナ侵攻以来、「地政学」という言葉がクローズアップされている。もともと、ナチスドイツが侵略行為を正当化するために使われた考え方というのであまり表立って使われる言葉ではなかったそうだが、定義としては、「地理的な条件に注目して、軍事や外交といった国家戦略、また国同士の関係などを分析、考察する学問」ということらしい。
その中で一番の関心事というのは国境である。その線がどこに引かれるかというのは自国の国益にとっては重要な問題となる。特にどの国も経済的な余裕がなくナショナリズム的な動きをしている今の時代には国が生き残っていけるのかという問題なのである。ロシアの行為や中国のなりふり構わない行動というのはまさに彼らが地政学の解釈を勝手にねじ曲げ、それを笠に着て行動しているようにも見える。この本に書いている通り、過去からの歴史的、政治的背景によって揺れ動いてきた国境線を自分の都合のいいように解釈しているのだ。

僕が知りたかったのは、どんな理由でロシアや中国は自国の行為を正当化しているのか。また、世界の各地で起こっている国境問題、例えばイスラエルとパレスチナ、38度線、南沙諸島、この国では竹島、尖閣諸島そういう問題が歴史の中でどうしてそういったもめ事になったのかということだったのだが、読み始める前から、この本は多分僕が求めているものとは少し違うのではないかとは思っていたけれども、まずは何か取っ掛かりが欲しいと思っていたので出版年度が新しいこの本を選んでみた。

そもそもだが、この、国境に関する問題、紛争はいたるところに存在しているようで、全部取り上げるととてもじゃないが1冊の本に収まるようなものではなさそうだ。一見平和そうに見える国どうしでも何らかの問題を持っていて、逆にきちんと国境を決めて平和に管理されている場所のほうが少ないのが現実だ。お隣があると必ずもめ事が起こるというのは個人の家も国家も同じようなのである。
先に書いた、国際的にも有名になっている紛争に加えて、インドにはバングラデシュ、パキスタン、中国とのいざこざ、南米ではベネズエラとガイアナ、アルゼンチンとウルグアイ、トルコと北キプロス、北欧のスヴァールバル諸島に燻る各国の思惑などなどいくらでもある。そんなことは全く知らなかった。
この本ではそういった個別の具体的な問題の解説ではなく、数々の問題が起こる要因、そして将来的に国境というものはどう変化してゆくのかということが書かれていた。

もともと国境とはどんなところに引かれていたか、陸続きの場所では大体が川のど真ん中であったり山の稜線であったりというあまり人が近づけないような場所である。この本ではノーマンズランドというような表現で書かれているが、そんな場所を舞台にして様々な国はその国境を守るために多大な努力をしているのが現実だ。海の国境も同じである。排他的経済水域に他国の軍艦や巡視船が入ってきたというのは常にニュースになる、人間でいうと国境は皮膚のようなものなのだろうから、そこに対して難民であれ軍人であれ侵入してくるというのは大きな拒絶反応を起こすのだろう。自分の国にもある日突然北朝鮮の兵士や中国の軍人が上陸してきたとしたら恐怖しか覚えない。

地球温暖化によってその国境の姿も変わろうとしている。氷河に覆われた国境は氷河が後退して通行が容易になったりすることがある。また川の流れが変化することで地図に書かれたそれとは異なってゆくようなこともある。そういうことも紛争の火種になる。
温暖化による海面上昇で国自体が無くなってしまう恐れがある国もある。こういう国は、もとあった領域の資源開発の権利と引き換えにほかの国の土地を間借りして政府を継続させるしか手立てがなくなるのかもしれないという。
紛争の火種になる原因は資源問題だ。山領が国境になっている所では水資源、川や海の境界では地下資源や食料資源である漁獲の争奪がおこる。

国境を決めるには「画定」と「確定」が必要なのであるが、それを一致させることは難しい。「画定」とは実際の地面が境界柱や草を刈り取られたような形で刻まれていること、「確定」とは法的に決められた境界であるが、すべての国境が画定されているわけではないので、確定された境界が実際にはどこであるかというのが紛争の素になるのである。
法的に認められていないというと、すべての国家から承認されていない国というのもある。パレスチナしかり、アブハジア、クルディスタン、北キプロスなどというあまり聞いたことのない国々がある。大体が西側諸国が承認せず、東側(ロシアを含めて)が承認しているというパターンが多い。
台湾は逆のようであるが、どちらにしても、承認する側には国境はあるけれども承認しない側にとっては不法占拠された地域ということになる。
しかし、未承認の国には未承認の国で独自のサッカー連盟があるというのには何となく微笑ましいものがある。国境の承認や確定なんて人が生きるという意味では大したものではないのだよと言っているような気がする。

また、南極や公海のように、国境を持たない場所がある。国際条約で取り決められ、どの国にも属さず、資源開発もされない場所だ。これは宇宙もそうである。宇宙の開発に関する条約というのは、『月その他の天体を含む宇宙空間の探査および利用における国家活動を律する原則に関する条約』という長い名前がついているそうだ。
こういった場所は資源の宝庫である。もちろん勝手に開発できるものではないので今は手付かずのままだが、他の場所の資源を掘りつくしたときや食料資源が限界にきたとき、こういった場所はどんな扱いをうけるのだろうか。こういった問題が国境の未来になるのだが、ある時、突然どこかの国が自分にとって都合がよい地政学の解釈をふりかざして囲い込みを始めるかもしれない。そういったことを防いで人類すべての共有財産とすることは並大抵の努力ではできうるものではないだろうし、おそらくは特定の大国がそれを独占しようとするのが歴史だろうと思ったりもする。

宇宙はどうだろうか。月や火星は具体的に人が住むかもしれない惑星だが、そこにも国境が生まれるのだろうか。
「機動戦士ガンダム」の世界ではスペースコロニーを拠点として人類が宇宙で生活をしているが、そこには国という概念があるのだろうか。ジオン公国というのは一応の独立国のようだが、その国が崩壊したあとの世界では、民間企業が軍隊を組織し、地球の支配に宇宙で育った人々が立ち向かうという物語が描かれる。
この本にも書かれているが、国境のボーダーレスという世界がこの世界に近いのだと思う。個人はデータ管理によってどこにいても国籍のある国の国民でいられるというものだが、国家に属するよりも、生きる上で最も重要な経済的な面で考えると経済的なよりどころとなる業に属することがアイデンティティになるという時代が宇宙時代なのかもしれない。住む場所であるスペースコロニー自体がそもそも工業製品であり、太陽系といえどもあまりにも広いから小惑星を資源として勝手に持ってきたり開発したりしても誰にも分らないだろうからだれも文句を言おうにも言えない。だからそれを開発する企業がやっぱり国家の代わりになってしまうのは必定になってくるような気がする。その企業に就職することが国籍を得ることであり、転職するということは外国に移住することになるのかもしれない。しかし、そうなると、社員は国の代わりになっている会社にがむしゃらに奉仕し、社長の言うことは絶対だという、なんだか独裁国家のような体制になってしまうような気がする。今でも会社というところは独裁国家みたいなところだからそれが宇宙に拡散されてしまうというのは困りものだ。
会社が嫌いな僕にとってはなんとも生きづらい世界なのかもしれない。もっとも、そんな時代まで生きることがないのでそんな心配は取り越し苦労なのであるが・・。

