イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「ガリレオ裁判-400年後の真実」読了

2023年04月25日 | 2023読書
田中一郎 「ガリレオ裁判-400年後の真実」読了

歴史上の大悪人が実はよき人であったり、同じく偉大であったひとが実はけっこう性悪であったりということがよくある。
明智光秀、田沼意次は大悪人と思われていた人の代表だろう。ニュートンは後者であったらしい。中原中也は残っている写真がなんだか女性的で繊細な人だと想像してしまうが酒癖が悪くて生活力もなく誰彼なくお金の腐心をしていたらしい。
この本も、ガリレオ・ガリレイを宗教裁判で有罪に追い込んだカトリック教会は本当に悪だったのかということを考えている。 

著者がこの本を書くきっかけになったのは、1979年、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世による「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」という講演であった。この講演を機に、1981年にガリレオ事件調査委員会というものが設置され、400年の時を越えて裁判関係者の手紙や裁判の議事録がヴァチカンの秘密文書庫から解放されたのである。
2009年には「ガリレオ・ガリレイ裁判ヴァチカン資料集」というものが出版され、この裁判に新たな説明を加えることが可能になったからである。
元になった文書は1798年にナポレオン・ボナパルトがローマに侵攻した後、1810年にローマ教皇庁に保管されていた全文書が没収されたときにフランスに運ばれた。
特にガリレオ事件に関する文書は重要視され、別便で送られたという。
この時期にはニュートンの万有引力の法則が発表されていて地動説も当たり前の考え方として受け入れられていた。ナポレオンはガリレオ裁判の記録を出版することで科学の進歩を阻んできたカトリック教会の蒙昧さを衆目に晒したかったのだと考えられている。
カトリック教会は自分たちの蒙昧さを知っていたかどうか、別便にはナポレオンを破門するというピウス7世の教皇勅書が同封されていたという。

結論としては、裁判自体は当時の宗教裁判の進め方に則って行われたということだが、そもそもが当時の教会の威信を保つためだけにおこなわれた裁判であったのだから現代に生きる僕にとってはそれが正しい裁判のあり方であったと言われてもなんだか腑に落ちない。まあ、宗教が人を断罪するということからしてありえない。人を救うのが宗教であるはずだ。
著者の、『まちがっていた陣営と正しい陣営の闘いがあって、まちがっていた側の主張は何であれまちがっており、正しい側の主張は何であれ正しいというような単純な構図のなかで事態が進行していたのではない。いずれも自らの信じるところを主張したのだが、当時の社会と時代を支配する側の勝利に終わった。』
という考えが最も適した見解だということだろう。
『特別な存在として神の姿に似せて創られ、宇宙の中心にあって天上の神に絶えず見守られ、その信仰のゆえに昇天することができるが、逆に世界の底にある地獄に落ちることもありうる。この不安に満ちた人間という危うげな存在は信仰によってのみ平安を得ることができる。』というのが当時の人たちの考え方で、もし、地球が宇宙の中心になく、他の惑星と同列の地位にまで引き下げられるのなら、その地球上に住む人間の地位も同様に引き下げられることになる。そうなっては信仰の基盤が緩いでしまう。この考えは天動説が示す地球中心の宇宙においてのみ説得力を持つのである。このあたりの考え方が、間違っているけれども正しい側の主張は何であれ正しいと思い込んでいた部分だ。


ガリレオが罪に問われた根拠となった旧約聖書の一節はヨシュア記のこの部分だ。
『ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。
「日よとどまれギブオンの上に、
月よとどまれアヤロンの谷に。」
日はとどまり
月は動きをやめた
民が敵を打ち破るまで。』
この部分が太陽は地球の周りを回っている証拠だというのである。

