前回、久しぶりにP太郎のことを書いたら、その日の夜、夢の中に初めてP太郎が現れた。
私は、夢の中でずっとP太郎の背中や頭を掻いてあげていた。
P太郎は、生きていた頃のように気持ちよさそうに目をつぶって、うっとりしているものだから、私は止めるに止められず「これでもか~」と言うくらいカキカキしていた。
それで動物とふれあいたい欲求はすっかり満足!
きっとブログを書いてP太郎のことを思い出したことで、夢を見てしまったのだろう。
あの日、P太郎が亡くなった日の翌朝、P太郎がいなくなったカラの鳥かごの中で、P太郎が餌をついばむ音がずっと聞こえていた。
しばらく餌を食べている音が聞こえていたが、急に静かになった。
そして、信じられないかもしれないが、耳元で二回「ぴぃ」と鳴くP太郎の声が聞こえると、飛んできて私の左肩に止まった。
ぴぃと言う鳴き声も、羽ばたく音も、左肩に乗った感触もはっきりとわかった。
それが、私がP太郎を感じた最後で、P太郎はそのあとすぐに、私の肩の上からどこかへ飛び去ってしまった。
以来、あまり私が悲しむと、P太郎が行くべきところへ行けなくなってしまっては可哀想なので、P太郎のことはできるだけ思い出さないようにしていたが、今回は夢の中でP太郎に触ることができて嬉しかった。
ところで当たり前だが、動物にも魂がある。
特に人間と一緒に暮らして愛情を注がれた動物は、最後に飼い主に挨拶をしてから逝くことが多いと思う。
それとは逆に人間に虐げられて命を落とした動物たちは、それが例え魚類であっても、非常に無念の想いを残していることがあると思う。
例えば、釣り堀の魚たち。
彼らには、人間に釣られるという道しかない。どこへも逃げることができず、ただ人間に釣られて命を落とすのを待っているだけだ。
釣ったあとに人間が感謝して食べるのなら、まだ浮かばれもするだろうが、遊びの為だけに釣られて殺されて捨てられるなら、あまりにも可哀想すぎる。魚たちが無念の思いを残しても不思議はない。
そういうことでは、食料になってくれた動物たちも同じであり、食事の前に「いただきます」と言って、食料になってくれた動植物たちへ感謝することは、とても意味のある大切な習慣なのだと思う。
今日は、P太郎の夢の話以外まったく考えずに書き始めたが、いま書いた記事を読み返しながら、「そうかぁ、私たちの命になってくれた動物や植物たちに心から感謝しなければいけなかった」と思っている自分がいる。
感謝して食べていたつもりだが、毎日の事になると慣れですっかり忘れていた。
本当にごめんなさい・・・今日は、すべての生き物たちに謝りたい気分です。