この本の面白いところは、こういった将来起こるかもしれない国境問題は映画を観てみるとよくわかると言っているということだ。「ランボー」や「007」「ターミナル」という映画を引き合いに出し、国境問題を解説している。ただ、平和な島国に生まれた僕にとっては地政学も国境もあまりピンとくるものがない。373ページを読み切るのに2週間もかかってしまった。
これはきっとこの国が意外と平和であるという証拠なのかもしれないのである。

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「歴史が教えるマネーの理論」読了

2022年10月13日 | 2022読書
飯田泰之 「歴史が教えるマネーの理論」読了

もうちょっと楽に読める本かと思ったがかなり硬派な本であった。というか、一応僕も経済学部卒業ということになっているのだが、こんなにも経済学についての知識がないものかと愕然としてしまった。

コロナ、戦争で物の値段が上がり、燃料の価格もどんどん上がり、政府はいっぱいいろいろなところで補助金を乱発しているがこの国は大丈夫なのか、円もどんどん安くなり世界の中で日本はいったい生き残れるのだろうか・・。そんなことよりも僕の生活はこれから先大丈夫なのか・・。そんなことを思いながら何か読み物はないかとこの本を探した。
経済学とは特にマクロ経済の部分においては「経験の科学」と言われるそうだ。経済学におけるデータは過去のデータであり、言い換えればそのデータには再現性がないということを意味する。科学というものは再現性があることでその現象なり理論が科学的であるということが証明されるのであるから、「学」という名前がついていながら残念ながら経済学には再現性がないのである。
昨日の新聞では、リーマンショックのとき、エリザベス女王は、「なぜ誰もこの事態を予測できなかったのですか?」と自国の経済学者たちに問いかけたといい、今日の夕刊には、2012年のアベノミクスによる金融緩和策を始めたとき、黒田総裁は、「2年程度で物価安定目標(2%程度)を達成できる。おそらくどのような経済モデルで計算しても、物価だけ上がって賃金が上がらないということにはならない。」と言っていたと書いていた。
まったくどんな経済モデルを使って計算していたのかと思うが、それほど再現性もなく過去のデータも当てにならないのが経済学であるということだ。

逆にいうと、様々な経済法則通りにことが運べば世の中に不況はなくなる。少なくとも為政者たちがまともであれば。もちろん、国際社会では国と国が自国を豊かにしようと競うわけだからうまくいかないこともある。しかし、それも国際協調の時代でもあるのだから共存共栄という方策もあるはずだ。
それがうまくいかないのは人々の「気分」がそこに関わっているというのである。
そういったことを世界の歴史、日本の歴史の中で行われた金融政策、財政政策の内容と結果を例に挙げて分析しようというのがこの本だ。

中心になるのは、「貨幣数量説」「購買力平価説」であるが、これは経済学という学問上では相当古典的な考え方だが、大まかには国際収支や物価の変動の仕組みがわかるそうだ。経済学部を卒業しているにもかかわらずその内容はほとんどわからないのだが、物価変動についてはお金の回転数(収入のうちどれだけ消費に回すか)と将来の期待値(これからさき、お金に困らないかどうか)、市場にどれだけお金が流通しているかという3つのことで決まるそうだが、それを、「貨幣数量説」をもとに説明がされている。
市場に流通するお金が増えればお金の価値が下がって物の値段が高くなるというのはよくわかるし、お金の回転数についても同じ考え方であるということもよくわかる。「貨幣数量説」で説明できるのはここまでの話だ。
そこに加わる、「将来の期待値」というのは、今、お金を残しておかないと将来困ったことになるのではないかというような考え方だ。そう思うと人はお金を使わなくなる。そうするとお金の回転数が下がり物価も下がる。デフレになるということだ。
それはある意味まったくの「気分」である。日本では経済の6割を個人消費が占めているという。そこの部分が「気分」で動いているといのだから理論通りにことを運ぶのは難しい。
基本的にはインフレ気味のほうが個人所得も増えるはずなので経済成長しやすい。しかし、日銀の金融政策は史上空前の緩和政策で市場へのお金の流通量を増やしてインフレ基調になるのを目指しているが、もう何年もそれが実現していない。そこには「気分」が入っているからだ。
非正規雇用者が増え、収入も上がらなさそうだと世間全体が予想するとそこそこ豊かなひとでも支出を控えておこうと考えるのは無理からぬことだ。
黒田総裁はそういうことがわかっているのだろうか。日銀の総裁なのだから経済学のすべてを理解しているはずなのだろうが、それは貨幣数量説までで、ひょっとして庶民の「気分」についてはまったく理解をしていなかったのではないだろうか。
この先、昇給も見込めず、一応、借金がない生活をしているので、インフレよりデフレのほうがありがたいという年金生活をしているという人たちとまったく変わらない家計生活をしている身のうえからすると、無理してインフレにしてもらわなくても全然かまわないと思っているので黒田総裁の政策にはまったく共感を覚えないのである。

為替相場についてはどうだろうか。この本では、固定相場の時代の中で、為替相場をどう設定するかということと、兌換制度の中で貨幣の質を落とすと(改鋳する)と自国での経済はどうなるのかということをもとに説明しているが、やっぱり経済学部を卒業しているにも関わらずほとんどわからないのである。まあ、僕の記憶の中で、大学の授業で改鋳についての講義を聞いたという経験はなかったのでも無理からぬことではあるのであるとここでもとりあえずは弁解をしておく。
為替相場については「購買力平価説」をもとに説明がされている。これは、二国間の為替レートというのは一物一価の原則で、それぞれの国の通貨でひとつの物がどの値段で買えるかというところに自動的に落ち着くというものだ。
しかし、現実はかなり不安定である。何が原因となっているのかというと、ここでも将来においてそれぞれの国において流通するお金の量に対する期待と予測が不安定だからであるそうだ。金融引き締め策で金利が上がりお金の流通量が減ると予測するとその国のお金の価値は上がるが、「今」を基準に考えるとその価値は購買力平価説には沿っていない。
しかし、金利を上げてしまうとその国ではデフレという不況を呼び込むことになる。
今日、円は1ドル146円を超える円安になってしまった。アメリカは原材料費や賃金の高騰で引き起こされたインフレを抑制するために金利を上げているからなのであるが、それでも今のところデフレ方向には振れていないらしい。かたや日本は円の価値が下がってインフレになるはずだが実はアメリカほどまだまだ物価が上がっていない。それでも、所得が伸びない中では1万近い品目がわずかずつでも値上がりされると生活は苦しくなる。
なぜこんな矛盾が起こるのかというと、よいインフレというのは、経済規模の拡大と同等の物価の上昇と所得の上昇であれば人々の生活は豊かになったといえるのであるが、経済規模が拡大しないのに物価だけが上がっているからなのである。経済規模が拡大していないから所得が上がらず物価だけが上がっているのだからそれは生活が苦しくなるのはあたり前だ。
これは幕末の頃にオールコックという英国外交官の提案によっておこなわれた万延小判の発行による大幅なインフレによる生活水準の低下とよく似ているらしい。
万延小判はそれまでの天保小判の3分の1しか金の含有量がなく、要はお金の流通量が一気に3倍になってしまったということなのだが、江戸時代は大規模な工業化社会ではなく経済規模が拡大する余地がなくインフレによる需要拡大→失業の減少→景気の改善ではなく、需要だけが膨らんでしまったというものである。
今の日本も、金融緩和でお金の量だけが増えても経済規模はまったく拡大していなくて物価だけが上がっているので僕の生活はますます苦しくなっているというのはまったく幕末と同じように見えるのである。幸か不幸か、流通量が増えたお金のすべてが市場に出回るのではなく、将来に不安のある企業や個人は内部留保や貯蓄という形で仕舞い込んでしまっているので黒田総裁が期待しているほど物価が上がらないのでこれだけで済んでいということだろうか。

