お姑さんが風邪をひいて、しばらく咳が続いていた。
熱は無いのだが咳が出て、特に夜は咳の為に眠れないのだという。
お姑さんは89歳と高齢なので肺炎を起こしたら大変だ。
病院へ連れて行こうとしたが、お姑さんは「大丈夫だから」と言って病院へ行こうとしない。
咳が始まった週はちょうど二か月に一度の内科の診察があり、お姑さんは近々病院へ行くことになっていた。
病院へ行く日まで数日あったが、夫も「それまで大丈夫だろう」と言うので、デイサービスは休んでもらって家で様子を見ることにした。
日中も咳込んで苦しそうなので市販の咳止め薬を買ってきて飲ませたところ、効果てきめんで飲んでしばらくすると咳がおさまった。
そして「咳が止まった」と喜ぶお姑さんに何度もお礼を言われた。
それからは時間を見ては咳止めの薬を飲ませていたのだが、私の顔を見るたびにお姑さんはニコニコした顔で「ありがとう、ありがとう」と言う。
別に大したことをしているわけではないのだが、そのように感謝されると私も嬉しくなってきて、少しでも早く風邪が治るようにと思いながら、お姑さんの体調をこまめに観察して過ごした。
幸い大したこともなく、すっかり元気になったお姑さんは、またいつものようにデイサービスに行っている。
少し前にお姑さんの薬が足りなくなるということが続いて、それを私が盗んだかのように思って怒っていたお姑さんだったが、今度は薬を私があげたことをとても喜んで感謝しているお姑さんがいる。
同じ「薬」のことで、短い期間にまったく逆の現象が起こって、お姑さんの感情も私の感情も「怒り」から「喜び」へと変わっていったのが不思議でもあり面白いことだと思った。
ところで「感情」というのは動物にもあるものだが、こんなにも繊細で複雑で、また自分自身で持て余すほど大きくなったりするのは人間くらいなんじゃないかと思う。
怒りや悲しみの感情はできれば経験したくないと思うのは誰でも同じだと思うが、もしかしたらこうした感情(喜びや幸福感も含めて)を味わう為に、人は何度も生まれてくるのかもしれない。
どんな時に自分はこうした感情になるのか。
その時に自分はどんな行動をとるのか。
例えばそれが「怒り」だった場合、攻撃的になるのか、落ち込んで引きこもるのかとか。
なぜ今、こういう感情が自分に起こっているのか、その感情によって反応した行動が自分やその周囲にどんな影響を及ぼしているのか、最近よくそのようなことを考える。
私がお姑さんに薬どろぼうじゃないかと疑われた時に、怒りにまかせてブチ切れていたら、今頃どうなっていたのだろう。
最大級の被害者意識を持って、泣きながら夫に訴えていたらどうなっていたのだろう。
どちらの行動をしても、きっと今よりずっと悪いことが起こっていたような気がする。
あの時、その出来事をブログに書いたおかげで、いつのまにかそれが「面白いこと」に置き換わって、自分の感情が怒りのままで終わらなかったから、今このような状況が現れているのではないのだろうか。→ 「カタツムリの殻」
そうだ!
