カルロ・ロヴェッリ/著 冨永星/訳 『世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論』読了
新たな量子論に関する本を見つけた。ちょっと話題になっている本らしく、書評欄ではないところの朝日新聞の記事の中にも2回出てきていた。「関係」というワードが、人と環境、人と人との関係性になぞらえて使われたのかもしれないが、世界と「関係」はどういった関係があるのだろうかと思いながら読み始めた。
量子論というと、どんな本を読んでも摩訶不思議な話でいまいちどころかほぼ理解できない。もちろん文系の凡人が簡単に理解できるほどのものではないのも確かなものではあるというのはわかりきっていて、この本も最初の部分はその摩訶不思議な世界を解説している。
量子論では「重ね合わせ」や「確率論」のように、物質を構成する原子よりも小さなレベルではそこに実態があるのかどうかが非常にあやふやなのである。そして、そのあやふやな状態がどうして実体として収束するのかというと、それは観測者が観測したからだというのが量子論の核心のひとつである。
有名なシュレーディンガーの猫のパラドックスや電子の雲のように、観測されない限りはその状態は重ね合わさったような状態でありその収束の形は確率的でありそれが実体がないということの根拠になる。
そしてそこに、観測者と観測対象に「関係」が生まれというのである。『観測者自身も自然世界の一部であるのなら、どうして実体を決定づけられるような特権を持っているのか。「観測とは何か」「観測者とは何なのか」という問いによって、私達はついにこの本の主要な概念である、関係へと導かれる。』と書かれている。
この問いはハイゼンベルグが提起したものだそうだが、この本の原題である「Helgoland」はハイゼンベルグがこの問題提起を思索した場所がドイツのヘルゴランド島であり、著者自身もこの場所で「関係」について思いを巡らせていたのである。
ハイゼンベルグは、量子は波のようでもあり粒のようでもあり、観測されない限り確率論的に存在しているという、不確定性原理を発見した科学者である。
観測者とて神ではない。だから観測されるものとも同等である。だから観測されるものは絶対的に支配されているのではなく、すべて”関係”しているのだというのである。
もちろん、これは量子という極微小な世界での話なのであるが、著者はそれを人間サイズの世界にも当てはめようとしてみる。
その対象として、レーニン「唯物論と経験批判論」という論文を揚げている。レーニンというと、バリバリの社会主義の指導者で物理学とはまったく無縁の人のように思うが、この論文の中で、量子論の確立に大きな影響を与えたエルンスト・マッハや政敵であったボグダーノフを観念論者だと批判している。『観念論者は精神の外側に現実の世界が存在することを否定して、実在を意識の中身へと矮小化する。「感覚」だけが現実であるならば、外側の世界は存在しないことになる。』と、確かにこっちのほうが正論なのではないかと思うけれども、それを具現化したのが共産主義で、それが失敗だったと確定した現代ではやはり人はモノだけでは生きていけず、”意識”と”現実”との”関係”も必要だったということだろうか。
そのほか、関係というものついては、遺伝情報や進化も時の流れのなかの”関係”なのだと書かれている。
情報というものの定義として、無数にある選択肢の中から、確率的に限定できるものがある場合を相対情報と言う。量子論では、観測されないかぎり状態は確率が重ね合わされた状態になっているという。その確率はΨという文字で表される。
SFで語られる「他世界解釈」とは、Ψという波を確率とは解釈せず、あるがままの世界をきちんと記述する実体ある何かと捉える解釈で、確率的に出現しうる無数の世界が存在するという解釈であるが、見方を変えると観測する人によって世界が変わるとも取れる。
例えば、僕が観測される側であったとする。Aさんが見る僕、Bさんが見る僕、Cさん、Dさん・・・と僕は観測する人によって無数の僕がいることになる。著者はそれを「関係」と呼ぶのだが、そうなると、実態としての僕は意味をなさず、それぞれの人の中に印象として現れる僕が「関係」としては重要になってくる。こう書かれると人が生きてゆく上では確かに実体よりも相手(=観測者)が持つ自分(=被観測者)の印象のほうが大切な気がするのである。
それを『世界は「関係」でできている』と表現する著者の考えは確かにその通りだと思う。
しかし、この考え方が著者の独創的な考えであるとは思えない。年末年始、3連休もしたけれども、ベーコン作り以外は暇だったので新世紀エヴァンゲリオンを録画したものを見ていた。このアニメはロボットアニメではあるけれども、主人公の少年が自分の存在意義について思い悩む成長物語でもある。その物語の1シーンに著者が考える「関係」とまったく同じものがある。ネルフのメンバーや同じ巨大ロボットに乗る仲間の心の中に居る自分と実体である自分、どの自分が自分なのであろうかと思い悩むのである。他人が期待する自分を演じている自分は果たして自分なのであろうか・・。それはまさに重ね合わされた自分の姿である。