どちらにしても、黒田総裁は庶民の「気分」というものをまったく理解できていないのではないかということと、岸田総理が言う、「成長と分配の好循環による新しい資本主義」などという幻想にしがみついているということが現在の僕の生活の苦しさの元凶であると思うのだ。
すでにこの時代、経済成長などというのは少なくともこの日本では期待できないであろう。そうであれば江戸時代のようにゼロ成長でインフレでもデフレでもない経済を目指すのが一番妥当ではないのだろうか。
これからの日本は「鎖国」に向かうのが一番なのだと思うのである。インバウンドなどはくそくらえだと主張する政治家は出てこないものだろうか・・。

ニュースではさらに円安は進むだろうと言っていたが、この先、僕の生活はどうなってゆくのだろう。円安だけを見てももっと物の値段が上がっていきそうだ。
今日はG20の財務相・中央銀行総裁会議が始まったがそれほど為替にはそれほどの影響はなかったようだ。日本の財務大臣のコメントも人ごとのようだ。
来月にはアメリカ議会の中間選挙があるが、共和党がちょっと盛り返すという予想らしい。そうなってくると、トランプの息のかかった人たちはもっと強いアメリカを主張し、為替レートももっと円安に振れるだろう。
どんどん日本の力が弱くなっていく。「円安を追い風に経済成長を目指すのだ。」とはどこの阿呆が言っているのだろうか。

とりあえず僕も、円安とドルの金利が高いということの恩恵を受けるべく、外貨預金のようなものをやってみようかしらと思っている今日この頃なのである。

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「九頭竜川」読了

2022年10月06日 | 2022読書
大島昌宏 「九頭竜川」読了

僕の釣り人生にとって鮎釣りというのは最後のフロンティアだと思っている。まだまだやったことのない釣りはたくさんあるけれども、体力、財力、忍耐力を考えるとブルーマーリンを釣るとか、キングサーモンを釣るとかというのは現実的ではない。数年前まで伯父さんが持ってきてくれた鮎の味は美味しく、その伯父さん曰く、鮎の引きを味わうと病みつきになるのだという。そして同じことを森に暮らすひまじんさんもおっしゃる。いきなり走り出す目印の動きの躍動感と、あの小さな魚体からどうしてあれほど凄まじい力が生まれてくるのかというほどの引き味が魅力だそうだ。
僕もいままでたくさんの種類の魚を釣ってきたといくらか自負はしているので、だいたいこの種の魚でこれくらいの大きさならこんな引きをするというのはわかるつもりだが、鮎だけはわからない。友釣りという特殊な釣りも僕にとっては謎である。
しかしながら、フィールドはすぐそばにあり、身近なひとたちがその釣りをしているので僕にとっては手に届きそうで届かない釣りでもあった。
体調不良で鮎釣りを断念した叔父さんの道具を借りてひまじんさんに無理やり弟子入りを志願して今年こそは鮎釣りデビューだと思っていたのだが、降って湧いたアマダイブームと根っからの腰の重さでその思惑はあっけなくとん挫してしまった。
そんなときにこの小説のことを知った。

主人公の少女は福井地震で両親と祖母を失い、川漁師である祖父の元で川漁師の道を歩む。
福井県は、終戦間近の時の大空襲、そしてこの福井地震、そのひと月後の大水害と、わずか3年のあいだに壊滅的な被害に遭う。
そんな経験から主人公は、明日は生きているかどうかわからない、だから、将来に希望を持たない代わりに、今日を精一杯生きるのだという諦観を持つようになる。
『愛子は、必ず来るとは限らない明日のために余力を残すことをしなくなった。生きてある今日だけのために、持てる力のすべてを出し切るようになった。』
『人は老衰や病気だけで死ぬのではなかった。不時の災難で、若者も健康な者もあっけなく命を奪われるのだ。であれば、人はみな罪もないのに生まれながらにして死刑を宣告されている囚人と考えるべきではないのか。』という考えは18歳の少女にしてはあまりにも切ない考え方にも思える。そして、自分のそんな生き方を1年で寿命を全うする鮎に重ね合わせるのである。
そんな中、両親がいないことで就職試験に失敗し、『誰に気兼ねすることもない、腕一本だけが勝負の漁師になり、父を奪った九頭竜川に挑戦してみよう』と、自分の力のみで生きてゆくことができる川漁師の道をめざそうという考えにたどり着く。
鮎釣り名人の祖父はそれまで、『地震のとき以来、源蔵の心にはある変化が生じていた。源蔵自身の手ひどく弄ばれ、勇作の命を奪って逆流する褐色の怒涛を見てからというものは九頭竜に深い恐れを抱くようになっていたのである』が、たったひとりの肉親である孫娘のその考えに共感し、『九頭竜の鮎のように精一杯生きてほしい・・』と自分の持っている技術のすべてを伝えようと後継者である息子を失った悲しみから立ち直るのである。
そこからは、孫娘と祖父の二人三脚の修業が始まる。女性であることからの偏見を少しだけ受けながらもその血筋からか、その釣技はめきめきと上達する。
そして少女は、祖父の釣友の息子や友人の母親で高級料亭を経営する母親の言葉から刹那的な自分の生き方を見直すようになる。(といっても主人公はその刹那さえも力のかぎり精一杯生きようとするのであるが。)というようなストーリーだ。
友人の母親からは、『わたしはね、世の中で取越し苦労ほど阿保らしいことはないと思うてるんにゃ。例えば、明日の天気が晴れやろか雨やろかなんて心配しても、どうせ自分の思うようになるわけはないんにゃさけね、考えるだけ損やと思う。ほんなことは朝起きて雨やったら傘、雪やったら傘と長靴出せばすむことなんや。ほやろ?』と、自分の境遇に憂えることなく力強く生きることを教わる。3年間に起こった大惨事のすべてを幸運にも体験することなかった釣友の息子が言う、『命の儚さを知っているからこそ、人は日々の命の不安を克服していきてゆけるのではないのか。』と言う言葉に、『生まれ替わっては安易な生を繰り返すより、1回だけの充実した生を送り、悔いなく終わるほうが意義があるように思える。』という考えの主人公は、同じ福井の人間としては許し難いという思いもありながら、また、十年先、二十年先と気の遠くなるような将来の夢を無心に語る男性に違和感を覚えながらも少しずつ心を惹かれてゆくのである。

新田次郎文学賞を受賞しているとはいえ、おそらく傑作というにはちょっと物足りないような気がする。それは、僕が小説というのは不条理と絶望だというような偏向した考えを持っているからに違いないのだが、少女のひたむきさと利発さ、登場人物が善人ばかりだというのは朝の連ドラを見ているような印象でもある。(「舞い上がれ!」でも、主人公の母親と祖母の確執があんなにもあっけなく解消されるというのはまさに善人のなせる業としかいいようがない・・)それはその通りで、著者はCMディレクターというのが本業だそうだ。だからすごく映像的でテレビドラマ的なストーリーになっているのだと思う。
最後のクライマックスも、釣り大会での優勝というのもベタすぎる。

