忙しくてしばらく植物たちに心を配っていなかったせいか、サボテンを枯らしてしまった。
サボテンは水をしばらくあげなくても大丈夫というのが頭にあったので、「水をあげなくてもまだ大丈夫、まだ大丈夫」と思っていたのが間違いだった。
植物も子どもと同じでちゃんと見てあげないとだめですね。
サボテンちゃんにはかわいそうなことをしたが、サボテンを捨てるのと一緒にセントポーリアも捨てることにした。
これは葉から増やした苗だったが、どうもうまく根付かず外側の葉が枯れ始めていたので、これ以上は無理かもしれないと、思い切って二つの苗を処分した。
サボテンとセントポーリア合計3鉢を処分しても、まだまだ植物がたくさんの我が家。
苗を新たに買ってくることはしていないのだが、減らないどころか増える一方で、なぜなんだろうとよく考えたら、自分でせっせと挿し木をしたり株分けをして増やしていました・・・
もうやめよう、物も植物もこれ以上増やすのはやめようと固く心に誓う。
ところで次女ピーチのアパートで過ごしていた時、食器もお鍋も家庭用品も必要最低限のものしか無いのだが、ピーチのリクエストに応えて食事の時には何品かを食卓にのせていた。
ピーチの台所にあるのは、小さなお鍋がひとつとフライパンがひとつだけ。
ひとつしかないお鍋は洗ってから次の料理を作り、自宅ではお鍋で作る料理も水分を少なくしてフライパンで作った。
調理の同時進行ができないのが難点だったが、それほど大幅に時間がかかるわけでもなかった。
また調味料も自宅ほど揃っていないので、レシピとは違うがあるもので味つけてみたりして、それが意外と美味しかったりした。
ほかにも掃除用のバケツが無いのでごみ箱をバケツ代わりにしたりと、とにかく物が無ければ無いなりに、なんとかしようと考えることがだんだん楽しくなっていった。
お店へ行けばなんでも手に入る。
だから調味料が無ければすぐに買ってくる。
それも数回しか使わないようなスパイスなんぞも買って来たりしたが、最後まで使い切れた試しはない。
「ちょっと賞味期限が過ぎたけれど、まだそんなに使ってないし冷蔵庫に入れてあったから大丈夫かな」なんて、使い切れなかったという罪悪感もあって、また冷蔵庫にそっと戻したりする。
しかし、絶対に使い切ることはないのは分かっている。
もっともっと賞味期限が過ぎて、すっかりあきらめが付いて捨てられるまで一時的に冷蔵庫で保管しておくだけ。
これは調味料に限らず、洋服やインテリア雑貨(昔、雑貨が好きだった)なんかもそうで、買ったのは良いがあまり気に入らず、捨てるのは惜しいというのでそのまま保管しておいたりした。
だけど、それらを目にするたびに罪悪感でいやな気持になったし、なにより保管場所も必要になった。
だいたい物が多いとサボテンを枯らしてしまったように管理ができなくなってくる。
そして、必要なものが見つからないということがしょっちゅう起きてくる。
ところで父のいなくなった実家へたまに掃除に行くと、亡き母がせっせとため込んだお宝?がたくさん家の中に詰め込まれている。
頂き物で、かつては真っ白だったはずの高価なシーツやタオルは、長い間押し入れの中に放置されて黄色いシミがついてしまっている。
リビングの戸棚には旅行で買ってきた人形や食器類がぎっしりで、どれも母が好きで集めたものだが、私や妹とは趣味が違うのでもらいたいと思うものはない。
母は亡くなるまでの時間があまりにも短くて、自分自身の身辺整理ができなかったのだが、身辺整理をする時間があったとしてもこれだけたくさんの荷物を片付けるのは大変だっただろうと思う。
母はたくさんのお気に入りを持っていたが、どれもあの世には持って行くことはできなかった。
人は生まれてくる時は何も持たず裸で生まれてくるが、亡くなる時も何も持たずに死んでいかなければならない。
このことは頭では理解していたことだが、最近とくに強く思う。
子どもの立場で親の家を片付けるという大変さを経験したから、自分は子供たちに同じような大変さを味わわせたくないと思うようになった。
だから、今のうちから自分で自分の荷物を減らしていこうと思う。
