昨日の強風は収まって、よく晴れて乾燥した寒い週明け。
♪さっちゃんはね、バナナが大好き本当だよ
だけどちっちゃいから、バナナを半分しか食べられないの
かわいそうね・・・さっちゃん。
お昼に、玄米フレークに豆乳をかけて、バナナ半分とミックスナッツを一緒に食した折に、ふとこの『サっちゃん』という童謡を思い出した。
私は、もう大人だから、1本丸々食べられるけれど、半分くらいがちょうどいい。
私が小学生だった昭和後期には、給食で、バナナを供されたとき、やはり、半分にカットされていた(ような気がする。1本丸々ではなかった記憶があるけれど・・・)。
小学校の給食のときは、5~6人くらいで、隣と前後の机を並べて、グループを作って食べていたけれど、日替わりで、担任教師が、このグループ内で、一緒に食事をするのがルールだったような気がする。
以前、このブログにも書いたけれど、小学校の給食は、地獄であった時期もあって、完食できない生徒は、5時間目、6時間目迄も、教壇に座らせて全部食べる迄、席に戻ることを許されなかったことがあった。
そのときの女性教師は、2年間で解放されて、男性の担任となったけれど、この男性教師は、完食を強いなかった。
バナナの正式な食べ方と称して、バナナの皮を全部剥ぐのではなくて、皿にのせたバナナの上の部分の皮を剥ぎ、ナイフで果肉を切って、フォークで食べるということを教えてもらった(もっとも・・・この年齢になっても、そのバナナの正式な食し方?を披露するシチュエーションには恵まれず、役に立つことはなかったけれど)。
昭和後期には、バナナは高級品ではなくなり、普通にスーパーで売られるようになったけれど、獅子文六の随筆などでは、娘と銀座のパーラーで、バナナを注文して、出てきたバナナが、変色していて・・・なんて文章が出てくるのは、太平洋戦争直後の日本がまだ貧しかった時代の話だし、色の黒くなったバナナしかなかった当時は、南方から輸送するのにコストも時間も掛かったためだろう。
亡母は、この獅子文六の小説が好きで、特に、『悦ちゃん』が好きであった。
引っ越しの際に、私の姉に捨てられてしまった『悦ちゃん』を読みたいなあと晩年によく言っていたので、南米の密林(アマゾン)の中古本のサイトで、見付だし、注文してあげた。
よほど、懐かしかったのだろう。
生さぬ仲の娘(姉)に、捨てられた本への愛着、義理の娘になんの愛情を感じられなかった母は、いつまでも、恨みに近い感情があったに違いない。
その後、やはり南米の密林で、中古本の『胡椒息子』だの『大番』だの・・・買い求めては読んでいた。
老眼でも、亡くなる直前迄、新聞を読み、本を読み、裁縫をして、クロスワードやナンクロを日課のように解く母であった。
脊柱管狭窄症で、家の中では、なんとか自立歩行ができたが、外へは全く出なくなる前に、母は、徒歩15分くらい離れたドラッグストアやコンビニに日参(散歩)していた。
その時々の彼女の買い物に、『バナナ』があった。
母もバナナを半分しか食べられなくなっていたけれど、朝は、自分でお湯を沸かし、インスタントのポタージュスープを作り、パンとバナナで、朝食を取っていた。
今にして思えば・・・母の納棺のときに、獅子文六の小説を入れてあげればよかったな・・・と思っている。
あのときは、バタバタしていて、思いつきもしなかった。
もっと早く思いつけばよかったのに・・・と、ちょっと悔やんだ。