しかし、実家が福井県の釣具屋であったというくらいで、釣りシーンの描写や鮎釣りについての蘊蓄は釣り文学と言ってもいいほど秀逸であると思う。石の色を見て鮎の着きを判断するであるとか、おとり鮎の操作法の描写はなかなかリアルである。
その釣り味は、『目印が上へ走り、瞬時の後に下へひったくられた。鋭い電流のような衝撃が竿をゆさぶり、愛子の心臓をわしづかみにする。』と表現されている。『釣り師じゃのうて漁師じゃからの。数も釣らんならんが、鮎の値打ちを下げるような掛け方をしたらあかんのじゃ。』といいながら、やはりプロでもその引きにはしびれてしまうという率直な感想がリアルだ。
舞台になった時代は昭和26年ごろ。ナイロン糸が日本に入ってきたころであり、そんなエピソードも交えられている。
九頭竜川独特の鮎釣りの技法や漁法として、「泳ぎ釣り」、「水中八艘飛び」、「九頭竜返し」、「置き石」、「ダンマリ」などというものも紹介されていたりする。
そして、友釣の歴史についても、小説にしては詳しく書かれている。
文政年間(1818年~1830年)、狩野川での発祥であったと考えれていたが、さらに遡り寛文年間(1661年~1673年)、京都の八瀬川(高野川)での発祥であり、そこから上州、美濃地方に広まったと書かれており、鮎の縄張り意識が解明されたのはそう古いことではなく、当初のころは囮に雄鮎を用いれば雌鮎が、雌鮎を用いれば雄鮎が寄ってきて鉤にかかると思われていた。というような詳しい説明が続く。

刹那的に生きるか、未来に夢を持って生きるか、その間で動く葛藤というのはいつの時代でも人生のひとつの課題ではあるのだろうが、それを1年しか生きられない鮎になぞらえて問題提起をしているというのは構成としてはうまく作っているなと思える1冊であった。

このブログでも何度か書いているが、もう二十数年前になるだろうか、かつての上司が亡くなったとき、僕も人は若くても死ぬことがあるのだということを実感した。小説の主人公はその時に自分の生業にまで言及して自分の生き方の方向性を求めるのだが、僕はというと、ただ、自分の遊べる範囲で遊んでおかないときっと後悔すると思うという程度だった。
それは、自分の腕一本で生きているか、会社という生命維持装置に依存して生きているかという大きな違いが原因だったのだと思う。
結局のところ、選んだ職業には自分のやりたいことはなく、だからそこには自己実現という目標も見つけることができなかった。どちらかというと、自分の手を使って何かものを作るというような仕事のほうが向いていたのではないかと今さらながら思ったりもしているが、そうは言っても何事にも不満しか持てないような性格ではそんな仕事に就いていてもやっぱり不満しか言うことがなかったのだったら、そこは最後の砦として、僕はコンプレイナーなどではないんだと自分を納得させる材料として残しておいてよかったのかもしれないとも思うのである。

どちらにしても、もうこの歳になっては人生は不可逆的だ。主人公の生き方はあまりにも眩しすぎるというのが一番の感想である。
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「深海学 深海底希少金属と死んだクジラの教え」読了

2022年09月30日 | 2022読書
ヘレン・スケールズ/著 林裕美子/訳 「深海学―深海底希少金属と死んだクジラの教え」読了

この本は、深海にまつわる様々な事どもを網羅している。
深海に棲む生物、人間との関わり、ビジネス、レアメタルの鉱山としての深海。そういったことが書かれている。まさに『深海学』だが、ちなみに原書の題名は「The Brilliant Abyss」。「輝ける深海」というくらいの意味になるのかもしれないが、後半はその輝きに迫りくる影についても言及されている。

キャリーマリスの本ではないが、宇宙に比べるとはるかに近く、直接的な資源開発になるかもしれないのにその調査やなぞの解明は進んでいない。アメリカでの研究費は、2019年で54億ドルであったのに対して、NASAの研究費は215億ドルだったそうだ。しかも、その54億ドルには海洋だけではなく、河川、大気についての研究費も含まれているという。
この本を読んでいると、もっと研究費を出してやれよと思ってしまう。

深海の定義とはこうらしい。海面表層から200メートルを超えるとわずかな青い光だけしか残らないことで物理的な状態が変化する。ここから深海が始まる。
海の深さは平均すると3000メートルくらいの深さになるが、およそ1000メートルより深い部分には太陽光はまったく届かない。深海は深さによって区分され、水深200メートルから1000メートルまでの藍色の薄暗がりの領域を中深層と呼ぶ。そこから4000メートルまでを漸深層と呼び、水温が摂氏4度で安定する。4000メートルから6000メートルまでは深海層と呼ばれる。
海底には泥が堆積しており、その厚さは1キロメートル。場所によっては10キロメートルにもなる。それは風化した岩石の粒子と海面にいる微小浮遊生物の死骸が降り積もったものである。
これだけでも驚異的な数字が並んでいる。

そんな深海を、そこに棲む生物、地球の気象に与える影響、海洋資源、鉱物資源獲得の場について、それぞれ章を分けて書かれている。

第1部は深海に棲む生物について。
ここでは何を食べているかということで大きく三つの生物たちに分けている。ひとつは海に沈んだ生き物の死骸をあてにしている生物。ひとつはマリンスノーを主食にする生物。最後は化学合成された食物を食べる生物たちである。

浅い海に暮らす生物が死に、その場所が深海の上部ならその死骸は深海に向けて沈んでゆく。腐敗が進むとガスが発生して浮かび上がってきそうなものだが、その前に深海に到達すると、強烈な水圧のせいでガスが膨らむことなく深海底まで沈んでゆくそうだ。
大きなクジラなどが沈んでゆくとそれは一部の深海生物にとってまたとない食料になる。40トンのクジラの死骸は生物たちにとって、1ヘクタールの海底を100年か200年かけて探し回るほどの餌の量に匹敵するくらいの価値があるらしい。
最初に死骸に群がるのは魚や甲殻類。次に集まるのは巻貝、カニ、ゴカイ類などで、最初の集団が食べ残した肉の断片を片付ける。
そして骨だけになったクジラは最後に、ホネクイハナムシという多毛類によって食べつくされる。1匹のクジラは数年にわたってひとつの生態系を形作るのである。乱獲によってクジラの頭数が減ってくると、こういった生物の生態系も脅かされることになる。
ホネハナクイムシというのは約8000万年前から存在していたと考えられる。これは地質年代では白亜紀にあたるが、その頃、彼らは恐竜の死骸を食べていたことになる。実際、プレシオサウルスの化石にはホネクイハナムシが開けたと思われる穴が見つかっている。



