春休みで約1か月間、家にいた次女ピーチがやっと大学のある街へ戻って行った。
寂しくもあり、ホッとしたのもあるが、どちらかと言うとホッとした方が大きいかもしれない。
この一ケ月とくに病気というわけではないのだが、身体が疲れやすくだるさがあった。
しかし、せっかくピーチが帰っているので、毎日ピーチの好きなものや栄養のあるものなど、いつもよりも気合を入れて料理を作っていたら、疲れがますます蓄積していくような気がした。
だから、いよいよつらい時は御惣菜を一品買ってきたりして乗り切った。
料理をするのは嫌いじゃないが、今回ばかりは毎日の食事作りはつくづく大変だと思った。
また昨年春に就職して、家から通っている長男パインの仕事も忙しくなり、土日に早朝から出勤だったり、帰りが遅かったりした為、パインに合わせて食事の支度をする身としては、やはり大変だった。
さらにピーチが夜中遅くまで勉強をしていたので、オカメインコのP太郎が、ピーチの気配を感じて落ち着きが無くなり、ここ最近起こしていなかったオカメパニックを毎晩のように起こすようになってしまった。
いつもなら暗くした部屋でP太郎が寝ている時間なのに、ピーチが起きているので、ピーチのつけた部屋の明かりに驚いてパニックを起こしたのが始まりだった。
P太郎がパニックを起こすと、狭いかごの中で狂ったように羽ばたく。
一刻も早く落ち着かせなければ怪我をしてしまうので、パニックを起こすたびに私とピーチが駆け付けてP太郎を落ち着かせていたのだが、P太郎のオカメパニックは治るどころか、毎晩のように続くようになってしまった。
そんなわけで、P太郎がパニックを起こしていないか気になって熟睡できなかったことも疲れの一因だったように思う。
なんとも大変な一ケ月間だった・・・
ところで、この「大変」という言葉、しんどいとか難儀だと言う意味で使っているが、本来の意味は字の通りで「大きく変わる」という意味を持つそうだ。
つまり「大きく変わることは、大変だ」ということだろうか。
確かに、この一ケ月あまりピーチが帰省して、パインの仕事が忙しくなって、普段の生活が大きくではないものの、すこし変わった。
P太郎にしても、普段は静かに眠っている時間なのに、ピーチが起きている音や明かりがいつもの時間と変わってしまった事で パニックを起こしてしまったのだろう。
「変わる」ことはエネルギーがいる。慣れている環境を変えることは、最初はなかなかしんどい。
しかし変わりたい、変わりたくないに関わらず、時間の経過とともにどんどん色々なことが変化していく。
空の雲が形を変えるように、自然界のあらゆるものが変化し続けているように、私自身も周囲の人たちも少しずつ変化している。
変化するのは面倒だから、ここにとどまりたいと思っても時間の流れは、それを許してくれない。
でも、変わることは新しいことに出会えるチャンスでもあると思う。
いつもと違ったことをすることによって、大きなことじゃなくても、新たな楽しみを見つけることに繋がったりするかもしれない。
ちなみに私は、ピーチに食べさせたいと久しぶりにお菓子を焼いたら、これが美味しくできて、すっかりお菓子作りにハマってしまった。(自画自賛ですみません・・・)
サツマイモでスイートポテトを作り、パイ生地に流して焼いてみました。
お菓子作りの楽しさに、何年かぶりにまた目覚めてしまったのだが、こんな小さな楽しみも生活に変化があったからこそ。
ピーチがいなければ、お菓子は作っていなかった。
しかし最も大きな変化というのは、生活環境もそうだが、実は価値観が変わる事なのではないかと思う。
私のこれまでの人生の中で、価値観が大きく変わった出来事というのがいくつかあるが、そのひとつが長女の障害がわかったことだった。
それは、今まで自分が持っていた価値観が、がらがらと大きな音を立てて崩れていくような出来事だった。
ずっと普通だと思っていたのに、障害がありますと言われた時は、思ってもいなかったことだけに、どうしてよいのか分からず途方に暮れた。
苦しい時期だった。
でも、それがなければ私は神を信じることもなく、感謝もなく、傲慢な価値観を持ったままだっただろう思う。
長女は遅れはあるが、健康だし優しい娘に育ってくれた。
長女もこれから変化していかなければいけないが、大丈夫だと思っている。
(根拠はないが、なんとなくそう思う)
変わる事は大変な痛みや苦しみを伴うこともあるが、その変化の先には新しい自分に出会えるチャンスがある。
