イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「ナウシカ考 風の谷の黙示録」読了

2021年04月04日 | 2021読書
赤坂憲雄 「ナウシカ考 風の谷の黙示録」読了

マスクが欠かせなくなって早1年。これは風の谷の物語そのままではないのかとずっと思っていた。この物語の本質を知ることはこの現代がどこに向かっているのかを知ることになるのではないかとこんな本を読んでみた。

「風の谷のナウシカ」はアニメ版とマンガ版が存在していて、マンガ版は7巻まであるそうだが、アニメ版はこのマンガの2巻目の途中までくらいの部分を若干のストーリーを変更して作られているということだ。
僕はマンガ版を読んだことはないのでネットのネタバレサイトであらすじを読みながらこの本を読んでいた。
アニメ版のその後のストーリーはこんな感じだ。
まず、ナウシカの世界の構成だが、アニメに登場したトルメキアという国のほかに、土鬼(ドルク)諸侯国、「森の人」と呼ばれる腐海の中で生きる人たち、「蟲使い」と呼ばれる巨大な蟲を操って戦う民族などが登場する。
アニメ版でも語られているが、腐海とは「炎の7日間」で汚染された世界を浄化するために生まれたとされている。そして、蟲たちはその腐海を守り、浄化のためにそれを広げる役割を果たしている。
土鬼諸侯国には、「シュワの庭」、「シュワの墓所」と呼ばれるところがあり、シュワの墓所には、腐海を生み出した蟲たちをつくり出す技術が保存されている。またシュワの庭には腐海が浄化されたあとに再び新しい世界を生み出すために保存されている人類や文化の種が保存されている。それらはすべて千年前の超技術文明がバイオテクノロジーで生み出した産物であった。ナウシカたちも浄化されてゆく世界を監視するために生み出されたのである。そしてある程度汚染された世界でしか生きてゆけない体であり、浄化が済んだ後は滅びる運命であった。
それを知ったナウシカは、清浄のみを追求し一切の汚濁を認めない旧文明の計画に反発してこれを否定し、よみがえった巨神兵を使ってシュワの庭を破壊する。

このストーリーには宮崎駿のどんな思いが込められているのか。著者はいくつかのテーマを揚げている。
ひとつは自己犠牲による聖化、穢れと清浄の二元論に対するアンチテーゼ、そして、著者の論の中には語られてはいないけれども、グローバル化への批判というものも含まれているのではないだろうか。

自己犠牲による聖化というのはドラマを作るときのプロットとしては王道だろうから置いておくとして、コロナのこの時代を解釈するとなるとやはり、「穢れと清浄の二元論」となるであろう。まさか中国が遺伝子を組み替えて生み出したわけではないだろうが、清潔になりすぎたこの時代を生きている人類はコロナウイルスに対する耐性を失くした故にバタバタと斃れるほかなかったのではないかと思えるのだ。人はそれに対抗する策として、手洗い、うがい、お大師様の貴い教えをバカにしたような三密など言いながらウイルスから逃げることしか考えていないように見える。

ナウシカが、旧人類が未来のために残したある意味希望ともいえる種を破壊してしまったというところに何かのヒントが隠されているのかもしれない。
ナウシカは自分たち人工的に生み出された種族は必ず滅びる運命にあることを知りながら旧文明が残した種を破壊する。この種を破壊しようとしまいと自分たちは滅びる運命にあるのは確実だ。それがわかっていて残酷にもひとつの種を滅ぼしてしまう。
それはなぜであったのだろう。
浄化の後に復活する新人類は争いを知らず、歌や詩に身を委ねる生活をするようにプログラムされているという。しかし、ナウシカはそれに反発する。ハイデッカーは、すべての労働者がついに正当な権利を保障され、余暇時間も保証された労働者たちは、休日をたとえば高度に技術的に組織されたレジャーランドで過ごすに違いない。すべてが機能化した世界で、すべての機能が十全に機能しても問題が解決するわけではないという。
ナウシカはすべてが機能的にプログラミングされた世界のいかがわしさに気づいたのいだと著者は考えた。
IT技術が発達し、そんな世界が間近に迫っているような気もする。地震や大雨などの異常気象というのは、そういったいかがわしさを阻止すべくこの星が警鐘を鳴らしているのではないかとそんな思いも持つ。
また、プラスチックゴミや大気汚染、コンクリートで固められた地表に対しては津波という鉄槌で我々に押し戻すことでしっぺ返しをしようとしているのではないかと思ったりもしてしまう。

清潔な世界に浸りきった時代にはそうすることしかないのかもしれないが、すべては清浄か穢れの両極端では人は生きてゆけないという警鐘ではないのだろうかと思えたりもするのである。
また、人の心の中でも同じことが言えるのではないだろうか。
すべての物、コトに対して潔癖に生きてゆきたいと思うとどこかで必ず人間関係に無理が出てくる。清濁併せ呑むというのが円滑な人間関係を保つ秘訣だ。それができない人は生きづらい。本当に生きづらい。匿名でいろんな人を攻撃する人たちも、自粛警察と言われるような人たちもそんな類の人たちなのだろう。彼らもきっと心の中では生きづらさの中を生きているのだと思う。


風の谷も未来少年コナンの舞台となるハイハーバーも人口規模では500人程度の集団という設定だそうだ。どちらも高度に発達した文明が崩壊し非常に原始的な生産活動で村を維持しており国家元首や王というような存在がいない共同体のような世界に見える。
これは社会学的な話で、宮崎駿が表現したい生死感や人生観の範疇ではないのであろうが、この時代を生きる上でのグローバル化へのアンチテーゼのようにも思うのだ。

たかがアニメという言意味では、単に世界の歴史のトピックや当時の科学の話題を繋ぎ合わせて物語を作っているのだろうと思うとこころもあるのだが、マスクをしなければ死んでしまうような時代を予言しているという部分だけを取ったとしてもこの物語は現代に生み出された黙示録ではなかったのかと思えてくるのである。

この本は2019年に出版されているのでコロナウイルスの蔓延ということを著者は知らないはずだ。
もし、2年遅れてこの本を著者が書いたとしたら、どんな回答を得たのだろうか。それも知ってみたいと思うのだ。

コメント
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