友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

生徒会選挙のポスター作り

2009年03月11日 21時45分34秒 | Weblog
 孫娘がまた生徒会役員に立候補するという。今度は副会長だそうだが、「定員2人に対して男の子が1人と女の子が2人なので、厳しい選挙だ」という。「えつ、どうして?」と聞いてみると、会長に立候補しているのは女の子1人だから、副会長には男の子が入るだろうから、そうなると女の子同士で争うことになるという分析である。

 私の選挙の時よりもしっかり情勢分析をしているような気がする。祖父としては当然孫娘を応援したくなる。「それで、立会演説の原稿はできたの?」と聞くと、「ウン、担任に見せて、それから生徒会顧問にも見せなきゃいかんから、ホントにめんどくさい」とぶつぶつ言いながらも見せてくれた。

 どうして立候補するのか、生徒会で何をやるのかが抽象的ながら述べてあり、楽しくできるか?という質問に、yes,we can!とオバマ大統領のキャッチコピーを入れている。へぇー、なかなかやるじゃん。「うまくできてるんじゃないの」とほめる。そして「最後のyes,we can!の前に、みんなで力をあわせれば必ずできると入れたらどうかな」とアドバイスをする。

 私も中学で生徒議会の議長、高校で生徒会の会長をやったけれど、どういう気持ちからだったのかと考えてみた。中学の時はなんとなくだったように思うが、高校の時は学校を変えたいという気持ちが強かった。中学の時、市内の中学校と高校の生徒会役員が全員揃った会議があった。その席で、私が進むことになる高校の生徒会の人から、「生徒の自主性と言いながら、結局は先生たちの手のひらの中の、先生たちに都合のよい生徒会じゃーないですか」といった発言があった。

 高校生はすごい、まるで大人だと感心した。自分が高校で生徒会をやるんなら、生徒が主体となる生徒会にしよう、そう思っていた。新聞部でまず高校は予備校なのかという疑問を投げかけた。すると校長室に呼び出され、注意を受けた。それなら自分たちで新聞を作ろうと企画して、学校の中で配るのはまずいだろうからと、登校してくる時に配る手筈までした。生徒会の実態は、中学の時に先輩が批判していたままで何一つ変わっていなかったし、生徒会長に当選はしてもそれを変えることはできなかった。

 昨夜遅く、孫娘が「(選挙)ポスターはこういうふうでいいかな?」と持ってきた。このままではもうすぐ日付が変わってしまう。手伝うより他ない。オバマ大統領の写真を貼り、真ん中にyes,we can!を入れるというアイディアはいい。早速インターネットで取り出し、何枚かの写真を組み合わせた。なかなかの出来だけれど、担任は「あなたの写真か似顔絵を入れなさい」と指導されたと言う。

 それはもっといいアイディアである。すぐに友だちに頼んで似顔絵を描いてもらって貼ったという。演説の文章も何をやるか具体的にした方がいいと言われたそうだ。いい担任ではないかと感心した。金曜日が立会演説会だそうだが、果たしてどんな結果になるのだろう。
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気候がおかしい

2009年03月10日 19時32分05秒 | Weblog
 風は強かったけれど、日差しはすっかり春になっていて、車の中にいると暑いくらいだった。どうやら今年は春の訪れが早そうだ。北海道では流氷が来ないのでタラが獲れないとか、その代わりなのかニシンが大漁とかいう。そうかと思えば、越前クラゲがやって来ないので漁師は安堵しているが、捕獲した越前クラゲの料理を売りにしている店は困っているとか。人から聞いた話ばかりだが、気候変動は確かに起こっているようだ。

 小学校で卒業生と思われる子どもたちが学校の周りの雑草をとってきれいにしていた。そうか、もうすぐ卒業式か。このまま暖冬が続くと、卒業式に満開の桜を見ることになってしまうのだろうか。いや、それは大げさだとしても、入学式の頃に桜が見られないのは寂しい気がする。長い間の生活習慣で、入学式の頃には桜が満開となり、新しい生活が始まることを感じたものだ。日本の4月入学制度は風土に合っていて、気持ちが希望に燃えてくるよい時期だと思う。

