ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

見える世界と見えない世界

2022-09-06 17:10:41 | 日記

少し気になることがあり、数日前から「床供養」をしている。

床供養は、これまで家の中の気になる場所で行ってきたのだが、最近はずっとやっていなかった。

今回、床供養しているのはリビング。

リビングは神棚を祀っていることもあって、今まで気になったことはないのだけれど、少し前からリビングに何者かの気配を感じることがあった。

それと関係するのかわからないが、神棚に祀った榊がたった1日で枯れた。

特に暑かったというわけではなく、むしろ最近は涼しすぎるくらいの気温で、榊立てに水を入れて生けたのもいつも通りに行っていた。

これまで何年も神棚に榊をあげているが、こんなに早く、たった1日で枯れたのは初めてだった。

さて床供養を始めて三日目。

床供養をしながら、リビングの椅子でウトウトしていたら耳元で男性の大きなうめき声が聞こえて飛び起きた。

気配はこの方だったと思ったが、なんせ見えない世界のこと。

ブログには書くが、実生活では家族にも言えないことが多い。

ところで子どもの頃から不思議な体験はしてきたが、これまでは、いつものことだとやり過ごしたり、唯一身体を掴まれるなどした時だけは恐怖に震えたが、どちらにしろすべてはそれだけのことだった。

それ以上のことを考えたり、ましてや供養しようなどとは微塵も考えたことはなかった。

若さというのは、見えない世界のことより見える世界の方に重きを置く傾向がある。(それもまた長い人生では必要なことだと思うが)

私自身も見えない世界のことを考えるより、見える世界の方がずっと重要だった。

40代後半までは、神仏に手を合わせるのは年に数回程度で、それも自分の希望を叶えて欲しいとお願いするだけで、神さまに対する畏敬の念など持っていなかったし、亡くなってもまだ彷徨っている方々に対しては無関心か恐怖心しかなかった。

それが先祖供養を始めてから徐々に変わって行き、今は神さまというのか大いなる存在があることを信じているし、人は死んでも魂は永遠に生き続けると思っている。

そして気がつけば、見えない心の世界(それは宗教に入るとかではなくて)について考え始めてから、見える世界にばかり重きを置いていた頃よりずっと生きやすくなっていた。

神の存在に懐疑的だった頃からすると自分でも信じられないが、大いなる存在を身近に感じられるというのはとても幸せなことだなと思う。

ところで大いなる存在は、目で見ることもできる。

それは大自然。

初日の出に思わず手を合わせるのは、まさに大自然の中に大いなる存在を見ているからだろう。

小樽へ行ってきた。オタモイ海岸の絶景。

天狗山のリス。

 

 


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