切通理作 「怪獣少年の〈復讐〉 ~ 70年代怪獣ブームの光と影 」読了
ウルトラセブンの放送開始が1967年10月、帰ってきたウルトラマンは1971年4月、仮面ライダーも同じ月に始まり、V3は1973年2月が始まりだ。
日本の特撮ヒーローものの全盛期が始まった時代である。僕は1964年生まれなのでご多分に漏れず物心がつく頃からヒーローに熱狂していた。
著者も1964年生まれということなのでまったく同じ体験をしていたことになる。その著者がウルトラマンシリーズを中心に、当時の子供たちにとって特撮ヒーローとはどんな存在であったのかということを当時の制作に携わった脚本家や演出家たちのインタビューを通して考えている。
子供の頃の僕は特撮ヒーローにどんな形で対峙していたかというと、家にはテレビが1台、もちろんビデオもない中で、ウルトラマンや仮面ライダーが始まる時間には夕飯とお風呂を終えてテレビの前にスタンバイをしていた。しかし、この2番組はなんとか見せてもらえてはいたものの、ここで姉とのチャンネル争いが勃発し、ほとんどのヒーローは観ることは叶わなかった。なんとか見せてもらっていたのはキカイダーを途中からとバロムワンくらいではなかっただろうか。イナズマンは絶対に観たいと思っていたがそれはかなわぬ夢だった・・。
そして、この頃の学童雑誌にはこういったヒーローの情報がいち早く掲載され、友達の中では一番の共通の話題になる。しかし、家が貧乏だったから親の方針だったからなのか、そんな雑誌は風邪をひいてお医者さんで注射を打たれたあとでなければ買ってもらえない代物であった。真向かいに住んでいる同級生の家にはほとんどすべてが揃っていて、それを読ませてもらうというのが唯一の情報源であった。今でも覚えているのは、帰ってきたウルトラマンの後継番組は雑誌の情報では、「ウルトラA」と題されていたが放送が開始されると、「ウルトラマンA」ってなっていて、アレレレ・・・と思ったことだ。しかし、最終的には僕はとりあえず大学まで進んだが、彼は高卒で就職をしたところをみると、ひょっとしてそれらは悪書の部類に入っていたのかもしれない。(それが幸福であったかどうかというのは別の話ではあるが・・。)
自分のイメージの中ではウルトラマンより仮面ライダーにすごく傾倒していたように思っていた。放送開始時期を見てみると仮面ライダーは始まりからドンピシャであったというところがあるが、ストーリー自体もウルトラマンには当時の社会問題を巧みに反映させてドラマを作っていたというところがあり、そういうストーリーが子供たちには理解しづらかったということもあったようだ。
公害、差別、友情、親子関係、侵略とは・・・、そういったものがテーマにされていたのは当時の脚本家の顔ぶれが戦争を体験したひとであったり、沖縄出身であったり、また、学生時代に全共闘運動を体験した人であったりしたためだ。
確かに、ウルトラマンシリーズのドラマ部分というのは少し画像も暗く、シリアスなドラマ風なものも多かったように思う、主人公である変身前の若者の苦悩や、正義のために戦っている人たちに浴びせられる罵声、子供ごころにそれらは恐ろしいものに映っていたのかもしれない。早く変身して怪獣と戦ってくれないかなと思って観ていたのだろうと思う。
逆に、仮面ライダーシリーズはストーリーが単純であった。相手の目的は世界征服ただひとつで、それを仮面ライダーが阻止するというそれだけであった。しかし、ショッカーは世界征服を掲げながらやることといったら幼稚園バスを襲ったり下水に毒薬を流したりとけっこうショボいことをやっていた。まあ、いまでこそそう思うけれども当時はそれでも手に汗を握ってみていたはずだ。まあ、これはきっと松竹新喜劇と吉本新喜劇との違いといったところだろうか。
たかが子供向けの30分番組にそれほど大人たちが真剣に向き合っていたのだろうかと思うところもあるけれども、この本はまさにその現場に携わっていた人たちの証言であり、それはたとえ子供相手であろうが真剣にものづくりをしていたということが伝わる内容だ。
そこには、人はどう生きるべきかという哲学と、子供たちへのイニシエーションをうながそうというような思いが込められていた。
この時期のウルトラシリーズは、子供が成長していく過程に、怪獣やウルトラマンがあった。そして最後は想像の中の怪獣が本当に出現し、ウルトラシリーズがやっつけたことで、その子は最後に怪獣からもウルトラマンからも卒業するという話が多い。
怪獣は子供が成長する中で見ることのできる存在であり、最後は子供をひとり残して去っていくのである。
最終回には決まって少年とヒーローの別れが待っている。少年はいつまでもヒーローを追いかけるのではなく、どこかのシーンで向きを変えてひとつの区切りを迎える。