とはいうものの、すでにコペルニクスが地動説を発表し、こっちのほうが惑星の位置の計算が簡単で正しくできるというのが明白となっていたという事実があるから、裁判をやっている教会の人たちも薄々、多分ガリレオの言っているほうが正しいのではないかと思っていたのではないだろうか。しかし、それを言ってしまってはおしまいだという雰囲気の中で進められたのではないかと思うのだ。事実、暦の計算をしやすいのならコペルニクスのやり方を使っても問題なしというのが当時の状況でもあったそうだ。
事実、当時の教皇であったウルバヌス8世や甥であるフランチェスコ・バルベリーニはこの裁判を通してガリレオを擁護しようと動いていた。それも、自分たちはけっこう無茶苦茶なことを言っていると認めているというところからだったのかもしれない。
地球が太陽の周りを回っていようが、太陽が地球の周りを回っていようが、誰も困るわけではなく、ただ単に教会の威信を傷つけるというだけで大騒ぎをしなければならないほど教会の威信というものは脆いものだったのである。

「それでも地球は回っている」という言葉はガリレオが有罪判決を受け入れたのちに買ったものだということで有名だが、実際それは不本意だったのだろうけれども、とりあえずはあっさりと自分の説を放棄している。この言葉は100年以上後にジョゼッペ・バレッティという文芸評論家が自分の紀行文のなかで書かれたものである。
どちらかというと、その頃のカトリック教会に対する反感が生み出した言葉なのだと言われているのである。
なんだか子供の喧嘩を見ているような気になってくるのだ。


ガリレオ裁判とおいうのは2回にわたって行われたそうだが、その経緯を書き留めておこうと思う。
1610年3月、ガリレオは自ら作成した望遠鏡で木星を観測し、「星界からの報告」を出版する。
1613年3月、「太陽黒点論」を出版し、この中で地動説の確かさを主張している。
そして、問題になったのが、1613年12月12日、ガリレオの弟子でありピサ大学の教皇であったベネディット・カステリがトスカナ大公の宮殿での朝食会で語った内容であった。ガリレオが考えた地動説を紹介したのはいいけれども、同じくピサ大学の哲学教授であったコジモ・ボスカリアが、それは「聖書」の記述に反すると指摘した。大公の母親であるクリスティーナ・ディ・ロレーナもそれには納得しなかった。
12月13日、その話を聞いたガリレオはカステリ宛に手紙を書く。それは「聖書」と自然の関係について、文字通りの意味にとると誤りが生じるというものであった。
何度読んでもわからなかったのだが、ヨシュア記の内容を天動説に当てはめると、西から東への運動によって1年をかけて12の星座の中を移動してゆく太陽の動きを止めてしまうとかえって日没は早まってしまうというのである。(う~ん全然わからない・・)
当時のこういった手紙というのは、私信というだけではなく、学会誌というものがなかったおかげで研究成果の発表の手段でもあった。
この手紙も公のものとなり、1615年2月7日、フィレンツェのドミニコ会神父であるニッコロ・ロリーニがこの手紙をローマに送り、検邪聖省に告発した。この人はこの3年前にもコペルニクスの地動説を攻撃していたというのだからよほど地動説が嫌いであったようだ。
1616年2月24日、11名の神学者からなる特別委員会の答申が出る。太陽は動かないということと地球は世界の中心になく、不動でもないということはどちらも間違っているというものであった。
2月26日、ロベルト・ベラルミーノ枢機卿からガリレオの考えは誤りでありそれを放棄するようにという訓告がなされ、それに続いてただちにドミニコ会の検邪聖省総主任ミケランジェロ・セジッツィから、太陽が世界の中心にあって動かず、地球が動くという意見を全面的に放棄し、今後はそれを口頭であれ文書によってであれ、いかなる仕方においても、抱いても、教えても、あるいは擁護してもならない。さもなければ、聖省は彼を裁判にかけるであろうと命じられた。
ガリレオはこの禁止命令には同意し、従うことを約束した。
この内容だけを見ると、この時点では、ガリレオは自分の意見を放棄するかぎり罪には問われないということになる。事実、世間的にはガリレオが異端誓絶したという噂が広まったので、その噂を否定してもらうべく、5月26日、ガリレオはロベルト・ベラルミーノを訪ねて証明書の発行を求めた。
同じ頃の1616年3月5日、コペルニクスの「天球の回転について」が禁書目録に掲載された。
これが1回目の裁判の結末だ。

