私は本を読むことが好きで、いつも手元に何かしら本が無いと落ち着かない。
どこへ行かなくても、本からはたくさんの学びと楽しみを得ることができる。
子どもの頃、母が年に1度だけ街の中心にある大きな書店に連れて行ってくれた。
そこで「好きな本を買ってあげるから一冊だけ選びなさい」と母に言われ、私と弟、妹はそれぞれに急いで好きな本を探しに行った。
一冊だけ・・・どれにしようか。
書店に香る新しい紙の匂いを深く吸い込み、好きな本を買ってもらえる嬉しさにわくわくししながら、吟味に吟味を重ねて好きな一冊を探したことを思い出す。
あれから大人になった今も本が好きで、新しい本を手に取った時のわくわく感は変わらないのだが、なぜかうちの子どもたちはあまり本を読まない。
長男と次女はたま~に読んでいるらしいが、それよりも圧倒的にスマホを見ている方が多い。
子どもたちが小さかった頃は絵本をたくさん読んであげたつもりだったが、まだ足りなかったのかな・・・
ところで私がいま読んでいるのは立松和平さんの「良寛 行に生き 行に死す」
子どもと毬をついて遊んでいるというイメージの強かった良寛さんだが、じつは若い頃は労働こそ修行と考え、よく働いたといたという。
良寛さんは日常作務の中にさとりの機があることを知り、それを実践した人だったそうだ。
つまり日常生活すべての中に真理があることを良寛さんは知っていたのですね。
良寛さんが修行した円通寺には、行脚して歩く多くの雲水たちが立ち寄ったそうだが、良寛さんが、それら雲水についての詩を残している。
我(われ) 行脚の僧を見るに
すべて是(これ)可憐生(かれんさん)
三刹(さんせつ)の地を踏まずんば
衲僧(のうそう)の名を汚すと謂へり(おもへり)
ゆえに師友(しゆう)を去り
茫々(ぼうぼう)として策(つえ)をついてゆく
一夏(いちげ) 此の地を離れ
三冬(さんとう)かの郷(きょう)にとどまる
いたずらに草鞋(わらじ)の銭を費やし
虚しく他行のみちのりを数ふ(かぞう)
なんの閑菩提(かんぼだい)あってか
汝らが為に成ぜられんや
「最近の行脚僧を見ると、すべて可哀相な人たちばかりである。
禅宗の大寺を訪ねなければ、僧の名を汚すと思っている。
そのために彼らは師匠のもとから離れ、先もわからないのに別の師匠を求めて錫杖をつき遠くまで行く。
この寺で夏安居を過ごしたと思うや去っていき、冬はあちらこちらの寺にこもる。
いたずらに旅費を使い、虚しく遠方への旅を重ねる。
そんな修行によって何の悟りがあなたたちに成しとげられるというのか」
なかなか難しい言葉も多く一度では理解できないので、何度も何度も読み返しているのだが、読み返していると、良寛さんがまるで肉体を持って生き生きと動いているかのように思えてくる。
これは立松氏の書かれる文章の力であり、また良寛さんの魅力なのかもしれない。
自分なりに想像を膨らませ、本の世界へ入っていく。
これだから本はやめられないのです。
どこへ行かなくても、本からはたくさんの学びと楽しみを得ることができる。
子どもの頃、母が年に1度だけ街の中心にある大きな書店に連れて行ってくれた。
そこで「好きな本を買ってあげるから一冊だけ選びなさい」と母に言われ、私と弟、妹はそれぞれに急いで好きな本を探しに行った。
一冊だけ・・・どれにしようか。
書店に香る新しい紙の匂いを深く吸い込み、好きな本を買ってもらえる嬉しさにわくわくししながら、吟味に吟味を重ねて好きな一冊を探したことを思い出す。
あれから大人になった今も本が好きで、新しい本を手に取った時のわくわく感は変わらないのだが、なぜかうちの子どもたちはあまり本を読まない。
長男と次女はたま~に読んでいるらしいが、それよりも圧倒的にスマホを見ている方が多い。
子どもたちが小さかった頃は絵本をたくさん読んであげたつもりだったが、まだ足りなかったのかな・・・
ところで私がいま読んでいるのは立松和平さんの「良寛 行に生き 行に死す」
子どもと毬をついて遊んでいるというイメージの強かった良寛さんだが、じつは若い頃は労働こそ修行と考え、よく働いたといたという。
良寛さんは日常作務の中にさとりの機があることを知り、それを実践した人だったそうだ。
つまり日常生活すべての中に真理があることを良寛さんは知っていたのですね。
良寛さんが修行した円通寺には、行脚して歩く多くの雲水たちが立ち寄ったそうだが、良寛さんが、それら雲水についての詩を残している。
我(われ) 行脚の僧を見るに
すべて是(これ)可憐生(かれんさん)
三刹(さんせつ)の地を踏まずんば
衲僧(のうそう)の名を汚すと謂へり(おもへり)
ゆえに師友(しゆう)を去り
茫々(ぼうぼう)として策(つえ)をついてゆく
一夏(いちげ) 此の地を離れ
三冬(さんとう)かの郷(きょう)にとどまる
いたずらに草鞋(わらじ)の銭を費やし
虚しく他行のみちのりを数ふ(かぞう)
なんの閑菩提(かんぼだい)あってか
汝らが為に成ぜられんや
「最近の行脚僧を見ると、すべて可哀相な人たちばかりである。
禅宗の大寺を訪ねなければ、僧の名を汚すと思っている。
そのために彼らは師匠のもとから離れ、先もわからないのに別の師匠を求めて錫杖をつき遠くまで行く。
この寺で夏安居を過ごしたと思うや去っていき、冬はあちらこちらの寺にこもる。
いたずらに旅費を使い、虚しく遠方への旅を重ねる。
そんな修行によって何の悟りがあなたたちに成しとげられるというのか」
なかなか難しい言葉も多く一度では理解できないので、何度も何度も読み返しているのだが、読み返していると、良寛さんがまるで肉体を持って生き生きと動いているかのように思えてくる。
これは立松氏の書かれる文章の力であり、また良寛さんの魅力なのかもしれない。
自分なりに想像を膨らませ、本の世界へ入っていく。
これだから本はやめられないのです。