マリンスノーというのは、『動物や、植物プランクトン、原生生物などの死骸、糞便、砂、その他のさまざまな有機物や無機物で構成されているもの』である。デトリタスとも呼ばれる。そして、この優雅な言葉は日本人学者によって名付けられたそうだ。
要はゴミなのであるが、マリンスノーを食料にしている生物はまさに奇妙、異形、不可思議、普段に見る生物とは似ても似つかない形の生物ばかりだ。羽のあるゴカイや、マリンスノーをひっかけるための食指をもった有櫛動はクラゲにそっくりだがクラゲではないそうだ。そして彼らは物何かに似ていると思ったらカンブリア紀の生物たちだ。口絵の写真を見てみると本当にそっくりだ。ハルキゲニアのトゲやウィワクシアのカラフルな構造色を思わせる。生物の起源は深海にあるという説もあるが、こんな生物を見ているときっと確かに生物が生まれたのは深海であり、そのなかの一部が海面まで浮き上がり太陽エネルギーを利用できる藻類などの植物が生まれたのではないかと思えてくる。ただ、現代のハルキゲニアたちは大きさが数十センチから大きいものでは数メートルという大きさで、数センチしかなかった当時とは相当巨大化している、
なんとなくだが、生物が何もない地球で、植物が最初に生まれて酸素が放出され、それを呼吸に使った動物が生まれたと思いがちだが、まったく逆であったのかもしれないと思ってしまうのである。
実際、熱水噴出孔で見られる微生物とまったく同じ構造の化石が17億7000万年前の化石として発見されていたり、熱水噴出孔の内壁にある微小な孔が生きた細胞の鋳型になったという考えもあるそうだ。

化学合成されたものを食べる生物も熱水噴出孔周辺に生きる生物だ。代表的な「雪男ガニ」は体の表面に糸状のバクテリアを繁殖させそれを食料として生きている。そのバクテリアは熱水噴出孔から排出されるメタンや硫化水素から有機物を合成しているのである。
ほかにも、金属の鎧をまとった巻貝、ウロコフネタマガイの発見はニュースになったことを覚えているが、これも外敵から身を守るために金属を纏ったのではなく、この巻貝も、体内に取り込んだ化学合成バクテリアから食物を得ているのだが、その食物を合成する過程で有害な硫黄を発生し、それを体外に排出することで水中の鉄分と化合し硫化鉄となり、一部は黄鉄鉱となり黒い艶のある鱗を作るのである。



まだまだある。
8000メートルの超深海で生きる魚にマリアナクサウオという魚がいる。



これくらいの水深になると、生き物の分子はひしゃげられ生きるために必要な機能を発揮できなくなるという。トリメチルアミンオキシドという物質を体内にため込んで水圧に対抗するのだそうだが、それでも8200メートルが限界だと考えられている。なんでそんな過酷な世界を生きる場所に選んだのだろうと思ってしまう。また、海山周辺ではその斜面に沸き上がる海流によって深海の養分が巻き上げられ、また海流によって地盤がむき出しになるため、様々な生物がその地盤を足掛かりにして様々な生物が暮らしている。たとえばサンゴもその地盤に根付く生物だ。彼らはマリンスノーを食べる。浅海のサンゴは体の中に褐虫藻を宿してそれからエネルギーを得るのだが、光が届かない深海ではそれができない。それは珍しいものではなく、これまで知られている約5000種のサンゴのうち、3300種以上は深海に生息するサンゴだという。

第2部は深海に依存する人間社会についてだ。
海洋大循環という深海の流れがある。これは海面を波立たせて水を動かす風の力と、塩分濃度の高い冷たい水が深海に沈み込む動きによって引き起こされる。この沈み込む流れはグリーンランドの脇を通ってラブラドル海に注ぎ、大西洋の中央を南下して南極大陸まで流れ込み、再び主だった海洋の深海に流れ込んでゆき、赤道近くで温められ再び北極方向へ流れてゆく。
この流れが局地的な温度上昇を全地球に分散させてゆく働きをしている。しかし、この循環の一部が地球温暖化のせいで動かなくなり始めているという。北極の氷が解けることで海水の塩分濃度が薄くなり深海に沈み込む海流が弱くなったことが原因だ。大西洋から赤道に向かう流れは20世紀の半ばから15%も減っているという観測結果がある。その結果、この100年の間に6分の1の確率でこの流れが止まり、ヨーロッパ全体を激しく冷え込ませることになる。
また、マリンスノーは炭素固定にも貢献している。植物プランクトンが浅海で光合成をして二酸化炭素を有機物に固定して深海に沈んでゆく。その養分のひとつになるのはマッコウクジラの糞だそうだ。深海でイカなどを食べるマッコウクジラは1頭当たりおよそ50トンの鉄分を深海から運び上げそれが植物プランクトンの養分になる。その結果、大気中から年に40万トンの炭素を取り除くと考えられている。ここにも地球の大循環があるのである。
しかしこれも、商業捕鯨が行われていた頃には循環が大幅に縮小したと考えられている。
マリンスノーやクジラの糞で固定される炭素の量は年におよそ50億~150億トンになると考えられている。2019年の世界の温室効果ガスの排出量を炭素換算すると91億4000万トンだが、それに匹敵するくらいの炭素を吸収してくれていることになる。環境はどんどん悪くなっていくのだろうが、最低でもこのレベルは維持できるように環境を守ってもらいたものだと思う。
気候だけではなく、医学についても深海は大きな貢献をしてくれている。それは医薬品の分野だ。深海の海綿やサンゴからは抗がん剤やHIVウイルスを死滅させる成分が発見されている。捕食者に襲われても動くことができない動物は、複雑な化学物質を分泌することで護身用に使っている。おまけに、動かないということは研究者にとって採集しやすいというメリットがある。圧倒的な水圧、低温、光が届かない、餌が少ないという極限の環境は、そうではない環境に生きる生物よりもはるかに複雑な分子構造の物質を作り出す可能性がある。これからも新しい成分の発見は続いてゆくと考えられている。

第3部は、深海底のビジネスについて、漁業資源と鉱物資源について書かれている。
漁業資源の代表として、オレンジラフィーという魚が取り上げられている。



この魚は18メートルから1800メートルの深海で獲れる魚だそうだが、深海魚にしては意外と美味しく、日本でもヒウチダイと言う名前で流通していて、キンメダイのような味がするそうだ。この魚から得られる油脂は化粧品としても使われているそうだ。
1970年代の初めころから底引き網で大量に獲られるようになり、規制もされていなかったので乱獲が続き、1990年代の半ばにはどの場所でも急激に漁獲量が減り、2000年の最初にはほとんどの場所で漁が終了したという。
そして、鉱物資源でもマンガン団塊や海底熱水鉱床、海山に集まる堆積物から得られるレアメタルが注目されているが、この漁業資源と鉱物資源に共通するのは、再生されるまでに途方もない時間が必要であるということだ。オレンジラフィーは産卵可能まで成熟するまで20年から40年もかかるという。鉱物資源においてはマンガン団塊がゴルフボールの大きさになるまでには1000万年の歳月がかかるというし、海山に堆積する鉱物は指の太さの厚みに堆積するまでに数百万年も必要だという。
どちらも一度取ってしまうとなかなか元通りにならないということと、漁獲や採掘の過程で破壊される環境についても大きな懸念があるという。マンガン団塊を足場とする生物が死滅したり、底引き網が海底に棲むサンゴや海綿を殺してしまう懸念があり、その環境が回復するには浅海とは比べものにはならないほどの時間がかかるのである。また、熱水噴出孔は剥ぎ取られた後、そこからどんな有害物質が排出されるのかということはまったくわかっていない。
幸運にも、新海域というのは、ほとんどが公海上にあり、南極大陸と同じく、無差別な開発はいまのところおこなわれてはいない。しかし、国際海底機構という国際機構は当初では2020年に採鉱法の公表に予定で、これが公表されると、本格的な採鉱が始まるところであった。(これはコロナ禍によって遅れている。)
資源開発だけでではなく、ゴミ捨て場としても使われてきた。化学兵器の残骸や下水汚物が深海に捨てられてきた。また、アポロ13号が月に置いてくるはずであった放射性同位体熱電気転換器はプルトニウム238を格納したままトンガ海溝の超深海のどこかに沈んでいる。誰の目にもふれないからという安直な理由で廃棄されてきたものだが、今後、それらが人類にどのような影響を及ぼすかはほとんどわかっていない。

