イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「良心から科学を考える: パンデミック時代への視座」読了

2023年04月26日 | 2023読書
同志社大学良心学研究センター 「良心から科学を考える: パンデミック時代への視座」読了

同志社大学には「良心学」という科目があるそうだ。“良心”などという曖昧な定義しかできないようなものがはたして学問になるのだろうか。それも文学的な観点からならありえるかもしれないが、それを“科学”しようというのだ。
宗教、自然科学、科学史などの研究者14名の論文が掲載されている。
少し残念なのは論文それぞれが短く、もっと知りたいと思う頃にその文章が終わってしまっていることだ。どの人もそれぞれのテーマで本が一冊書けるほどの見識を持っているということなのかもしれない。その神髄は同志社大学に入学して良心学を専攻しなさいということなのだろう。

「良心」とはなんだろう。キカイダーには不完全ながら良心回路というものが搭載されていた。キカイダーは正義の味方だから良心=正義ということだろうか。しかし、50年前だと正義と悪の境目もはっきりしていただろうが、現代ではそれもあいまいだ。

読んでみてわかったのだが、この本は科学をしている人たち、理系の学生や研究者たちがとりあえずは読んでおけというような内容だ。
研究者は良心、それは正義というよりも倫理に近いものなのだろうが、社会に役立つとか、環境に悪影響を及ぼさないだとか、人体実験をしない、戦争に加担しないなどというものが科学としての良心だというのである。
科学者という人たちは、科学の発展のためには何をしてもよいとか、研究費を得るために出資者に忖度し兵器開発の片棒を担いだりそれらに都合のよいデータを捏造したりしてしまうのだ。だからこそ良心が必要なのだというのである。

まあ、それは確かにごもっともなのだが、良心や正義は見る側が違うと良心は邪心になり正義は悪になる。なかなか難しい。
その象徴と思えるのが、このひとはそれを自覚しているのかどうかわからないが、ES細胞とⅰPS細胞について書かれたものだ。
日本ではⅰPS細胞に対してはたくさんの研究費が出されているがES細胞に対してはそうではない。それはⅰPS細胞が日本で生まれた技術だという理由だけで、世界を見るとES細胞に対してのほうが研究対象としてははるかに重要視されているというのだが、この人はES細胞の研究者で京大の名誉教授だと聞くと、ひねくれた性格の僕には山中伸弥先生に嫉妬しているだけではないのかと思ってしまう。
コソボやチェチェン、僕はロシアのウクライナ侵攻をまったく支持するつもりはないが、プーチンやエリツィンにとっては自分の良心に従って行動しているのかと思うと良心というのはまことに恐ろしいと思うのである。

いずれにしても、本当は自然に身をまかせて生きるべき存在であるはずの人間が、自然を支配できるまでに、しかしながら不完全にしか支配できないというような中途半端に進化してしまったことによる罪深さが現れてきた結果なのであろうということだ。
天動説だ地動説だと言い合っているくらいの程度のほうが人間は幸せであるのかもしれない。

カミュの「ペスト」の中ではこんな言葉が語られているそうだ。
『世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、よき意思も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。』

知らないよりも知っていることのほうがよいのは事実であろうが、多分、中途半端に知っている、もしくは知っていると勘違いしているというのが一番たちが悪い。
そのことは僕も実感している。
科学者は知ることで良心を得るべきだが、そうじゃない人は知らないことで良心を保っていたほうが世の中も家族も平和であるのだ。

結局、この本は僕のような人間にとってはあまり意味を持たないような内容であるが、以下の部分はちょっと覚えておこうと思った。

日本語の良心という言葉は、英語のconscienceの訳語であるが、これは孟子の中に出てくる言葉を当てはめたそうだ。だから、儒教的な性善説のなかで理解される言葉であると日本では考えられてきた。なるほど日本らしい考え方である。
しかし、新島襄は同じくこの言葉をconscienceの訳語として使ったが、そこにはキリスト教の性悪説の意味合いも含められていた。良心にも「よい良心」と「悪い良心(良心のやましさ)」の2種類があるというのである。
conscienceはラテン語のconscientia(コンサイエンティア)が元になっている。これは、con(共に)scire(知る)という意味があるそうだが、「科学(science)」という言葉もこの言葉のscireが由来となっているそうだ。

そういう意味では科学と良心は密接な関係があるというのがおそらくこの本が言いたかったことではなかろうかと思うのであった。

この本を読んでいた場所なのだが、柄にもなくカフェがその場所の一部になった。普段は通勤途中の電車の中でしか本を読まないのだが、500円のクーポンをもらったので日曜日の早朝、港の近くのカフェでひとときを過ごした。こんな時間帯には2,3人の客しかいないカフェはまことに静かで心地よかった。しかし、自腹を切ると535円となればおいそれと座ることができないのである。



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