そんなドラマ仕立てなのである。
ただ、「ウルトラ五つの誓い」というのを改めて読んでみるとほんまかいなと思うところもないではないが・・・。
「ウルトラ五つの誓い」とはこんな内容であった。
一つ、腹ペコのまま学校へ行かぬこと
一つ、天気のいい日に布団を干すこと
一つ、道を歩く時には車に気をつけること
一つ、他人の力を頼りにしないこと
一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと
ウルトラマンも布団を被って寝ていたのだろうかと不思議に思うのだ。
現代のヒーローはというと、たくさんのコンテンツの中に埋もれてしまわないよう何か突き抜けたものが必要と奇をてらったものが多くなったというけれども、それでもやっぱりそこには作り手が伝えたいメッセージがあるように思う。子供が小さかったころや勤務地が近かったころには日曜日の朝によく観たけれども、悪と正義の境目のあやふやさや師匠と弟子のありかた、そんなものを僕は感じた。
悪と正義は太極の考えにつながるものがあったし、師匠と弟子のストーリーには、守破離という考えが色濃く出されていた。
やはりそこには一所懸命にものづくりに挑んでいる人たちがいるのだと感じるのである。
そういったストーリー以外にも面白いエピソードも書かれていた。ウルトラ兄弟というのは本当の兄弟ではなかったというのは有名な話だが、ヒーローたちを兄弟に仕立てるというヒントは、当時流行っていたやくざ映画に倣って「義兄弟」にするという発想だったそうだ。
また、ウルトラの父とウルトラの母の実子はウルトラマンタロウだけなのだが、ウルトラの父の回想にはこんな内容があった。「ウルトラマンタロウが生まれて1万8千年もたったなあ。頭にはかわいいつのがはえていて・・。」ということは、彼らのあの姿というのはやっぱり素肌があれだったのかと確信した。まあ、どうでもいいことだが・・。
制作者のひとりの言葉にはこんなものがあった。『まとめて言っちゃうとね、全部「自由」ってことなんですよ。発想自由ならテーマも自由。』確かに自由だ。
ウルトラマンレオというのはもうさすがに観ていないのだが、この物語にはアンヌ隊員が再登場する回があるそうで、子供を連れて登場しているそうだ。その子供というのが、ウルトラマン一族そっくりらしく、一説ではモロホシダンの子供ではないかと言われているそうだ。アンヌ隊員の大ファンの僕としてはこれは観ずにはおれないと思うのである。
この本の内容とはまったく関係がないがもうひとつ発見したことがある。つい最近、SF映画の古典である、「禁断の惑星」というのを観たのだが、登場人物のコスチュームが科学特捜隊のコスチュームと瓜二つであったのだ。禁断の惑星の方が制作時期が早いので円谷プロがパクったということになると思うのだが、あの独特なコスチュームのルーツがこんなところにあったのかということを発見してひとりほくそ笑んでいる僕は死ぬまで大人にはなれないと悲しくもなってくるのである。

最後の章は、著者と作家の福井晴敏の対談になっているのだが、作家の目線というのも独特だと感じた。
ひとつは、ウルトラの国の人たちは地球人をどう見ていたのだろうかという疑問だ。歴代のウルトラヒーローたちは地球を守るために戦い、あるヒーローは命を落とし、あるヒーローは体をボロボロにして故郷へ帰ってゆく。彼らにしてみたら、縁もゆかりもない星を守るために体がボロボロになるまで戦うがその星からは何の感謝も見返りもない。あの星は一体何なんだと・・。挙句の果てにこれもウルトラマンレオでのエピソードだが、地球に衝突しそうになるウルトラの国を破壊しようとする。そんな星を守る必要があるのかという反論がヒーローたちの間から出なかったのであろうかというのである。会社のために心を病んでも会社は何もしてくれないという今の時代を先取りしていたかのようだ。
またゾフィーを中間管理職の悲哀に例えているのも面白い。ウルトラマンタロウはウルトラの父と母の実子なのだが、とうとう地球を守るという過酷な使命に向かわせられる。
タロウはウルトラ兄弟の支援を最も受けたヒーローのひとりだそうだが、それも宇宙警備隊の大隊長であるウルトラの父に忖度しての行動であったのではなかろうかというのである。
宇宙警備隊の小隊長のゾフィーとしては、部下のウルトラマンやセブンになんとかしてやってくれよと泣きつくしかなかったのだというのである。そして自らも命を落とすのである。(もちろん、後々には生き返ることになるのだが・・。)
もう、ここまで来たら本当に発想は自由だということになるのだが、それもこの時代を生きてきたから想像できるのであって、偶然にもこの世代に生まれたということはありがたいと思ったりもするのである。
