阿部修士 「あなたはこうしてウソをつく」読了
この本によると、人は平均して1日に1回ウソをつくそうだ。学生は1日に2回。確かに言われてみれば・・・。
この本の始まりはどうしてウソをついてしまうかではなく、ウソは見抜けるかということから始まっている。まずは“ウソ”というものが定義できるのかということを言っているのだろうか。
人はどれくらいウソを見抜けるかというのは、とある研究の結果では54%だったそうだ。嘘か誠かあてずっぽうに言っても確率は50%だからウソはほぼ見抜けないということだ。
それはどうしてか、いくつかの要因が挙げられている。ひとつは、人は他人の言っていることを真実であると判断する傾向が高いという「真実バイアス」。ひとつは、真実を知りたい一方でその内容や状況によってはむしろ真実を知りたくないと欲する「現実逃避効果」そのほかいくつかの要因が挙げられていたが、まとめてみると、みんなウソから遠ざかりたいと思っていることが原因のような気がする。
そして、すぐにウソをついてしまう理由にはこんなものがある。ウソをついたことに関する記憶は他の記憶に比べて時間経過とともに曖昧になりやすいという「非倫理的健忘」、そしてひとは大概、ウソをつくのが上手いと思っているふしがある。ウソをつくことが上手だと思っている人ほどシンプルなウソをつき、真実の中にウソを埋め込み、もっともらし説明を追加する戦略を利用するそうだが、これを読んで、確かにそうだと思う人は多いのではないだろうか。それでもひとはよほど自分は正直者であるということは維持したいらしく、ほとんどの人は、小さなウソしかつけない。それも、ウソをつける状況があればという条件付きでだ。
では、どんなときにウソをつくのか。
ひとつは、親や兄弟にはしょっちゅうウソをつくものの、友人相手にはそれほどウソをつかないという、状況特異的というものである。ひとつは疲れた時。ウソが増える時間帯はお昼前が多いそうだ。これはイスラエルでの刑務所の仮釈放委員会での観察から証明されたそうだが、人生が昼飯で左右されるというのは恐ろしい。確かに、お昼前というのは特殊な時間帯であるようで、ややこしいクレームを言ってくる客にはお昼前に電話をすると解決しやすいというのは僕の中では定説になっていた。
これは、時間の余裕がないとウソをつくという現象にもつながるのかもしれない。奥様方はその時間、昼食作りに忙しいからなのかもしれないと僕は思っている。
ひとつは、他人の利益になるのならウソをついても道徳的にもあまり悪いとはされないと考える人が多い。これには、オキシトシンが関わっているという説がある。“愛ゆえ”である。
また、協力者がいるとウソを増幅させるという実験結果もあるそうだ。
そして、どういうひとがウソをつくのかということにも触れられている。
これは、女性よりも男性のほうが明らかにウソをつく。これは自分自身のことを考えると間違いがないと実感できる。しかしそれは、生物としてではなく、シチュエーションとしてウソをつかねばならない、もしくはウソをついてしまう場面が女性よりも多いということなのではないかとも思うのだがどうなんだろうか。
また、職業のアイデンティティもウソをつかせるという。これは状況特異的と似ているのかもしれないが、「俺は偉いのだからウソをついてもかまわない。」というような心理もあるのかもしれない。だから政治家のセンセイ方もよくウソをついてしまうのだろう。
これは間違いないと思うのは、欲張りはウソをつきやすいということだろう。報酬への欲求がウソをつかせるというのは直感でもわるほど納得できる。
そんなとき、脳の中ではどんなことが起っているのだろうか。
ウソをつくときには、脳の前頭前野というところの働きが活発になるらしい。虚言癖というような病的な人を別にして、どんな人でもウソをつくときには多少なりとも後ろめたさを感じる。それは、背外側頭前野というところがカギを握っているらしい。正直者には必要ないが、欲深い人はこの場所の活動によってウソをついてでも報酬を得たいという衝動の抑制がおこなわれているそうだ。どうも僕はこの部分の働きが鈍いようだ。
この本にはこういったウソをつくことに関する実験結果がたくさん書かれているが、こういう実験には再現性のないものも多いと書かれている。それは相当個人差によっているということで、人体の構造上によるものではないということを物語っている。
再現性がないという、科学の世界では致命的なことを抱えながらもなぜ著者は研究を続けるのかというと、昨今多くなってきたフェイクニュースに対応したり、AIがウソをつかないように制御する仕組みをつくる際に役立つ知見になるのではないかということからだそうだ。AIがウソをつく可能性があるのかどうかわからないが、ウソの世界も奥が深そうだ。
最後の章では、性善説と性悪説を基に人がウソをつくことについて考えている。
性善説の視点に立てば、正直に行動するということは自然と発現し、ウソをつくというような悪行は高次な認知機能だと考えられる。性悪説の側に立つと、ウソをついて利益を得ることができるのならウソをつくことはむしろ自然な行為であるとなる。
僕なんか性根が悪いからやっぱりこれは性悪説を支持したいと思うのだが、真実はどっちなんだろうか・・・。