 日本が水の豊かな国だったからなのか定かではないが、日本人は嫌なことや苦しいことは「水に流す」ことで、けじめとしてきた。反省のない人たちといわれる所以である。戦国時代の話を読んでも映画で見るような凄まじい殺し合いは少なかったようだ。大将同士かあるいはそれに準じる人物が一騎打ちで決着をつける戦い方が武士の戦争であった。それが変わったのは、戦いに鉄砲が用いられてからだとあった。

 相手方の大将の血を受け継ぐものを皆殺しにするのは残酷ではあるが、下級の者まで殺さないための方法でもあったという。血統が大事であったためだろうけれど、そういう血が流れていない者の意思しか通用しない時代であったのだ。血統などどうでもいいように思うのは、そういう血筋に無いからで、今日でも天皇は長男が跡継ぎと決まっていることからも、血の流れを大切に思っている人は結構多い。

 そういう「水に流す」ことができない部分を持ちながら、たいていのことは水に流してきた。いつも思うけれど、第2次世界大戦の戦争責任を誰がどのように取ったのだろう。今日では「欧米の植民地政策からアジアを開放した戦い」と言ったり、「アメリカが仕組んで戦争で、日本は巻き込まれた」とまでも堂々と言われている。わが国の借金が800兆円とも1千兆円とも言われているけれど、そうした借金を作ってしまった政治の責任は誰も取ろうとしない。

 麻生首相にしても、小沢民主党党首にしても、「何一つ間違ったことはしていない」と言い切っている。それでは間違いが明らかとなったならば、自ら責任を取るのだろうか。気候がおかしいけれど、政治もおかしいのではないか。気候までは力が及ばなくても、政治を正すことは人としてできるのではないだろうか。
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他人の不幸は密の味?

2009年03月09日 22時19分23秒 | Weblog
 この頃の科学の進歩は、何でも分析し解明してしまう。脳科学という分野があり、人間の脳のどこがどのように活動をしているかを調べていた。人間は不可解なもののままの方がロマンがあっていいように思うけれど、科学者という人たちはどうしても科学的に解明したいみたいだ。


 恋をしている時は、脳のどこそこの部分が働き、何々というホルモンが分泌される。何々が分泌されている時は何々で、その量が多ければ何々などという。こんな風に人間の神秘的な心模様まで科学的に判断されるのはイヤだなー。

 そんな折、またしても脳科学が「他人の不幸は科学的にも密の味だった」ことを突き止めたと報じていた。妬ましい人物が失敗したり危機に陥ったりしたことを知ると、報酬を受けた時の心地よさにかかわる脳の部位「線条体」が強く反応するそうだ。

 実験では、自分と同じく平凡な人生を歩んでいる人物には無反応だったのに、妬ましい人物が自分以上に幸せな暮らしぶりを見ると、身体の痛みにかかわる脳の部位が活発化があった。次に、その妬ましい人物が経営危機や自動車のトラブルなどの不幸に見舞われると、うれしい時にかかわる部位が強く反応した。妬みの感情が強いほど、不幸が訪れた時の反応が活発であったという。

 こうした脳の働きは他の動物にはない、人間の独自のものだろう。動物の世界では、ライバルが綺麗なメスを手に入れたからといって妬むことはない。メスを手に入れられるか否かで激しく争うことはあっても、手に入れなかった方が妬むという感情は持たない。動物の世界では選択権はメスが握っているけれど、強いオスを手に入れたからといって、他のメスが妬むという例はない。

 妬みという感情は悲しいとか嬉しいとかいった人間だけにある特別な感情のひとつだろう。旧約聖書には人間の祖先といわれるアダムとイヴの子ども、カインが弟アベルを妬んで殺してしまう話がある。人が人らしく生きてきたのは感情を持っていたからだと思うけれど、感情はプラスにもマイナスにも働く両刃の怖さを持っている。