ウルトラセブンの放送開始が1967年10月、帰ってきたウルトラマンは1971年4月、仮面ライダーも同じ月に始まり、V3は1973年2月が始まりだ。
日本の特撮ヒーローものの全盛期が始まった時代である。僕は1964年生まれなのでご多分に漏れず物心がつく頃からヒーローに熱狂していた。
著者も1964年生まれということなのでまったく同じ体験をしていたことになる。その著者がウルトラマンシリーズを中心に、当時の子供たちにとって特撮ヒーローとはどんな存在であったのかということを当時の制作に携わった脚本家や演出家たちのインタビューを通して考えている。
子供の頃の僕は特撮ヒーローにどんな形で対峙していたかというと、家にはテレビが1台、もちろんビデオもない中で、ウルトラマンや仮面ライダーが始まる時間には夕飯とお風呂を終えてテレビの前にスタンバイをしていた。しかし、この2番組はなんとか見せてもらえてはいたものの、ここで姉とのチャンネル争いが勃発し、ほとんどのヒーローは観ることは叶わなかった。なんとか見せてもらっていたのはキカイダーを途中からとバロムワンくらいではなかっただろうか。イナズマンは絶対に観たいと思っていたがそれはかなわぬ夢だった・・。
そして、この頃の学童雑誌にはこういったヒーローの情報がいち早く掲載され、友達の中では一番の共通の話題になる。しかし、家が貧乏だったから親の方針だったからなのか、そんな雑誌は風邪をひいてお医者さんで注射を打たれたあとでなければ買ってもらえない代物であった。真向かいに住んでいる同級生の家にはほとんどすべてが揃っていて、それを読ませてもらうというのが唯一の情報源であった。今でも覚えているのは、帰ってきたウルトラマンの後継番組は雑誌の情報では、「ウルトラA」と題されていたが放送が開始されると、「ウルトラマンA」ってなっていて、アレレレ・・・と思ったことだ。しかし、最終的には僕はとりあえず大学まで進んだが、彼は高卒で就職をしたところをみると、ひょっとしてそれらは悪書の部類に入っていたのかもしれない。(それが幸福であったかどうかというのは別の話ではあるが・・。)
自分のイメージの中ではウルトラマンより仮面ライダーにすごく傾倒していたように思っていた。放送開始時期を見てみると仮面ライダーは始まりからドンピシャであったというところがあるが、ストーリー自体もウルトラマンには当時の社会問題を巧みに反映させてドラマを作っていたというところがあり、そういうストーリーが子供たちには理解しづらかったということもあったようだ。
公害、差別、友情、親子関係、侵略とは・・・、そういったものがテーマにされていたのは当時の脚本家の顔ぶれが戦争を体験したひとであったり、沖縄出身であったり、また、学生時代に全共闘運動を体験した人であったりしたためだ。
確かに、ウルトラマンシリーズのドラマ部分というのは少し画像も暗く、シリアスなドラマ風なものも多かったように思う、主人公である変身前の若者の苦悩や、正義のために戦っている人たちに浴びせられる罵声、子供ごころにそれらは恐ろしいものに映っていたのかもしれない。早く変身して怪獣と戦ってくれないかなと思って観ていたのだろうと思う。
逆に、仮面ライダーシリーズはストーリーが単純であった。相手の目的は世界征服ただひとつで、それを仮面ライダーが阻止するというそれだけであった。しかし、ショッカーは世界征服を掲げながらやることといったら幼稚園バスを襲ったり下水に毒薬を流したりとけっこうショボいことをやっていた。まあ、いまでこそそう思うけれども当時はそれでも手に汗を握ってみていたはずだ。まあ、これはきっと松竹新喜劇と吉本新喜劇との違いといったところだろうか。
たかが子供向けの30分番組にそれほど大人たちが真剣に向き合っていたのだろうかと思うところもあるけれども、この本はまさにその現場に携わっていた人たちの証言であり、それはたとえ子供相手であろうが真剣にものづくりをしていたということが伝わる内容だ。
そこには、人はどう生きるべきかという哲学と、子供たちへのイニシエーションをうながそうというような思いが込められていた。
この時期のウルトラシリーズは、子供が成長していく過程に、怪獣やウルトラマンがあった。そして最後は想像の中の怪獣が本当に出現し、ウルトラシリーズがやっつけたことで、その子は最後に怪獣からもウルトラマンからも卒業するという話が多い。
怪獣は子供が成長する中で見ることのできる存在であり、最後は子供をひとり残して去っていくのである。
最終回には決まって少年とヒーローの別れが待っている。少年はいつまでもヒーローを追いかけるのではなく、どこかのシーンで向きを変えてひとつの区切りを迎える。
