友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

アジサイ

2008年06月24日 22時55分21秒 | Weblog
 アジサイの花言葉は移り気である。子どもの頃の我が家の一角にもアジサイが咲いていた。今の我が家はマンション暮らしだが、アジサイは5株鉢植えで持っている。いずれも赤からピンクまでが交じり合っていて、私にしてみれば、これはアジサイではないような気がしてならない。

 アジサイはもともと日本が原産で、間違っているかもしれないが、シーボルトがヨーロッパにアジサイを持ち帰って、西洋アジサイが生まれたように記憶している。私が好きなアジサイは我が家で咲いていた青い色のガクアジサイだ。アジサイと言えば、雨の中で咲く青い色のガクアジサイしか記憶になかったのに、最近ではものすごく多い種類のアジサイをよく見る。

 日本の土壌は酸性だから、青い色のアジサイが日本人が愛してきたアジサイである。ところがヨーロッパは土壌がアルカリ性だから、青いアジサイも自然に赤っぽくなってしまった。もともとハッキリとした華やかさを好んだ西洋人は、しっとりと可憐に咲くアジサイを優雅でより大きく華やかなアジサイに変えてしまった。赤やピンクの西洋アジサイといわれる大柄なアジサイがいろんなところで見られるようになったのはこのためだろう。

 私は西洋にあこがれていたのに、感覚は日本人の域を出ないようで、雨の中でひっそりと咲く青いアジサイが好きだ。冒頭で、アジサイの花言葉は移り気と書いたが、これはアジサイがその土壌によって花の色を変えることから来るのだろうが、私はむしろアジサイをいとおしく思う。花嫁が白い衣服を身に着けるように、どうぞあなたの色で私を染めてくださいと言っているのではないか、そんな気がするのだ。

 愛する人の色に染まるというと、なんとまあ主体性のない人かと思うかもしれないが、私はむしろ積極的な「愛」のように思う。それはキリストが「右の頬を打たれたなら、左の頬を出しなさい」と言ったことに共通している。アジアの思想は自然に己を任せ、無となって生きなさいという。移り変わる自然との対話の中で悟った思想だと私は解釈している。しかし、キリストはより積極的に生きることを主張する。

 人は求めることをやめない。人はそういう存在なのだ。しかし、神は与える。求めるものには与えなさい。神がしたように、いやそれ以上に、与えることが神の意思を行なうことだとキリストは説いていると私は思っている。

 家に帰ると、我が家のアジサイが首を垂れている。ランタナも元気がない。一昨日まで、かなり強い雨降りだったので、水遣りは必要ないと思っていたが、今日一日良い日が続いただけで、もう水不足になっているのだ。水不足は愛情不足。できるだけたっぷりと水を注いだが、明日は元気になっているだろうか。
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