第4部では、そういった無法ともいえる深海の利用について警鐘を鳴らしている。
深海のレアメタルは、クリーンエネルギーを推進するためには欠かせないものである。日本は消費量の60%を中国から輸入しているということを考えると経済安全保障の面では領海内の深海からそれを採掘できるとすれば申し分ないのだろうが、安定的な供給と地上での鉱山開発が環境に与える悪影響に比べると深海での採掘は環境に悪影響を及ぼさないというが本当だろうかという問題提起をしている。
著者は、深海開発は絶対悪であるとは断言していないが、もっと研究を深めたうえで開発を進めなければならないのではないかと訴える。また、資源の再利用やレアメタルを必要としない機器の開発で深海に頼らない成長もできるのではないかとも言う。
それはもっともだ。生活を豊かにするためと考えられている開発が、自分たちの住む唯一の環境が破壊されては本末転倒だ。しかし、人間の欲望はかぎりがなく、早晩深海にも魔の手が伸びるというのも確実なのではないかと思うと悲しくなるのである。

この本の口絵にはこの世のものとも思えないような美しく奇妙な生物の写真がたくさん掲載されている。こういった貴重な生物を危機に陥れてまで人は幸福と便利を追求しなければならないのかということはやはり考えなければならないのだと思うのだ。

最後に、ご法度かもしれないが、その口絵のページを残しておこうと思う。これを見るだけでもこの本を読む価値があると思うのだ。

      
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「マリス博士の奇想天外な人生」読了

2022年09月21日 | 2022読書
キャリー マリス/著 福岡伸一/訳 「マリス博士の奇想天外な人生」読了

PCR検査というと、現在では世界中で知らない人はいないのではないだろうか。僕がPCR検査というものを初めて知ったのはこの本だった。コロナウイルスが世間を騒がせるほんの数か月前のことだった。
著者であるキャリー マリスはこのPCR検査、ポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction)を発明した科学者だ。そして、1993年、ノーベル化学賞を受賞する。
この本の面白いところは、大体、こういう自伝的なものは、どういった困難を克服してこの偉業を成し遂げたかというような、文系の素人ではちょっと理解が及ばない話となるのだが、そういう部分はわずかだ。
ノーベル賞を受賞した科学者は受賞講演をするのが慣わしで、その講演内容は大体が、受賞の対象となった研究や内容目的を解説するもので、大体が難解な話で聴衆は誰一人として理解できないにかかわらず、全員が拍手するという奇妙なもので、それを素直に奇妙と思っている著者は、その講演の冒頭で、『これから、ポリメラーゼ連鎖反応を発明するということがどういうことなのか、お話してみようと思います。それを普通の言葉で説明することは簡単にできません。ここにおられる大多数の方々にとって、それは面白い話にはならないでしょう。ですから私は専門的な説明はいたしません。かわりに、発明にいたる経緯と、発明によって可能になったことを皆さんに知ってもらいたいと思います。なじみのないお話になると思いますが、細かいことは問題ではありません、ご安心ください。細かいことは抜きにして、PCRを発明したときの雰囲気の一端でも感じていただければよいと思います。』と語るのだが、この本も同じようなスタンスで、専門的な部分はほとんどなく、著者の生き方、世界の見方が書かれている。

その著者の生き方だが、タイトルのとおり、奇想天外というか、その奇行が当時も耳目を集めたようだ。淡い記憶の中で、サーファーがノーベル賞を受賞したというニュースがあったということを思い出したが、PCRのヒントを思いついたのは同僚で恋人であった人とドライブの途中であったとか、その女性とはそのヒントがなかなか現実のものにならかったことに合わせて別れを迎え、それにもめげずたくさんの女性遍歴を繰り返し、授賞式には、前妻とその間にできた子供たちと当時付き合っていたガールフレンドを引き連れて参加したなどのエピソードや、LSDを常習していたなど、普通の人がこれをやっていると間違いなく逮捕寸前か世の中から排除されかねないようなことが書かれている。研究内容もすごいのだろうが、私生活もなんともすごい。

発明についての記述はこの部分だけだ。『まず、短いオリゴヌクレオチドを合成する。それを使って、長いDNA鎖上のある特定の地点に結合させる。しかし、長いDNA鎖上には少しだけ違うがよく似た場所が30億ヌクレオチドのヒトゲノムの中には1000ヵ所くらいはある。その程度の精度ではダメなので、その上でもうひとつのオリゴヌクレオチドを使ってもう一度選抜をかける。一番目のオリゴヌクレオチドでまず1000ヵ所をピックアップし、一番目のオリゴヌクレオチドが結合する場所の下流に、二番目のオリゴヌクレオチドが結合するように設計しておけばその二番目のオリゴヌクレオチドが正解をひとつだけ選び出す。そのあとはDNAが自分自身をコピーする能力を利用してやれば二つのオリゴヌクレオチドの間に挟まれたDNAは指数関数的に増幅してゆく。』
確かに、普通の言葉で書かれてもまったく理解ができない。
このアイデアがひらめいたとき、キャリー マリスはホンダシビックの助手席に恋人のジェニファーを乗せていたそうだが、その瞬間、下りカーブの路肩に乗り上げ、ダッシュボードの中から封筒と鉛筆を取り出し書き留めたという。急いで書いたので鉛筆の芯を折ってしまいようやくボールペンを見つけて計算を続けた。
その考えはあまりにも簡単だったためたくさんの分子生物学者に意見を求めたがこのような方法がかつて試みられたという事実を知っているものはいなかったという。唯一、友人でベンチャー企業の起業家だけが興味を示してくれ、独立してパテントを取るように勧めたけれども当時勤めていたシータス社のもとで発表したのだが、この会社はこの研究で3億ドルの稼ぎをしたという。

