イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「ヒロシのソロキャンプ-~自分で見つけるキャンプの流儀」読了

2021年02月22日 | 2021読書
ヒロシ 「ヒロシのソロキャンプ-~自分で見つけるキャンプの流儀」読了

数年前まで、「BE-PAL」というアウトドア雑誌を30年以上も購読していた。なんだか自分には合わなくなってきたなと思って購読をやめてしまったけれども、読み始めた当時、アメリカンなスタイルのキャンプ情報なんかが中心で、オートキャンプというものが紹介されていた。ちょうどRVというジャンルの自動車も人気が出始めていた(SUVという言葉はまだ生まれていなかったように思う。)頃で、僕もものすごくあこがれた。
四駆のRVには乗ることができなかったが、ステーションワゴンを乗り継いだのも釣りのためということもあったが、オートキャンプにもあこがれていたからだったのだと思う。
もともと道具類が好きなのも相まって、就職して自由になるお金ができてくるといろいろなものを買い漁った。コールマンのツーバーナーはいちばんの憧れで真っ先に買った。しかし、家族ができて、さてオートキャンプだと意気込んではみたけれどもこういうのは奥さんが乗り気でないと成立しないということをその時気付かされた。
何回かは日帰りで出かけてみたりもしたけれども、僕の奥さんはいつも大きなつばの帽子をかぶり、寒くもないのにマフラーを首に巻き付けUV手袋をつけたまま野菜を切ってくれていた。どうして?と聞くと、「日焼けするじゃない。」という答えが返ってきた。ああ、この時点で僕のオートキャンプの夢は溶けてなくなってしまったのだ。

コールマンのツーマントルランタンはいまだに灯したことがなく、燃料さえも入れたことがない。同じくテントもタープも友人が貸してくれといって持って行ったことがあるだけで、僕自身は一度も立てたことがないというありさまだ。焼き肉用の鉄板は値札が貼り付けられたままである。
それでも道具類は好きだからその後も食器のセットを買ってみたり、テーブルを自作して真ん中を丸くくりぬいて七輪をセットできるように改造したりしてみたりもした。
そういえば、「イグルー」という、これもアメリカのブランドだが、雰囲気だけはキャンプっぽいがあまり保冷力のない巨大なクーラーボックスも物置に眠っている。これは冷蔵庫を買い替えた時に食材を一時保管するのには役立った。奥さんはこれだけは褒めてくれた。

そんな感じで時は過ぎてゆき、誰も、僕さえもキャンプというものに何の興味も示さなくなっていて、これらの道具たちはきっと大地震が来た時に避難生活をするのに役立つ時を待つだけになってしまったのだ。

以前にもブログに書いたが、最近、芸人のヒロシがソロキャンパーとして人気が出ていると知ってユーチューブを見てみた。そこには小さなテントを張ってひとりでキャンプをするヒロシの姿があったのだが、それはあまりにもかっこよかった。
突然100均の貯金箱でストーブを作ったのもこの人の影響だ。



いつも持ち歩いているバッグの中にはファイヤースターターと火吹き棒を忍ばせている。ほかにもペンチやナイフ、双眼鏡なども入っているが僕は決して怪しい人間ではない。はずだ・・。


ひとりぼっちなんていうと、社会生活の不適合者のようなイメージがつきまとうが著者はそれを堂々と楽しんでいる。実際はテレビ番組に出演をして自分で会社も作ってとなると全然ひとりぼっちでもなく社交性もないというものではなくてそれはキャラクターなのかもしれないが、あとがきにはこんなことが書かれていた。
『これまでの僕の人生は「みんなで」という言葉に振り回されてきた。』小学生の頃、みんなで班を作ってという先生の声におびえていた。自発的に声をあげられない、人気もない著者はいちもあぶれる側の生徒であった。『なんでみんなで班を作らなきゃいけないのだろう? ひとりでよくない?』と思いながら、いかにもあぶれたことなんて気にしてませんよという表情や姿勢を必死につくりながら恥ずかしさと惨めさを感じながらじっと立っていることしかできなかった。自分の興味のないことでも、空気を読んでグループに入ること。やりたくないことでも、誰かがなんとなく与えてくるポジションを演じること。異論があっても黙って従う協調性のこと,著者にとっては「みんなで」は負の言葉でしかなかった。
「みんなで」という言葉は平和でどこか正義めいたものにすら感じるのだろうが、著者にはずばり同調圧力という印象しかなかった。
これには僕も同じ思いがある。もともと社交性のない僕も同じ気持ちで小学生時代を過ごし中学生になり高校時代も変わらず社会人になってしまった。そして今も社交性のなさを引きずって生きている。
著者はグループでキャンプをすることにも違和感を覚えていたが、ある時思い切ってひとりでキャンプをしてみて満足感を得る。
『「みんなで」という無駄な装備を捨てて楽になり自然体の自分を取り戻したのだろう。毎日が楽しくなった。精神的にも健全になった。』と書いている。
著者の言葉はそんな僕になにか肯定感を与えてくれているような気がする。
別にひとりでもいいじゃないか・・。

