秋葉原の事件は大きな波紋を呼んだ。一過性の事件なのか、時代が生んだ事件なのか、その原因を探ろうとマスコミは躍起になっている。どうしてあのような残虐な事件を起こしてしまったのか、本当のところはわからないが、事件の犯人の気持ちを推測することはできる。
彼は死にたかったのだから、あれだけ鋭いナイフを手に入れていたのだったら、自分で自分を刺し殺すこともできたはずだ。ナイフを使うのが怖いというなら、電車への飛込みだって、ビルの屋上からの飛込みだって、いくらでも方法はあったはずだ。しかし、いずれも「怖くて」実行できなかった。それだけでは、この事件はやはり解決できない。
彼は死にたかったけれど、自分をそこまで追い込んだ社会へ復習もしたかった。どうせ死ぬのだから、これまで全く無視されてきた自分の存在を知らしめてから死ぬという価値を見出したのだと思う。誰でもよかったと言うように、人の死、つまり人の生きている意味など全く彼は考えていない。死ぬ自分しかない。彼自身が言うように、人を一度も愛したことがない悲劇だと思う。
人をたくさん殺せば確実に死刑になれる。できるだけ多くの人を殺せば、マスコミは確実に取り上げる。小中学校時代は成績優秀で、両親も誇りに思い、ちやほやされたに違いない。それが進学で有名な高校へ入学したことで、そのこと事態は親の期待に報いたことであったはずなのに、現実の厳しさに打ちのめされ、自分で自分を「負け犬」にしてしまった。
そういう人はいくらでもいるはずだ。彼のように、だからといって人殺しをしようと考え付く人は余りいない。余りいないというのも、ネットの社会では、犯人の彼を「よくやった」と英雄に祭り上げる人たちがいると週刊誌が報じていたから同類はいる。なるほど、自分では人殺しなどできないが、やってしまいたいという彼の気持ちと共通するものがある人たちだ。
確かに自分は負け犬で、どうしようもないくらいつらいし、これから先だってどうやって生きていったらよいのかもわからない。人はどんなふうに生きているのか、もっと他の人の生き方に関心を持ってみることだと思う。みんながみんな、幸せに満足した生活を送っているわけではないことを知るなら、人の幸せも人の苦しみも五十歩百歩、たいして差がないことを知るだろう。
世の中、そんなに面白いわけはない。けれど、面白いか面白くないか、幸せか不幸せかも生きてみなければ結論なんか出せない。愛する人ができても、一生涯愛し続けることができるか、それもわからない。わかっているのは、死ぬときになってしか、出せない結論ばかりだということではないだろうか。生きてみる、それから考えてみようと私は言いたい。
彼は死にたかったのだから、あれだけ鋭いナイフを手に入れていたのだったら、自分で自分を刺し殺すこともできたはずだ。ナイフを使うのが怖いというなら、電車への飛込みだって、ビルの屋上からの飛込みだって、いくらでも方法はあったはずだ。しかし、いずれも「怖くて」実行できなかった。それだけでは、この事件はやはり解決できない。
彼は死にたかったけれど、自分をそこまで追い込んだ社会へ復習もしたかった。どうせ死ぬのだから、これまで全く無視されてきた自分の存在を知らしめてから死ぬという価値を見出したのだと思う。誰でもよかったと言うように、人の死、つまり人の生きている意味など全く彼は考えていない。死ぬ自分しかない。彼自身が言うように、人を一度も愛したことがない悲劇だと思う。
人をたくさん殺せば確実に死刑になれる。できるだけ多くの人を殺せば、マスコミは確実に取り上げる。小中学校時代は成績優秀で、両親も誇りに思い、ちやほやされたに違いない。それが進学で有名な高校へ入学したことで、そのこと事態は親の期待に報いたことであったはずなのに、現実の厳しさに打ちのめされ、自分で自分を「負け犬」にしてしまった。
そういう人はいくらでもいるはずだ。彼のように、だからといって人殺しをしようと考え付く人は余りいない。余りいないというのも、ネットの社会では、犯人の彼を「よくやった」と英雄に祭り上げる人たちがいると週刊誌が報じていたから同類はいる。なるほど、自分では人殺しなどできないが、やってしまいたいという彼の気持ちと共通するものがある人たちだ。
確かに自分は負け犬で、どうしようもないくらいつらいし、これから先だってどうやって生きていったらよいのかもわからない。人はどんなふうに生きているのか、もっと他の人の生き方に関心を持ってみることだと思う。みんながみんな、幸せに満足した生活を送っているわけではないことを知るなら、人の幸せも人の苦しみも五十歩百歩、たいして差がないことを知るだろう。
世の中、そんなに面白いわけはない。けれど、面白いか面白くないか、幸せか不幸せかも生きてみなければ結論なんか出せない。愛する人ができても、一生涯愛し続けることができるか、それもわからない。わかっているのは、死ぬときになってしか、出せない結論ばかりだということではないだろうか。生きてみる、それから考えてみようと私は言いたい。
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