一見、不幸な出来事だったとしても、必ず何か得るものがあると信じている。
寂しくもあり、ホッとしたのもあるが、どちらかと言うとホッとした方が大きいかもしれない。
この一ケ月とくに病気というわけではないのだが、身体が疲れやすくだるさがあった。
しかし、せっかくピーチが帰っているので、毎日ピーチの好きなものや栄養のあるものなど、いつもよりも気合を入れて料理を作っていたら、疲れがますます蓄積していくような気がした。
だから、いよいよつらい時は御惣菜を一品買ってきたりして乗り切った。
料理をするのは嫌いじゃないが、今回ばかりは毎日の食事作りはつくづく大変だと思った。
また昨年春に就職して、家から通っている長男パインの仕事も忙しくなり、土日に早朝から出勤だったり、帰りが遅かったりした為、パインに合わせて食事の支度をする身としては、やはり大変だった。
さらにピーチが夜中遅くまで勉強をしていたので、オカメインコのP太郎が、ピーチの気配を感じて落ち着きが無くなり、ここ最近起こしていなかったオカメパニックを毎晩のように起こすようになってしまった。
いつもなら暗くした部屋でP太郎が寝ている時間なのに、ピーチが起きているので、ピーチのつけた部屋の明かりに驚いてパニックを起こしたのが始まりだった。
P太郎がパニックを起こすと、狭いかごの中で狂ったように羽ばたく。
一刻も早く落ち着かせなければ怪我をしてしまうので、パニックを起こすたびに私とピーチが駆け付けてP太郎を落ち着かせていたのだが、P太郎のオカメパニックは治るどころか、毎晩のように続くようになってしまった。
そんなわけで、P太郎がパニックを起こしていないか気になって熟睡できなかったことも疲れの一因だったように思う。
なんとも大変な一ケ月間だった・・・
ところで、この「大変」という言葉、しんどいとか難儀だと言う意味で使っているが、本来の意味は字の通りで「大きく変わる」という意味を持つそうだ。
つまり「大きく変わることは、大変だ」ということだろうか。
確かに、この一ケ月あまりピーチが帰省して、パインの仕事が忙しくなって、普段の生活が大きくではないものの、すこし変わった。
P太郎にしても、普段は静かに眠っている時間なのに、ピーチが起きている音や明かりがいつもの時間と変わってしまった事で パニックを起こしてしまったのだろう。
「変わる」ことはエネルギーがいる。慣れている環境を変えることは、最初はなかなかしんどい。
しかし変わりたい、変わりたくないに関わらず、時間の経過とともにどんどん色々なことが変化していく。
空の雲が形を変えるように、自然界のあらゆるものが変化し続けているように、私自身も周囲の人たちも少しずつ変化している。
変化するのは面倒だから、ここにとどまりたいと思っても時間の流れは、それを許してくれない。
でも、変わることは新しいことに出会えるチャンスでもあると思う。
いつもと違ったことをすることによって、大きなことじゃなくても、新たな楽しみを見つけることに繋がったりするかもしれない。
ちなみに私は、ピーチに食べさせたいと久しぶりにお菓子を焼いたら、これが美味しくできて、すっかりお菓子作りにハマってしまった。(自画自賛ですみません・・・)
サツマイモでスイートポテトを作り、パイ生地に流して焼いてみました。
お菓子作りの楽しさに、何年かぶりにまた目覚めてしまったのだが、こんな小さな楽しみも生活に変化があったからこそ。
ピーチがいなければ、お菓子は作っていなかった。
しかし最も大きな変化というのは、生活環境もそうだが、実は価値観が変わる事なのではないかと思う。
私のこれまでの人生の中で、価値観が大きく変わった出来事というのがいくつかあるが、そのひとつが長女の障害がわかったことだった。
それは、今まで自分が持っていた価値観が、がらがらと大きな音を立てて崩れていくような出来事だった。
ずっと普通だと思っていたのに、障害がありますと言われた時は、思ってもいなかったことだけに、どうしてよいのか分からず途方に暮れた。
苦しい時期だった。
でも、それがなければ私は神を信じることもなく、感謝もなく、傲慢な価値観を持ったままだっただろう思う。
長女は遅れはあるが、健康だし優しい娘に育ってくれた。
長女もこれから変化していかなければいけないが、大丈夫だと思っている。
(根拠はないが、なんとなくそう思う)
変わる事は大変な痛みや苦しみを伴うこともあるが、その変化の先には新しい自分に出会えるチャンスがある。
一見、不幸な出来事だったとしても、必ず何か得るものがあると信じている。