ついでにいうと、この物語には、ゼーレという世界の観察者ともいえる組織が登場する。その組織が主人公の父親たちを使って「人類保管計画」というものを遂行しているのだが、最後は神のように外部世界の観察者ではなく人間たちと同じ世界の観察者であったと描かれている。人類補完計画というものは詳しく描かれていないけれども、どうやら人の実体を消し去り精神を融合させるというようなもののようであるがまさに量子の世界に戻ってゆくような内容であった。
庵野秀明が仏教観を持った人かどうかは知らないが、もともと仏教の思想では、この世界は幻のようなものであり実体がないものだという「空」という考え方がある。このアニメも庵野秀明の個人的な経験に加えてそういったものも取り入れながら作られているようにも思え、こういう考えは東洋世界では古くからあったものである。30年も前にすでにそういった考えを表現していた人がいたのである。
それが、たまたまなのか、必然なのか、最先端の物質科学である量子論と結びついてきたというのがある意味驚きだったのである。
この本は、科学の解説書のように見えるが、実は唯物論と観念論がぶつかり合う哲学書であったのではないかと思うのである。だから、原題は「Helgoland」で、量子論という言葉が入っていなかったのだと考えた。
量子論について、こういうことなのかとわかったようでわからなかったことをいくつか追記しておこうと思う。
量子の世界は確率の世界で、観測されるまではその確率が重ね合わさった状態であるのだが、それを数式に表すときに、変数は行列を使うそうだ。行列の括弧の中の数字(成分)のひとつひとつが確率的に出現する世界を表しているらしい。数列とか行列というのは高校時代に数学の時間に習うものだが、すでに授業についてゆけなかった僕はこの辺りで完全に息の根を止められたのである。こんなものを勉強して一体何の役に立つのかと思っていたが、世界の成り立ちを知るためには必須の数学であったらしい。
そして、変数に行列が使われると掛け算の法則が通用しなくなる。掛け算の答えというのは前後をひっくり返しても値は変わらないが、量子の世界ではそうはならない。それを数式で表すと、XP-PX=iℏ (Xは粒子の位置、Pはその速度と質量をかけたものⅰはマイナス1の平方根、ℏ(小文字のhの上の方に━が引いてある)はプランク定数を2πで割った値)となるらしい。これが量子の世界の真髄なのらしい。プランク定数というのは何のことだかさっぱりわからないのだが、粒子としての光(光子)のエネルギーに関する定数で、量子が光と波の性質を併せ持つものだという証拠となる値で、単位はエネルギー量を表すjs(ジュール秒)である。その単位はあまりにも小さく、6.62607015×10-34(−34乗)jsというものだそうだ。
宇宙戦艦ヤマトは波動エネルギーで動き、マジンガーZは光子力エネルギーで動くのだが、果たしてこんなに小さなエネルギー単位で想像を絶するような強力な武器を運用できたのだろうかと心配になるのである。
新たな量子論に関する本を見つけた。ちょっと話題になっている本らしく、書評欄ではないところの朝日新聞の記事の中にも2回出てきていた。「関係」というワードが、人と環境、人と人との関係性になぞらえて使われたのかもしれないが、世界と「関係」はどういった関係があるのだろうかと思いながら読み始めた。
量子論というと、どんな本を読んでも摩訶不思議な話でいまいちどころかほぼ理解できない。もちろん文系の凡人が簡単に理解できるほどのものではないのも確かなものではあるというのはわかりきっていて、この本も最初の部分はその摩訶不思議な世界を解説している。
量子論では「重ね合わせ」や「確率論」のように、物質を構成する原子よりも小さなレベルではそこに実態があるのかどうかが非常にあやふやなのである。そして、そのあやふやな状態がどうして実体として収束するのかというと、それは観測者が観測したからだというのが量子論の核心のひとつである。
有名なシュレーディンガーの猫のパラドックスや電子の雲のように、観測されない限りはその状態は重ね合わさったような状態でありその収束の形は確率的でありそれが実体がないということの根拠になる。
そしてそこに、観測者と観測対象に「関係」が生まれというのである。『観測者自身も自然世界の一部であるのなら、どうして実体を決定づけられるような特権を持っているのか。「観測とは何か」「観測者とは何なのか」という問いによって、私達はついにこの本の主要な概念である、関係へと導かれる。』と書かれている。
この問いはハイゼンベルグが提起したものだそうだが、この本の原題である「Helgoland」はハイゼンベルグがこの問題提起を思索した場所がドイツのヘルゴランド島であり、著者自身もこの場所で「関係」について思いを巡らせていたのである。
ハイゼンベルグは、量子は波のようでもあり粒のようでもあり、観測されない限り確率論的に存在しているという、不確定性原理を発見した科学者である。
観測者とて神ではない。だから観測されるものとも同等である。だから観測されるものは絶対的に支配されているのではなく、すべて”関係”しているのだというのである。
もちろん、これは量子という極微小な世界での話なのであるが、著者はそれを人間サイズの世界にも当てはめようとしてみる。
