角田光代、江國香織、井上荒野、森絵都 「チーズと塩と豆と」読了
四人の直木賞作家のアンソロジーだ。それも書き下ろしらしい。
井上荒野がそのひとりに含まれていたので手に取ってみたのだが、そのほかの3名の作家も興味を引く。
すべての作品は、食べ物と愛をテーマにして書かれている。
角田光代はバスク地方(スペイン)、井上荒野はピエモンテ州(イタリア)、森絵都はブルターニュ地方(フランス)、江國香織はアレンテージョ地方(ポルトガル)を舞台にし、主人公や登場人物もすべて現地の外国人であるということも共通している。
角田光代と森絵都の作品はプロットはよく似ていて、故郷や家族を嫌って地元を飛び出したものの、結局は故郷の味と生活に無意識的に引き戻されていくというようなものだ。
味覚は後天的なものであるというのは「あなたはなぜ「カリカリベーコンのにおい」に魅かれるのか」にも書かれていたことであるが、良くも悪くも小さいころの味を死ぬまで引きずって生きていくのだろうなと思うのである。
しかし、その土地に根付いた味覚を持っているということはある意味それは幸せなことだはないのかとも思う。
それがなければ人は根無し草になってしまう。心の強い人間であればそれでも十分生きてゆけるのであろうが、僕には不安で仕方がない。僕にとってそういうものは母が作ってきた料理しかない。しかしそれは、今考えればただの手抜き料理でしかなかった。なぜか母も祖母が作ってきた味というのもを持っていなかったように思う。それはそうだろう、スーパーで買ってきた安い食材を使って内職の合間に作っていたのだから・・。戦中戦後を生き抜き、高度経済成長前の苦しい時代を貧しさのなかで生きてきたのだから伝統の前に働かなければとということがあったのだと思う。
かつて生計を立てることと生活が一体化していた時代、ひとの労働時間は1日3、4時間ほどであったらしい。時間に余裕があったということだ。だからその土地共通の生活と伝統が受け継がれる余裕があった。それが、産業革命以降、労働と生活が切り離され、一見豊かになったように見えるけれどもそれは土地に根付いた生活を失うことであった。それが今も続いていてこういう小説のプロットになっていくということか。
だから僕のような読者には共感を覚えることになるのだろう。ベーコンをきかっけにこの本にたどり着けたというのは幸運であった。
四人の直木賞作家のアンソロジーだ。それも書き下ろしらしい。
井上荒野がそのひとりに含まれていたので手に取ってみたのだが、そのほかの3名の作家も興味を引く。
すべての作品は、食べ物と愛をテーマにして書かれている。
角田光代はバスク地方(スペイン)、井上荒野はピエモンテ州(イタリア)、森絵都はブルターニュ地方(フランス)、江國香織はアレンテージョ地方(ポルトガル)を舞台にし、主人公や登場人物もすべて現地の外国人であるということも共通している。
角田光代と森絵都の作品はプロットはよく似ていて、故郷や家族を嫌って地元を飛び出したものの、結局は故郷の味と生活に無意識的に引き戻されていくというようなものだ。
味覚は後天的なものであるというのは「あなたはなぜ「カリカリベーコンのにおい」に魅かれるのか」にも書かれていたことであるが、良くも悪くも小さいころの味を死ぬまで引きずって生きていくのだろうなと思うのである。
しかし、その土地に根付いた味覚を持っているということはある意味それは幸せなことだはないのかとも思う。
それがなければ人は根無し草になってしまう。心の強い人間であればそれでも十分生きてゆけるのであろうが、僕には不安で仕方がない。僕にとってそういうものは母が作ってきた料理しかない。しかしそれは、今考えればただの手抜き料理でしかなかった。なぜか母も祖母が作ってきた味というのもを持っていなかったように思う。それはそうだろう、スーパーで買ってきた安い食材を使って内職の合間に作っていたのだから・・。戦中戦後を生き抜き、高度経済成長前の苦しい時代を貧しさのなかで生きてきたのだから伝統の前に働かなければとということがあったのだと思う。
かつて生計を立てることと生活が一体化していた時代、ひとの労働時間は1日3、4時間ほどであったらしい。時間に余裕があったということだ。だからその土地共通の生活と伝統が受け継がれる余裕があった。それが、産業革命以降、労働と生活が切り離され、一見豊かになったように見えるけれどもそれは土地に根付いた生活を失うことであった。それが今も続いていてこういう小説のプロットになっていくということか。
だから僕のような読者には共感を覚えることになるのだろう。ベーコンをきかっけにこの本にたどり着けたというのは幸運であった。