 先日、書いたアエラ臨時増刊号『老いる準備』の中に、シンガーソングライターの小椋佳さんと作家の高橋のぶ子さんの対談が載っていた。小椋さんは私と同じ歳で高橋さんは2つ下、対談したのは今から9年前の55歳と53歳である。小椋さんが「男はなかなか地域社会に入ってゆけない。自分の中の調整ができない」と言うのに対し、高橋さんは「高齢化について論じているときに、性のことや恋愛のことが抜け落ちているんですよ」と指摘する。

 さらに高橋さんは「歳を取って自分を変えようがないというのもわかるけれど、それを唯一、変えることができるものが、異性への関心や恋愛ではないでしょうか」と言い、「老後の恋を仕入れるのは今しかないという時間もあると思う」と話していた。

 やはり、科学より文学の方が面白いね。
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運命を受け入れること

2009年03月08日 22時16分20秒 | Weblog
 現在の医学の進歩は目覚しいものがあるし、そのおかげでたくさんの命が助かっていることも承知している。にもかかわらず、私は医学の進歩を素直に喜べないへそ曲がりである。「お前だって、今日の医学のおかげをどんなに受けていることか」と言われるだろう。私が「臓器移植までして、本当に助けなくてはいけないのか?」と疑問を告げた時、「移植で助かるなら、助けるべきではないの。私の子どもが移植でしか助からないのであれば、きっとそうする」と言われたことがある。

 確かに自分の子どもがそのような場合であれば、親としては何をしてでも助けるべきなのかも知れない。けれども、自分自身のことであれば、間違いなく臓器移植は拒否したい。もっと言えば、たとえ家族であっても、臓器移植まではしたくないと思っている。思っているだけで、実際にそうした場面に立ち会うことになれば、宗旨替えをしてしまうかも知れない。冷たい人間だと言われても、臓器移植はしたくないのに。

 医学は人の命を助けることが目的である。けれども、人には運命があると私は思っている。運命というと宗教臭いけれど、生命の誕生があるように死という終末もある。生き永らえることだけが生きている意味ではないだろう。もちろん、最善を尽くすように人は運命付けられている。何もせずに傍観していることは許されない。人は生きている間は努力するように定められているのだ。神は、神を信じているわけではないが、別の言葉で表せば、運命は、その人がどのように生きるかは、逆にまたどのように死ぬかは決まっている。

 現在の医学に欠けているのは、死を受け入れることだと私は思っている。治療のどこで線を引くのか、もちろん私はわからないけれど、どこかで線を引くべきではないのか。ここまでは治療するけれど、これを越して治療はできないというものがあってもいいのではないか。

 ところがある時、不妊治療の病院で受精卵を取り違えて子宮に移した事件があったことから、「どうしてそこまでして子どもが欲しいんだろうね」と隣の女性に話したことがあった。するとその女性は「結婚すれば当然子どもができるとみんな思っているけれど、子どもができない苦しみとか悔しさとか、わからないのね」と言う。ビックリして「えっ?」と聞き返した。「私も10年子どもができなくて、不妊治療をしてきたの」と言われた。

 「本当にあなたは人の痛みがわからないわね。相手の立場に立ってものが言えないのだから」と、カミさんにケチョンケチョンに言われてしまった。私はわがままで自分勝手であるけれど、相手のことにはいつも気を遣ってきたつもりであったが、実際に直面して、自分の配慮のなさを思い知った。

 子どもが欲しいと思っている女性に面と向かって、「運命なのだからあきらめなさい」とは冷徹な私でも言えない。移植手術をすればわが子が助かると思っている人に、「臓器移植は反対だ」と面と向かっては言えない。けれども、私自身としては死を迎える運命があることを認めたいし受け入れたい。
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植木鉢の3分の2は割れた