釣りに行くのもひとりで行くことがほとんどだがきっとそんな子供の頃の感覚がそうさせるのかもしれない。もっとも、周りに釣りをする人がいないというのと、これもその子供のころの感覚を引きずっているのだろう、釣りをしたことがないひとを無理に釣りに誘うということにものすごい違和感を感じるのだ。

著者はタレント仲間と「焚火会」というグループを作っている。集まってキャンプをする時も、「みんなで」ソロキャンプをして過度な交流をしないそうだ。そんな会が成立するのは、『メンバー全員、それぞれどこかで「みんなで」を捨ててきた人たちなんだと思う。』からだそうだ。
しかし、やはり「みんな」を欲するというのはどこかに人間というのは集団の中にいないと不安になるということの現れではないのだろうかと思う。そこに葛藤が生まれるのだ。

これはなんだか船の釣りに似ている。船の上ではひとりぼっち(ではない人たちもいるが)で、海上で出会う知り合いの人たちとも当然ながら海水という隔たりがあるので過度の交流ができないというほど良い距離感がある。それでもいつも知っている船の姿が見えないかと周りを探してしまう。

肩ひじを張って本格的にアウトドアをするのだというのではなく、見た目だけかっこいいスタイルを楽しむのだというやりかたに共感を覚えた。
料理も本格的につくるのではなく現地のスーパーで出来合いのものや冷凍のものを買ってきて暖めるだけというものも多い。
火を熾したり、お気に入りの道具を眺めたり、それだけだ。時間だけがゆったり過ぎてゆく。

これなら家族を巻き込まずにひとりで楽しめるのではないかとなんとなく楽しくなってきた。幸いにしてキャンプ道具は大小山のようにもっている。ソロテントを買えばすぐにでも出かけられるくらいだ。
ただ、そこで、僕は意外と出不精であるという問題が生まれてきた。当たり前だが出かけると帰ってこなければならない。それが面倒くさい。近場でキャンプができるところはないかと考えてみると、港があった。去年から渡船屋は月、火曜日が休業でこの日はほぼ人がやって来ない。薪の材料は近くの防風林に腐るほどある。この時を利用して護岸で船を眺めながら一泊するというのはどうだろう。嫌になったり、火を熾すことができなくてもすぐに帰ることができる。
これはいい。このブログを読んでくださっている皆さま、夜中に港で焚火をしている不審者を見ても警察には通報しないでくださいませ。どうぞよろしくお願いいたします。

そしてもうひとつ大きな野望がある。家の車をキャンピングカーに改造することだ。
軽バンのサイズはまさしくソロキャンプのサイズだ。僕は密かにそんなことをやりたいと思ってこの車をごり押しして買ったのだ。今のままでも大人ひとりなら十分寝ることができるが、床を高くしてそこにできた空間に収納を作って、壁に折り畳み式のテーブルを備え付ければ立派なキャンピングカーだ。あとは持っているキャンプ道具を積み込めばどこへでも行ける。ここまでやったら出不精を乗り越えて紀伊半島を脱出してみたい。まあ、リタイア後の楽しみになってしまうだろうが・・。

とりあえず、このブログを書き終えたら著者が持っているような焚火台をアマゾンで注文してみよう。


コメント
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