やっと庭の雪がとけたので、昨年の秋にした植物の冬囲いを外した。
一本一本きつく縛っていた縄をほどいて行くと、縄をほどかれた植物たちが次々に「あ~楽になった」と言って、のびのびとしているような気がした。
冬囲いを外しながら、今年は庭に何を植えようかと想いを巡らせていると、うきうきとした気持ちになる。
思えば昨年までは、自分の自由に庭を作っているかのようで、そうではなかった。
家の中からじ~っと見ているお姑さんに「今、こういうのを植えますよ」と報告しながらの作業だった。
元々、動いているのが好きなお姑さんなので、家から見ている事に飽きてくると、いつも庭に出てきて現場監督のごとく「あれはここに植えてちょうだい。それは動かさないで」という指示があった。
もちろん、そのすべてに従うというわけではなかったが、なぜそこはダメなのかとか、動かすのかということを、お姑さんが理解できるように事細かに説明しなければいけないのがストレスと言えばストレスだった。
とは言え、もうお姑さんはずいぶん物忘れが進んでいたので、説明をして植えても、あとからスコップを持って来て、自分の思った場所に植え替えているなんてこともしょっちゅうだった。
いや、もしかしたらお姑さんなりに、どうしてもここじゃなきゃダメという強い意思があって、わかっていて動かしていたのかもしれない。
しかし、そういう意味では、私も同じようなものだった。せっかく植えた植物を、お姑さんに動かされると腹を立てていたから。
そんなことでストレスを感じたりするのがほとほと嫌になり、それまでは家の玄関回りを花々で飾ったりしていたのだが、ここ数年は必要最低限しかやらなくなっていた。
店頭に並ぶ色とりどりの花を見て、これを鉢植えにして玄関前に飾ったら素敵だろうな~と思いながら、あとからのストレスを思うと何もしない方がずっと楽だと思えた。
でも、やっぱりお姑さんと一緒に花を植えたり植物の手入れができたら、どんなに良かっただろうと思う。
植物の成長を一緒に喜びたかった。
とは言え、過ぎてしまったからそう思うのかもしれず、やはり自由気ままに自分の好きな植物を好きな場所に植えたり飾ったりできるというのは、なんと素敵なことなのだろうかと思う。
お姑さんと同居する前までは、ひとりで自分の好きなように庭に植物を植えていたのだが、あの頃は当たり前の事だと思っていたので、特にそれが嬉しいとも思っていなかった。
しかし自分の意思で花を植えて庭を自由に作れることが、こんなに嬉しいことだったとは、、、お姑さんと暮らすまでわからなかった。
こういうことが分からない自分だったから、義父母と暮らした年月はけっして無駄ではなかったと思う。
いちいちお姑さんにお伺いをたててから植物を植える不自由さ、せっかく植えたものを動かされる怒り、「枯れるから水はあげないでね」と何度も念を押したのに、今日もまたたっぷりと水をあげに行くお姑さんの後ろ姿に絶望的な気分になったこと。
たった半年ほど前のことだが、今はそれも懐かしく思い出される。
ところで庭作りに限ったことだけではなく、当たり前だと思っていたものが、失くなって初めてかけがえのないものだったことに気が付くというのは、実は身の回りに数えきれないくらいある。
本当は当たり前のことなんて、ひとつも無いのではないだろうか。
だから、すべて感謝しかない。
健康で好きな花を植えることができること、家族がいて家族の為に家事ができること、安心して暮らせること・・・一月のあの苦しいインフルエンザの症状を思えば、今こうして苦しい症状もなく過ごせるなんて夢のような幸せだし、停電や断水を経験すると、電気や水が使えることがなんとありがたいことかと身に染みる。
そして何でも当たり前だと思わずに、すべてがありがたいと思うと不思議と心もウキウキと明るくなってくる。
私には、こんなにもたくさんの幸せがあったのだとわかるようになる。