その対象として、レーニン「唯物論と経験批判論」という論文を揚げている。レーニンというと、バリバリの社会主義の指導者で物理学とはまったく無縁の人のように思うが、この論文の中で、量子論の確立に大きな影響を与えたエルンスト・マッハや政敵であったボグダーノフを観念論者だと批判している。『観念論者は精神の外側に現実の世界が存在することを否定して、実在を意識の中身へと矮小化する。「感覚」だけが現実であるならば、外側の世界は存在しないことになる。』と、確かにこっちのほうが正論なのではないかと思うけれども、それを具現化したのが共産主義で、それが失敗だったと確定した現代ではやはり人はモノだけでは生きていけず、”意識”と”現実”との”関係”も必要だったということだろうか。
そのほか、関係というものついては、遺伝情報や進化も時の流れのなかの”関係”なのだと書かれている。
情報というものの定義として、無数にある選択肢の中から、確率的に限定できるものがある場合を相対情報と言う。量子論では、観測されないかぎり状態は確率が重ね合わされた状態になっているという。その確率はΨという文字で表される。
SFで語られる「他世界解釈」とは、Ψという波を確率とは解釈せず、あるがままの世界をきちんと記述する実体ある何かと捉える解釈で、確率的に出現しうる無数の世界が存在するという解釈であるが、見方を変えると観測する人によって世界が変わるとも取れる。
例えば、僕が観測される側であったとする。Aさんが見る僕、Bさんが見る僕、Cさん、Dさん・・・と僕は観測する人によって無数の僕がいることになる。著者はそれを「関係」と呼ぶのだが、そうなると、実態としての僕は意味をなさず、それぞれの人の中に印象として現れる僕が「関係」としては重要になってくる。こう書かれると人が生きてゆく上では確かに実体よりも相手(=観測者)が持つ自分(=被観測者)の印象のほうが大切な気がするのである。
それを『世界は「関係」でできている』と表現する著者の考えは確かにその通りだと思う。
しかし、この考え方が著者の独創的な考えであるとは思えない。年末年始、3連休もしたけれども、ベーコン作り以外は暇だったので新世紀エヴァンゲリオンを録画したものを見ていた。このアニメはロボットアニメではあるけれども、主人公の少年が自分の存在意義について思い悩む成長物語でもある。その物語の1シーンに著者が考える「関係」とまったく同じものがある。ネルフのメンバーや同じ巨大ロボットに乗る仲間の心の中に居る自分と実体である自分、どの自分が自分なのであろうかと思い悩むのである。他人が期待する自分を演じている自分は果たして自分なのであろうか・・。それはまさに重ね合わされた自分の姿である。
ついでにいうと、この物語には、ゼーレという世界の観察者ともいえる組織が登場する。その組織が主人公の父親たちを使って「人類保管計画」というものを遂行しているのだが、最後は神のように外部世界の観察者ではなく人間たちと同じ世界の観察者であったと描かれている。人類補完計画というものは詳しく描かれていないけれども、どうやら人の実体を消し去り精神を融合させるというようなもののようであるがまさに量子の世界に戻ってゆくような内容であった。
庵野秀明が仏教観を持った人かどうかは知らないが、もともと仏教の思想では、この世界は幻のようなものであり実体がないものだという「空」という考え方がある。このアニメも庵野秀明の個人的な経験に加えてそういったものも取り入れながら作られているようにも思え、こういう考えは東洋世界では古くからあったものである。30年も前にすでにそういった考えを表現していた人がいたのである。
それが、たまたまなのか、必然なのか、最先端の物質科学である量子論と結びついてきたというのがある意味驚きだったのである。
この本は、科学の解説書のように見えるが、実は唯物論と観念論がぶつかり合う哲学書であったのではないかと思うのである。だから、原題は「Helgoland」で、量子論という言葉が入っていなかったのだと考えた。
量子論について、こういうことなのかとわかったようでわからなかったことをいくつか追記しておこうと思う。
量子の世界は確率の世界で、観測されるまではその確率が重ね合わさった状態であるのだが、それを数式に表すときに、変数は行列を使うそうだ。行列の括弧の中の数字(成分)のひとつひとつが確率的に出現する世界を表しているらしい。数列とか行列というのは高校時代に数学の時間に習うものだが、すでに授業についてゆけなかった僕はこの辺りで完全に息の根を止められたのである。こんなものを勉強して一体何の役に立つのかと思っていたが、世界の成り立ちを知るためには必須の数学であったらしい。
そして、変数に行列が使われると掛け算の法則が通用しなくなる。掛け算の答えというのは前後をひっくり返しても値は変わらないが、量子の世界ではそうはならない。それを数式で表すと、XP-PX=iℏ (Xは粒子の位置、Pはその速度と質量をかけたものⅰはマイナス1の平方根、ℏ(小文字のhの上の方に━が引いてある)はプランク定数を2πで割った値)となるらしい。これが量子の世界の真髄なのらしい。プランク定数というのは何のことだかさっぱりわからないのだが、粒子としての光(光子)のエネルギーに関する定数で、量子が光と波の性質を併せ持つものだという証拠となる値で、単位はエネルギー量を表すjs(ジュール秒)である。その単位はあまりにも小さく、6.62607015×10-34(−34乗)jsというものだそうだ。
宇宙戦艦ヤマトは波動エネルギーで動き、マジンガーZは光子力エネルギーで動くのだが、果たしてこんなに小さなエネルギー単位で想像を絶するような強力な武器を運用できたのだろうかと心配になるのである。