これから先は著者の面白おかしいエピソードが続く。しかし、それはきっと面白おかしいだけではなく、著者は相当俯瞰的に世界を見ていたのではないかと思えるところもある。確かにそれは世間一般から見るとそれはおかしいのではないかという考えかもしれないが、確かにそう言われてみればそうかもしれないという説得力がある。
その顕著な意見が、科学は等身大でなければならないという考えと、物事の本質を見直すべきであるという考えだ。
科学は等身大でなければならないという部分では、たとえば、宇宙論や量子力学の研究に対して、そういう研究は人間の営みに対してどれほどの貢献をしているのかというのである。国は何十億ドルもかけて巨大な装置を作り、有能な研究者を投下しているが、研究者は単に面白いからやっているだけであると断言する。
僕なんかは、そういった研究は、人はどこから来てどこへ行くのかという本能的な探求心の発露や、遠い将来、人類が宇宙に進出するための準備だと思っているのだが、言われてみればもっと近い将来にやってくるかもしれない小惑星の天体の衝突に備えるための観測や対策にもっとお金と知識を注ぎ込むほうが良いのではないかと思ったりもする。また、地球の温暖化への対応や自然災害への対処などはもっと等身大な問題として知識のある人たちには考えてもらいたいというのも確かである。台風や大雨のたびに話題になる、深層崩壊といのもそのメカニズムやその危険のある場所を特定する方法も確立されていないという。
物事の本質を見直すべきであるという部分では、オゾン問題、悪玉コレステロール、健康食材など、世間では当然それが正しいと思っていることは本当に科学的に証明されているのか、また、逆に、まったく科学的ではない占星術は本当に科学的ではないのか、はたまた、著者自身の実体験から、宇宙人は本当に存在して実際地球にやってきているのではないか、LSDなどの違法とされる薬物は本当に人体に有害なのか、そういったものに対しては自分自身でリテラシーを持たねばならないと言っている。
また、様々な危機をあおるような行動は誰かを利するために意図的になされているのではかいかと疑うべきであるというのである。世界が複雑化したことで、政府の役割のほとんどは、きわめて専門的な技術領域に分散し、素人がつねに監視することがまったく不可能になってしまったというのである。その陰で誰かが自分の私利私欲のために蠢いているというのである。
僕もそういった部分については確かにそのように思っていて、様々な利権と既得権益を守るためにいろいろな人がいろいろな不安を煽るようなことを企てて無駄なお金を支払わせようとしているに違いないと考えている。コロナウイルスのことでも、不安を煽ることで病床の確保やワクチン接種、休業補償に関わる費用で儲け倒しているひとがいるのも事実のように思う。
もっというと、車検制度なんかも、工学的には今の自動車は2年に1回の点検をしなくても故障なんかすることもないはずだ。少なくとも日本の車はもっと性能がいいのにそんな制度を維持し続けるのは自動車整備業界を儲けさせるための何ものでもないと誰もが思っているはずだ。著者の言葉を借りると、車の状態の本質は自分で見極めればよいということだ。
特に、エイズに関することと、地球温暖化については手厳しい意見を書いている。
エイズについては、その原因とされるHIVウイルスと関連性には絶対的な確証がないといい、地球温暖化については地球が現在まで繰り返してきた気候変動の一部に過ぎないという。
この本は約20年前に書かれたものであるが、その後、こういった問題の原因が本当に解明されているのかどうかを僕は知らないが、著者の主張に説得力が感じられないのは、自分で合成した薬物を大量に摂取したことでトリップしすぎたというようなことが書かれていると、宇宙人は本当に存在し、実際に誘拐されたと言われても、違法薬物は体に悪影響を及ぼすことはないと言われてもやっぱりそれは本当ではないだろうと思ってしまうのである。しかし、その薬のおかげで世紀の大発明であるPCRを発明したのであれば薬さまさまとなるのであるから著者のいうことももっともであると思ったりもするのである。
しかし、それも含めて自分自身で考えろというのであれば確かに著者のいうことは正しいと思えてくるので、タイトルのとおり、奇想天外であり、この人のように自分を信じて自由な生き方をしてみたいと思えてくるのである。
本文の最後はこう締めくくられている。『人類ができることと言えば、現在こうして生きていられることを幸運と感じ、地球上で生起している数限りない事象を前にして謙虚たること、そういった思いとともに缶ビールを空けることくらいである。リラックスしようではないか。地球上にいることをよしとしようではないか。最初は何事にも混乱があるだろう。でも、それゆえに何度も何度も学びなおす契機が訪れるのであり、自分にぴったりとした生き方を見つけられるようにもなるのである。』
まさに諦観の極みというような文章である。当然だが、この人はただの薬物中毒者ではないと思えるのである。

この本の訳者は福岡伸一である。アメリカで研究生活を送っていたとき、まさに著者の研究のセンセーションを体験したそうだ。そして、少し遅れてこの革命的な発明をした人物についての、この本に書かれているようなさまざまな噂が広まってきたという。
原題は、「Dancing Naked in the Mind Field」というそうだ。「心の原野を裸で踊る」というような意味だそうだが、ほとんど無名で、ほとんど論文の発表もしていない研究者が、『天上からやってきたミネルバがマリスの頭上で一瞬微笑んだ』結果、ノーベル賞を受賞することになったのだと訳者のあとがきで書いている。僕はふと、キャリー マリスという人は本当に宇宙人に誘拐され、この革命的な発明を授けられたのではないかと思ったりしてしまった。

福岡伸一というひとは科学エッセイでは一番面白い文章を書く人ではないかと僕は思っているのだが、この本の面白さは著者の奔放な生き方はもとより、きっとこの人の文章力にもよっているのではないかと思ったのである。
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「食べるとはどういうことか」読了と台風14号

2022年09月19日 | 2022読書
佐藤洋一郎 「食べるとはどういうことか」読了

なかなか微妙な本だ。タイトルはなんとも哲学的なものだがそのいくらかの内容は過去に読んだ本にも書かれていたようなものだった。端的にいうと、「現代の食の危機」というものに言及している本だ。食の多様性が薄れ、画一化された食。生産と消費の距離があまりにもかけ離れた世界。著者はそこに危機感を訴える。ただ、それだけではなく、味覚についてや観光と食文化、食料の保存の歴史など学術的なことも書かれている。そうかと思うと、人文科学は自然科学に比べて世間ではないがしろにされているというような愚痴も書かれていて論旨があちこちに行っている気がするので微妙なのだ。もちろん、こういったすべてのことが「現代の食の危機」につながってゆくのだといわれればそうかもしれないが・・。そんな本だが、次の予約がはいっており、来週には返却しなければならないので先に読んでいた本を途中でやめて急いで読み始めた。

世界で生産される穀類は4億トンほどだそうだ。世界の人口を70億人(すでに80億人にまでなっているそうだが。)とすると、一人当たり330キログラム程の配分がある。カロリーに換算すると1日2900キロカロリーだそうだ。成人ひとり当たりの1日の必須カロリーは2000~2400キロカロリーと言われているので今のところはこの地球上の人口を十分養っていくことができる計算だ。しかし、世界では8億人の人が飢餓の危機に瀕しているという。
これは、「食の分業化」が原因だ。食材を作る人、加工する人、食べる人が分かれてしまうことだが、これが進むことでおカネを持っている先進国に食材が集まり、食べきれないものは廃棄されてゆく。また、大量に同規格の食材を流通させるために規格外の食材も廃棄される。
そして、この本は2022年の春までに書かれたものなので取り上げられてはいないが、ひとたび世界のどこかで戦争が起こると世界中の食糧事情が危機に陥る。ウクライナの戦争では、世界はこんなに脆弱なのかと驚いた。
今の世の中で、自分で食べるものを自分で取ってきて自分で料理をして自分で食べる人という、食のすべてを自分で賄うという人はほぼ皆無だ。調理は自分でやったとしても食材はお店で買うしかない。それも流通しやすいように食材の種類は絞られ、選ぶ余地は少ない。品種改良は生産力を伸ばしたが、一方で品種の多様性を損なった。そしてそのことが土地ごとの食の多様性多様性や食文化を薄れてさせてゆく。
そういったことに著者は危機感を抱くわけだが、特定の場所に人口が集中し、都市化が進んだ現代ではどうすることもできない。
僕も何度か書いてみたことがあるが、その最たるものがコンビニの総菜だろう。「こんなに丁寧に家庭の味を再現しました。」みたいなコピーでサバの塩焼きなんかを売っているが、それのどこが家庭の味なのか。家庭で作らなかったら家庭の味ではないのではないか、それを家庭の味だと勘違いしている日本国民はどこかおかしいのではないかといつも思うのである。