自分で物が管理できるぶんだけ、本当に必要なものはそれほど多くはないのかもしれない。
サボテンは水をしばらくあげなくても大丈夫というのが頭にあったので、「水をあげなくてもまだ大丈夫、まだ大丈夫」と思っていたのが間違いだった。
植物も子どもと同じでちゃんと見てあげないとだめですね。
サボテンちゃんにはかわいそうなことをしたが、サボテンを捨てるのと一緒にセントポーリアも捨てることにした。
これは葉から増やした苗だったが、どうもうまく根付かず外側の葉が枯れ始めていたので、これ以上は無理かもしれないと、思い切って二つの苗を処分した。
サボテンとセントポーリア合計3鉢を処分しても、まだまだ植物がたくさんの我が家。
苗を新たに買ってくることはしていないのだが、減らないどころか増える一方で、なぜなんだろうとよく考えたら、自分でせっせと挿し木をしたり株分けをして増やしていました・・・
もうやめよう、物も植物もこれ以上増やすのはやめようと固く心に誓う。
ところで次女ピーチのアパートで過ごしていた時、食器もお鍋も家庭用品も必要最低限のものしか無いのだが、ピーチのリクエストに応えて食事の時には何品かを食卓にのせていた。
ピーチの台所にあるのは、小さなお鍋がひとつとフライパンがひとつだけ。
ひとつしかないお鍋は洗ってから次の料理を作り、自宅ではお鍋で作る料理も水分を少なくしてフライパンで作った。
調理の同時進行ができないのが難点だったが、それほど大幅に時間がかかるわけでもなかった。
また調味料も自宅ほど揃っていないので、レシピとは違うがあるもので味つけてみたりして、それが意外と美味しかったりした。
ほかにも掃除用のバケツが無いのでごみ箱をバケツ代わりにしたりと、とにかく物が無ければ無いなりに、なんとかしようと考えることがだんだん楽しくなっていった。
お店へ行けばなんでも手に入る。
だから調味料が無ければすぐに買ってくる。
それも数回しか使わないようなスパイスなんぞも買って来たりしたが、最後まで使い切れた試しはない。
「ちょっと賞味期限が過ぎたけれど、まだそんなに使ってないし冷蔵庫に入れてあったから大丈夫かな」なんて、使い切れなかったという罪悪感もあって、また冷蔵庫にそっと戻したりする。
しかし、絶対に使い切ることはないのは分かっている。
もっともっと賞味期限が過ぎて、すっかりあきらめが付いて捨てられるまで一時的に冷蔵庫で保管しておくだけ。
これは調味料に限らず、洋服やインテリア雑貨(昔、雑貨が好きだった)なんかもそうで、買ったのは良いがあまり気に入らず、捨てるのは惜しいというのでそのまま保管しておいたりした。
だけど、それらを目にするたびに罪悪感でいやな気持になったし、なにより保管場所も必要になった。
だいたい物が多いとサボテンを枯らしてしまったように管理ができなくなってくる。
そして、必要なものが見つからないということがしょっちゅう起きてくる。
ところで父のいなくなった実家へたまに掃除に行くと、亡き母がせっせとため込んだお宝?がたくさん家の中に詰め込まれている。
頂き物で、かつては真っ白だったはずの高価なシーツやタオルは、長い間押し入れの中に放置されて黄色いシミがついてしまっている。
リビングの戸棚には旅行で買ってきた人形や食器類がぎっしりで、どれも母が好きで集めたものだが、私や妹とは趣味が違うのでもらいたいと思うものはない。
母は亡くなるまでの時間があまりにも短くて、自分自身の身辺整理ができなかったのだが、身辺整理をする時間があったとしてもこれだけたくさんの荷物を片付けるのは大変だっただろうと思う。
母はたくさんのお気に入りを持っていたが、どれもあの世には持って行くことはできなかった。
人は生まれてくる時は何も持たず裸で生まれてくるが、亡くなる時も何も持たずに死んでいかなければならない。
このことは頭では理解していたことだが、最近とくに強く思う。
子どもの立場で親の家を片付けるという大変さを経験したから、自分は子供たちに同じような大変さを味わわせたくないと思うようになった。
だから、今のうちから自分で自分の荷物を減らしていこうと思う。
自分で物が管理できるぶんだけ、本当に必要なものはそれほど多くはないのかもしれない。