そんなドラマ仕立てなのである。
ただ、「ウルトラ五つの誓い」というのを改めて読んでみるとほんまかいなと思うところもないではないが・・・。
「ウルトラ五つの誓い」とはこんな内容であった。
一つ、腹ペコのまま学校へ行かぬこと
一つ、天気のいい日に布団を干すこと
一つ、道を歩く時には車に気をつけること
一つ、他人の力を頼りにしないこと
一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと
ウルトラマンも布団を被って寝ていたのだろうかと不思議に思うのだ。
現代のヒーローはというと、たくさんのコンテンツの中に埋もれてしまわないよう何か突き抜けたものが必要と奇をてらったものが多くなったというけれども、それでもやっぱりそこには作り手が伝えたいメッセージがあるように思う。子供が小さかったころや勤務地が近かったころには日曜日の朝によく観たけれども、悪と正義の境目のあやふやさや師匠と弟子のありかた、そんなものを僕は感じた。
悪と正義は太極の考えにつながるものがあったし、師匠と弟子のストーリーには、守破離という考えが色濃く出されていた。
やはりそこには一所懸命にものづくりに挑んでいる人たちがいるのだと感じるのである。
そういったストーリー以外にも面白いエピソードも書かれていた。ウルトラ兄弟というのは本当の兄弟ではなかったというのは有名な話だが、ヒーローたちを兄弟に仕立てるというヒントは、当時流行っていたやくざ映画に倣って「義兄弟」にするという発想だったそうだ。
また、ウルトラの父とウルトラの母の実子はウルトラマンタロウだけなのだが、ウルトラの父の回想にはこんな内容があった。「ウルトラマンタロウが生まれて1万8千年もたったなあ。頭にはかわいいつのがはえていて・・。」ということは、彼らのあの姿というのはやっぱり素肌があれだったのかと確信した。まあ、どうでもいいことだが・・。
制作者のひとりの言葉にはこんなものがあった。『まとめて言っちゃうとね、全部「自由」ってことなんですよ。発想自由ならテーマも自由。』確かに自由だ。
ウルトラマンレオというのはもうさすがに観ていないのだが、この物語にはアンヌ隊員が再登場する回があるそうで、子供を連れて登場しているそうだ。その子供というのが、ウルトラマン一族そっくりらしく、一説ではモロホシダンの子供ではないかと言われているそうだ。アンヌ隊員の大ファンの僕としてはこれは観ずにはおれないと思うのである。
この本の内容とはまったく関係がないがもうひとつ発見したことがある。つい最近、SF映画の古典である、「禁断の惑星」というのを観たのだが、登場人物のコスチュームが科学特捜隊のコスチュームと瓜二つであったのだ。禁断の惑星の方が制作時期が早いので円谷プロがパクったということになると思うのだが、あの独特なコスチュームのルーツがこんなところにあったのかということを発見してひとりほくそ笑んでいる僕は死ぬまで大人にはなれないと悲しくもなってくるのである。


最後の章は、著者と作家の福井晴敏の対談になっているのだが、作家の目線というのも独特だと感じた。
ひとつは、ウルトラの国の人たちは地球人をどう見ていたのだろうかという疑問だ。歴代のウルトラヒーローたちは地球を守るために戦い、あるヒーローは命を落とし、あるヒーローは体をボロボロにして故郷へ帰ってゆく。彼らにしてみたら、縁もゆかりもない星を守るために体がボロボロになるまで戦うがその星からは何の感謝も見返りもない。あの星は一体何なんだと・・。挙句の果てにこれもウルトラマンレオでのエピソードだが、地球に衝突しそうになるウルトラの国を破壊しようとする。そんな星を守る必要があるのかという反論がヒーローたちの間から出なかったのであろうかというのである。会社のために心を病んでも会社は何もしてくれないという今の時代を先取りしていたかのようだ。
またゾフィーを中間管理職の悲哀に例えているのも面白い。ウルトラマンタロウはウルトラの父と母の実子なのだが、とうとう地球を守るという過酷な使命に向かわせられる。
タロウはウルトラ兄弟の支援を最も受けたヒーローのひとりだそうだが、それも宇宙警備隊の大隊長であるウルトラの父に忖度しての行動であったのではなかろうかというのである。
宇宙警備隊の小隊長のゾフィーとしては、部下のウルトラマンやセブンになんとかしてやってくれよと泣きつくしかなかったのだというのである。そして自らも命を落とすのである。(もちろん、後々には生き返ることになるのだが・・。)
もう、ここまで来たら本当に発想は自由だということになるのだが、それもこの時代を生きてきたから想像できるのであって、偶然にもこの世代に生まれたということはありがたいと思ったりもするのである。