もちろん、やむを得ず外食をすることもあるだろう。外食の起源は旅先での食事だと言われているそうだ。それも文化のひとつである。中国や東南アジアでの屋台などは一度は食べてみたいと思うのであるが、日常の生活でそれしか選択肢を持たなくなってしまっては本末転倒だ。
せめて自分の食べることは自分でよく考えて食べなさいというのが著者の思いのようだ。

そういったことを、食の歴史、加工、保存、味覚、嗅覚など様々な方面から書いているのだが、やっぱりちょっと微妙だ。しかし、著者が一番主張したいことは、冒頭の、「はじめに」の部分に集約されているように思う。
宇宙ステーションのクルーがハンバーガーを食べているシーンを見て、『ハイテクの塊のような空間である宇宙ステーションで活動する宇宙飛行士たちでさえ、生命維持のためには食べ続けなければならないことを雄弁に物語っている。』と書いている。どこにいても人間は食べることからは逃れられないのであり、それが世界中で様々な食文化を生んできた。
「食べることは生きること」というサブタイトルがついていたのは何年か前の朝の連続テレビ小説だったが、まさにそれである。それを大切にしなさいということだ。

著者は植物遺伝学の科学者だそうだ。食の未来を見据える科学者は人類の機械化についても言及している。まったくSF的ではあるが、人体のサイボーグ化についてだ。それはいろいろな部分で進みつつある。それに食がどう関係するかというと、食物の人工物化である。1万年ほど前は完全な自然物であった食材は、農耕、遊牧を経て半人工物と言えるものとなった。そして現在では食品添加物、冷凍食品など高度に加工されたものになっている。その行きつく先は、ロボットと化した身体をもつ人間が、水のほかは栄養剤のようなピル状のものだけを食べるような世界なのだろうかと懸念する。これは大げさだとは思うが、著者は、そのような社会は嫌だと考える人が減ってきたと感じている。それの象徴のひとつがコンビニで夕食を買う人々だろうと僕も思う。食べる楽しみ、美味しく食べる、味わって食べるといった食の価値を、改めて問い直す時期が来ているのではないかというのである。
確かに、食べることにまったくこだわりがなく、あったとしても自分で作ることをせず、外食、もしくは中食で満足しているひとはかなり多いのかもれないが、いくらかの食材を自分で確保し、またはそれを取った人、育てた人の顔がわかるものを自分で料理して食べることを少しでもやっている僕はそういった食にこだわりのない人たちよりも幸せなのかもしれないと思う本であった。


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このブログを書いている今日は台風14号が日本を縦断している。朝から和歌山市内をウロウロしてきたのだが、その時点では中心はいまだ九州だがものすごい風が吹いている。車高が2メートル近くある僕の車はときおりハンドルを取られ、ビニール傘は秒殺でボロボロになってしまった。



それでも海に出ている人はいる。大きな波を狙ってサーファーが大挙していた。ちょうど祝日と台風の日が重なったからだろうが、こんな日に海に入っていくのは怖くはないのだろうか。女性のサーファーもいた。



雑賀崎灯台、いつもの観測スポットと廻ってきたが、カメラを構える腕は風に翻弄され、まともにシャッターを切れない。



いつもの観測スポットは防波堤が嵩上げされ、こっちに乗り越えてくるような大きな波は見えなかった。これはこれで安全なのかもしれないが、オーディエンスとしてはちょっと物足りないのである。



船のほうは今のところ無事である。



しかし、干潮時刻にしては潮位が高い。家に帰って調べてみると、予測潮位より50センチほど高く推移している。夕刻が満潮になるのでちょっと心配だ。



ひととおりパトロールを終え、「わかやま〇しぇ」へ。今日は一般向けに販売会をしているらしい。平日は客がいなくて店番のおじさんたちとよもやま話などをするのだが、荒れ模様の日ではあるが今日は忙しくレジで客さばきをしている。



今日の買い物はコロッケ各種と5キロ入りのパスタだ。
300円と書いていたので思わず買ってみたが、これを食べきるのに一体何年かかるのだろうと買ってみてから気がついたのである。



そうこうしているうちに風はますます強くなってきた。いつもなら気にはしながらも心底は心配をしないのだが、今回の台風はちょっとまずいかもしれないとおびえているのである。別の意味でちむどんどんしている・・。

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「逆境を楽しむ力 心の琴線にアプローチする岩出式「人を動かす心理術」の極意」読了

2022年09月12日 | 2022読書
岩出雅之 「逆境を楽しむ力 心の琴線にアプローチする岩出式「人を動かす心理術」の極意」読了

今さら組織論を読んでも何の意味もないのだが、逆境ではなくても辺境にいるのは間違いがなく、そこで耐え抜く方法でも見つけてみようかと読んでみた。

著者や帝京大学ラグビー部の監督をしていた人だそうだ。和歌山県出身だということも、とりあえず読んでみようかと思った動機である。

逆境とはあまり関係がないが、組織を機能的に動かすには、「心理的安全性」と「野心的目標」というものが重要だそうだ。「心理的安全性」とは、「組織内で誰もが、拒絶されたり罰せられたりする心配をせずに忌憚のない意見を述べられる状態のこと。」をいい、野心的な目標を協働するのに有益であると考えられている。
心理的安全性が高くても野心的な目標がなければただの仲良しグループになってしまい、逆だとギスギスした組織になる。

考えてみると、いままでの職場で、心理的安全性というものを感じたことがなかった。特に直近の職場はいつも誰かが誰かの悪口を言っているというようなところだった。悪口を言っている連中の中には僕も含まれているわけだが、そういう自分が嫌でひとり黙ってしまう。働かないおじさんは人と口を利かないというが本当だなと思ったものだ。
野心的目標はどうだろう。衰退産業である業界で前年プラスの売り上げ予算を渡されても最初からあきらめるしかない。そんなことを30年以上も続けてきた。そしてそういうことが体中に染みついてしまったように思う。

「利他の精神」「自己実現」「内発的動機」「セルフエフィカシー」「成長マインドセット」・・、様々な前向きな言葉が盛られているが、僕にとっては過去の言葉であり、これか先もまったく縁のない言葉だ。そういった言葉にずっと縁がなかったのは、きっと職場環境がそうさせたのだろうと思ったりもしたのだが、著者の経験を読んでみるとそうでもなさそうだ。著者は順風満帆に強豪チームの監督になったのではなかったそうだ。実家の破産を経験し、高校ラグビー部の監督になれたのは大学を卒業して10年経ってからだそうだ。そんな境遇にもめげず、やっと大学ラグビー部の監督となり、大学ラグビー選手権で10回の優勝をするまでになった。
ずっと前向きに生きられるというのは、それはもう、DNAしかないのではないのかと思った。そう考えられる人はそう考えられるし、そう考えられない人は死ぬまでそんな気持ちにはなれない。事実、僕がそうだ。

『世の中に不満を持ったりする人の多くは、他人との比較や組織との関係性がうまくいかないことに端を発しています。まずは自分ではコントロールできない他社や世間、組織ではなく、自分自身のことをちゃんと整えていくことに専念してほしい。現在と過去を振り返り、未来の目標に照らしながら、失敗した自分を覆し、整えて肯定化していく。』それだけでまったく違った人生になるはずだというが、そんなようには絶対に思うことはできない。自分のふがいなさをすべて他人のせいにしようとは思わないが、ここでなければこうはならなかったのではないなとは思ってしまう。

そう思ってしまうことがやはりDNAなのだ。だからこれからもあきらめて生きるしかないと、そう思うしかないとしか思えない本であった。


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