この本によると、人は平均して1日に1回ウソをつくそうだ。学生は1日に2回。確かに言われてみれば・・・。
この本の始まりはどうしてウソをついてしまうかではなく、ウソは見抜けるかということから始まっている。まずは“ウソ”というものが定義できるのかということを言っているのだろうか。
人はどれくらいウソを見抜けるかというのは、とある研究の結果では54%だったそうだ。嘘か誠かあてずっぽうに言っても確率は50%だからウソはほぼ見抜けないということだ。
それはどうしてか、いくつかの要因が挙げられている。ひとつは、人は他人の言っていることを真実であると判断する傾向が高いという「真実バイアス」。ひとつは、真実を知りたい一方でその内容や状況によってはむしろ真実を知りたくないと欲する「現実逃避効果」そのほかいくつかの要因が挙げられていたが、まとめてみると、みんなウソから遠ざかりたいと思っていることが原因のような気がする。
そして、すぐにウソをついてしまう理由にはこんなものがある。ウソをついたことに関する記憶は他の記憶に比べて時間経過とともに曖昧になりやすいという「非倫理的健忘」、そしてひとは大概、ウソをつくのが上手いと思っているふしがある。ウソをつくことが上手だと思っている人ほどシンプルなウソをつき、真実の中にウソを埋め込み、もっともらし説明を追加する戦略を利用するそうだが、これを読んで、確かにそうだと思う人は多いのではないだろうか。それでもひとはよほど自分は正直者であるということは維持したいらしく、ほとんどの人は、小さなウソしかつけない。それも、ウソをつける状況があればという条件付きでだ。
では、どんなときにウソをつくのか。
ひとつは、親や兄弟にはしょっちゅうウソをつくものの、友人相手にはそれほどウソをつかないという、状況特異的というものである。ひとつは疲れた時。ウソが増える時間帯はお昼前が多いそうだ。これはイスラエルでの刑務所の仮釈放委員会での観察から証明されたそうだが、人生が昼飯で左右されるというのは恐ろしい。確かに、お昼前というのは特殊な時間帯であるようで、ややこしいクレームを言ってくる客にはお昼前に電話をすると解決しやすいというのは僕の中では定説になっていた。
これは、時間の余裕がないとウソをつくという現象にもつながるのかもしれない。奥様方はその時間、昼食作りに忙しいからなのかもしれないと僕は思っている。
ひとつは、他人の利益になるのならウソをついても道徳的にもあまり悪いとはされないと考える人が多い。これには、オキシトシンが関わっているという説がある。“愛ゆえ”である。
また、協力者がいるとウソを増幅させるという実験結果もあるそうだ。
そして、どういうひとがウソをつくのかということにも触れられている。
これは、女性よりも男性のほうが明らかにウソをつく。これは自分自身のことを考えると間違いがないと実感できる。しかしそれは、生物としてではなく、シチュエーションとしてウソをつかねばならない、もしくはウソをついてしまう場面が女性よりも多いということなのではないかとも思うのだがどうなんだろうか。
また、職業のアイデンティティもウソをつかせるという。これは状況特異的と似ているのかもしれないが、「俺は偉いのだからウソをついてもかまわない。」というような心理もあるのかもしれない。だから政治家のセンセイ方もよくウソをついてしまうのだろう。
これは間違いないと思うのは、欲張りはウソをつきやすいということだろう。報酬への欲求がウソをつかせるというのは直感でもわるほど納得できる。
そんなとき、脳の中ではどんなことが起っているのだろうか。
ウソをつくときには、脳の前頭前野というところの働きが活発になるらしい。虚言癖というような病的な人を別にして、どんな人でもウソをつくときには多少なりとも後ろめたさを感じる。それは、背外側頭前野というところがカギを握っているらしい。正直者には必要ないが、欲深い人はこの場所の活動によってウソをついてでも報酬を得たいという衝動の抑制がおこなわれているそうだ。どうも僕はこの部分の働きが鈍いようだ。
この本にはこういったウソをつくことに関する実験結果がたくさん書かれているが、こういう実験には再現性のないものも多いと書かれている。それは相当個人差によっているということで、人体の構造上によるものではないということを物語っている。
再現性がないという、科学の世界では致命的なことを抱えながらもなぜ著者は研究を続けるのかというと、昨今多くなってきたフェイクニュースに対応したり、AIがウソをつかないように制御する仕組みをつくる際に役立つ知見になるのではないかということからだそうだ。AIがウソをつく可能性があるのかどうかわからないが、ウソの世界も奥が深そうだ。
最後の章では、性善説と性悪説を基に人がウソをつくことについて考えている。
性善説の視点に立てば、正直に行動するということは自然と発現し、ウソをつくというような悪行は高次な認知機能だと考えられる。性悪説の側に立つと、ウソをついて利益を得ることができるのならウソをつくことはむしろ自然な行為であるとなる。
僕なんか性根が悪いからやっぱりこれは性悪説を支持したいと思うのだが、真実はどっちなんだろうか・・・。