イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「緑の水平線」読了

2008年09月07日 | Weblog
林房雄「緑の水平線」読了
この本のタイトルはいろいろなところで目にしていた。一度は読んでみたいと思っていたら古本屋で見つけることができた。
作者はどんな人かも、この本が小説なのか、エッセイなのかさえも知らずにとりあえず買ってみた。
ちなみに調べてみると作者は戦前マルクス主義を支持し戦後はうって変わって天皇制を擁護した人とのことであった。一時期、白井明というペンネームを使っていたということで、この物語の白井さんは作者そのものなのだろう。
戦後はこのような中間小説を書いて人気のあった人だったらしい。
釣りが大好きであったという記録は見つける事ができなかった。

内容はその白井さんという小説家を主人公にした小説であった。プロットは古臭いもので森重久弥や岡本信人が出てきそうなものである。
しかし、ところどころに書かれている釣りに対する哲学や釣師の定義にはうならされるものがある。読みながらそうだ、そうだ。と感嘆したり、??というのもあるがきっとそうなんだろうなと思えるところがうれしい。

本の帯には「海の上に出て、釣り糸をおろせば、釣には釣の苦労がある。釣れぬいらだち、背骨と腰の痛み、季節の暑さ寒さ、強すぎる風と波・・・。釣師を有頂天にする大釣などというものは、三年に一度ぐらいしかないことを、さんざん思い知らされていながら、朝ともなれば、新しい期待に胸をふふらませて出かけていく。それが釣師なのだ。」とある。うれしい言葉だ。釣師に対する最高の賛辞かもしれない。
また、開高健がよく使った、「釣師はみんな暗い、みんな心の中に、傷をもっている。しかもその傷がなんの傷だか、自分ではわからない。」ということばこの本から借用していたのかもしれない。
ほかにも「釣師は仕事から、世間から、家庭から、自分自身から脱出しようとあがきながら、結局脱出できないことを知って、瞬間の脱獄気分だけを楽しんでいる囚人である。」という言葉もある。

昔は開高健が口にしたこの言葉の意味もよくわからなかったが、ここにきて、しみじみ納得してしまう自分も歳をとってしまったのか、はたまた本当の釣師になれたのか、複雑な気持ちだ。
本当は魚釣りを「道」と捉えたい僕にとってはもっと純粋な気持ちで釣りに向かいたいところであるのだが・・・。


コメント
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