先ほど書いた「もしかしたらこうした感情を味わう為に何度も生まれてくるのかもしれない」に続きがあった。
それは自分の感情から生み出されたものは、どのような未来でも作っていくことができ、どのような想念や状況をも引き寄せることができるということだ。
そして一番重要なことは、それは自分自身で選ぶことができるということだった。
そのことをはっきりと知るために、そして自分の感情を使って喜びのあふれた未来と状況を引き寄せることを知るために何度も何度も生まれ変わってくるのだろう。
そしてもうひとつ重要なことは、怒りや悲しみを決して抑え込んだり、気づかないふりをしてはいけないということ。
それは自分自身を偽ることだから。
悲しければ涙が枯れるまで悲しみ、怒りがあれば怒っている自分を認めてあげればいい。
そうした感情は自分の一部なのだから嫌う必要はなかった。
自分で自分を嫌ってしまったら、生きて行くのがつらくなるだろう。
こんな感情も持っている自分だけど、自分だけは決して見放したりしない。
ナルシストじゃないけれど、たまには「大好きだよ」と鏡の中の自分に言ってもよいのかもしれない。
義母の風邪の話から、後半きゅうに飛ばしてしまったような気がしてますが、心地よい疲れがあります。
自分をいたわって、これからコーヒータイムにするとします。
熱は無いのだが咳が出て、特に夜は咳の為に眠れないのだという。
お姑さんは89歳と高齢なので肺炎を起こしたら大変だ。
病院へ連れて行こうとしたが、お姑さんは「大丈夫だから」と言って病院へ行こうとしない。
咳が始まった週はちょうど二か月に一度の内科の診察があり、お姑さんは近々病院へ行くことになっていた。
病院へ行く日まで数日あったが、夫も「それまで大丈夫だろう」と言うので、デイサービスは休んでもらって家で様子を見ることにした。
日中も咳込んで苦しそうなので市販の咳止め薬を買ってきて飲ませたところ、効果てきめんで飲んでしばらくすると咳がおさまった。
そして「咳が止まった」と喜ぶお姑さんに何度もお礼を言われた。
それからは時間を見ては咳止めの薬を飲ませていたのだが、私の顔を見るたびにお姑さんはニコニコした顔で「ありがとう、ありがとう」と言う。
別に大したことをしているわけではないのだが、そのように感謝されると私も嬉しくなってきて、少しでも早く風邪が治るようにと思いながら、お姑さんの体調をこまめに観察して過ごした。
幸い大したこともなく、すっかり元気になったお姑さんは、またいつものようにデイサービスに行っている。
少し前にお姑さんの薬が足りなくなるということが続いて、それを私が盗んだかのように思って怒っていたお姑さんだったが、今度は薬を私があげたことをとても喜んで感謝しているお姑さんがいる。
同じ「薬」のことで、短い期間にまったく逆の現象が起こって、お姑さんの感情も私の感情も「怒り」から「喜び」へと変わっていったのが不思議でもあり面白いことだと思った。
ところで「感情」というのは動物にもあるものだが、こんなにも繊細で複雑で、また自分自身で持て余すほど大きくなったりするのは人間くらいなんじゃないかと思う。
怒りや悲しみの感情はできれば経験したくないと思うのは誰でも同じだと思うが、もしかしたらこうした感情(喜びや幸福感も含めて)を味わう為に、人は何度も生まれてくるのかもしれない。
どんな時に自分はこうした感情になるのか。
その時に自分はどんな行動をとるのか。
例えばそれが「怒り」だった場合、攻撃的になるのか、落ち込んで引きこもるのかとか。
なぜ今、こういう感情が自分に起こっているのか、その感情によって反応した行動が自分やその周囲にどんな影響を及ぼしているのか、最近よくそのようなことを考える。
私がお姑さんに薬どろぼうじゃないかと疑われた時に、怒りにまかせてブチ切れていたら、今頃どうなっていたのだろう。
最大級の被害者意識を持って、泣きながら夫に訴えていたらどうなっていたのだろう。
どちらの行動をしても、きっと今よりずっと悪いことが起こっていたような気がする。
あの時、その出来事をブログに書いたおかげで、いつのまにかそれが「面白いこと」に置き換わって、自分の感情が怒りのままで終わらなかったから、今このような状況が現れているのではないのだろうか。→ 「カタツムリの殻」
そうだ!
先ほど書いた「もしかしたらこうした感情を味わう為に何度も生まれてくるのかもしれない」に続きがあった。
それは自分の感情から生み出されたものは、どのような未来でも作っていくことができ、どのような想念や状況をも引き寄せることができるということだ。
そして一番重要なことは、それは自分自身で選ぶことができるということだった。
そのことをはっきりと知るために、そして自分の感情を使って喜びのあふれた未来と状況を引き寄せることを知るために何度も何度も生まれ変わってくるのだろう。
そしてもうひとつ重要なことは、怒りや悲しみを決して抑え込んだり、気づかないふりをしてはいけないということ。
それは自分自身を偽ることだから。
悲しければ涙が枯れるまで悲しみ、怒りがあれば怒っている自分を認めてあげればいい。
そうした感情は自分の一部なのだから嫌う必要はなかった。
自分で自分を嫌ってしまったら、生きて行くのがつらくなるだろう。
こんな感情も持っている自分だけど、自分だけは決して見放したりしない。
ナルシストじゃないけれど、たまには「大好きだよ」と鏡の中の自分に言ってもよいのかもしれない。
義母の風邪の話から、後半きゅうに飛ばしてしまったような気がしてますが、心地よい疲れがあります。
自分をいたわって、これからコーヒータイムにするとします。