1632年2月「天文対話」が出版される。そしてこれが教皇の怒りを買うことになる。
この本は海の干満の現象を地球の運動に関係づけて地動説、特に地球の公転と自転を説明するものであった。(実際の海の干満は月の引力によるものなので地動説とはまったく関係がないのであるが・・)
地動説を主張しているのはもちろん、教皇を揶揄しているともとれる内容に教皇は怒ったようである。最初の裁判ではガリレオに対して寛容な姿勢を見せていたが、教皇にしてみれば裏切られたという気持ちが強く、扉絵にまで因縁をつけたという。
1632年9月23日、検邪聖省総集会においてローマの異端審問所に召喚する決議がなされた。10月1日、ガリレオはフィレンツェの異端審問官エジディから呼び出され、10月中にローマの検邪聖省総主任のもとに出頭するように命じられた。
1633年4月12日、1回目の審問が開始される。検邪聖省の総主任はヴィンチェンツォ・マクラノという人物である。前任のランチという総主任はガリレオに好意的な人物であったが、マクラノはそうではなかった。
この審問ではガリレオは自分に非があるとは認めなかった。ここで問題になるのは、1616年2月26日のことである。ここでは、地動説について、「仮説としてなら抱くことができる」かどうかという解釈の違いである。ベラルミーノの証明書の中には仮説としてなら大丈夫というような見解があるが、セジッツィの禁止命令では絶対ダメというような解釈ができる。
ガリレオはちょっと読みが甘かったのである。
1回目の審問では決着がつかず、2回目の審問が4月30日におこなわれる。
その前の28日、ガリレオは罪を告白することに同意する。
ガリレオは、「天文対話」は地動説を“退けようと”したものだとか、“自分のあやまちはむなしい野心とまったくの無知でと不注意によるものであった。”と告白するのである。
5月10日、抗弁の機会が与えられる。
自分は「地動説という考えを抱くのはまったくダメだとは思っていなかった。自分の本に書かれた欠陥は、むなしい野心と普通の大衆的な作家よりも賢く見せるという満足感から出たものです。だから、自分の評判をできる限り落とそうとしている邪悪な心の人々の虚言から名誉と評判を守ってほしい。」と語っている。
これだけ譲歩したにもかかわらず、6月16日、重大な異端の嫌疑があるので異端誓絶させ投獄させるという判決が決定的となった。
6月21日、最後の尋問が始まり、そこでもガリレオはすでにコペルニクスを支持する意見はすでに抱いていないということを語っている。
慣例に従うなら投獄となるところだが、トスカナ大公付き主席数学者兼哲学者という肩書を持った有名人だということでガリレオの友人であるシエナ大司教アスカニオ・ピッコローミニのもとで軟禁ということになった。その半年後にはフィレンツェ近郊のアルチェトリの自宅に戻ることになる。
そして1642年1月8日にガリレオは永眠した。許可を得て外出することはできたものの、自宅軟禁の処分が解かれることはなかった。

今の時代とは価値観も違うのだから当時だとこれが当たり前だとも思うのだが、ガリレオ・ガリレイの名誉が回復するのは約350年後のヨハネ・パウロ二世がおこなった冒頭に書いた演説に続く、1992年10月31日の「信仰と理性の調和」という演説まで待たねばならなかったのだ。
ただ、似たようなことは今でもどこでもある。人が想像の中で作り出した権威や価値観を必死で守るために人が人を陥れたり排除したりする。こういうのは350年経とうがこれから先、500年経ようが何も変わらないようである。
ヨハネ・パウロ二世はその演説の中で、ガリレオが主張した、『科学的真理と「聖書」の記述が異なるばあい、「聖書」のほうを文字通りの意味を超えて解釈しなければならない。』ということを認めたのだが、そのことがズバリ、今読んでいる本に出てくる「良心」につながるのだなと改めてこの感想文を読みながら思うのであった。

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