2009年03月07日 15時13分07秒 | Weblog
 昨日は雨降りだったけれど、外壁塗装のための足場作りは行なわれた。若い現場監督は「多少の土ならばクレーンで運ばせます」と約束したとおり、現場のこれまた若い作業員に、「ここに出ている植木鉢は全て下に降ろして」と指示していた。相手の作業員は「これ全部ですか?」と聞き、「割れてもいいですかね」と聞きなおしていた。若い監督は「ああ」と小さくうなずいて見せた。

 足場の組み立てのための材料をクレーンで持ち上げ、我が家のルーフガーデンへ降ろす。帰りは空なのだから、植木鉢を載せて降ろしてくれてもよいのではと素人考えでお願いしたものだ。業者としては面倒なヤツだったかもしれない。けれども、もしこれがマンションではなく一般の家の工事ならば、業者は発注主の願いを聞くだろう。本当は出来ないことだけどやってあげるということではないと思う。

 それでも我が家としては大助かりだ。鉢の土はビニール袋に詰め、それも重たすぎないように分けておいた。空の鉢は束ねれば重いけれど、1個ずつ運べば私たちでもできないことはない。けれども植木が植わったままの6個の鉢は1人では運べない。一度にクレーンで運んでくれるのは誠にありがたい。

 どんな風に運ぶのかと思って作業を見ていた。この作業にかかわるのは先ほどの作業員1人しかいない。1人で運ぶのは無理だよと言ってあったが、結局は作業分担が決まっているから、誰も余分な仕事はしたくないようで、手伝う様子もない。作業員は余りの重さにヘトヘトになりながら、大きな風呂敷のようなシートの上に鉢をおいていく。軽い鉢の時はきちんと並べていたけれど、重すぎるものは放り投げるような具合だった。一度ではとてもすまないから、何度もクレーンは往復した。

 下で植木鉢を受け取るつもりだったけれど、雨降りでは仕方ない、お任せすることにした。逆にお任せして正解だったと後で思った。午後3時過ぎに雨がやんだ。降ろした土や鉢、そして植木が植わったままの鉢を片付けなくてはならない。降ろしてくれた現場を見て唖然とした。確かに上の作業員は「これからゴミを降ろすから」と、下にいるクレーン操作者と話していたが、下には作業員という人はいなかったのだろう。

 クレーンから下ろされた鉢や土や植木は、そのままゴロンと投げ出されて山積みとなったのだ。写真に撮っておこうと思ったが、その気力も失った。とにかくこの「ゴミの山」を早くきれいにする必要がある。「割れてもいいですかね」の言葉どおり、空にした鉢の3分の2は割れてしまった。植木が植わったままの6個の鉢は無事だったけれど、4個は植木が鉢から飛び出し枝も折れていた。割れてしまった鉢は細かく砕いて燃えないゴミ袋に入れ、指定の場所へ運ばなくてはならない。

 孫娘とその友だちにも手伝ってもらい、作業にかかる。せっかく分別したのだから土も運べばいいじゃないとカミさんが言うので、土と空になった鉢は長女の家へと運んだ。3時からでも雨が上がったから作業ができたけれど、雨が続いていたならずっーと放置されたままで、住民の皆さんからヒンシュクを買ったかもしれない。そんなことを考えると、天は助けてくださったのだ。

 けれども、今度は右手首ばかりか左手首まで痛くなってきた。
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一番ややこしいのは心のこと

2009年03月06日 19時31分50秒 | Weblog
 朝起きてみると、やっぱり右手首と腰がパンパンに張っている。右手が思うように動かなくなって、そうかやはり障害者だったと思い知った。

 32歳の時、事件に巻き込まれて頭と両手と左足に大怪我を負った。両手と左足は骨折で、再びもとの状態には戻らなかった。左足の膝は45度ほどしか曲がらないし、左手は手首が曲がらず握力も弱い。右手は手首はよかったが甲の骨折で指がいびつだ。握力は右手の方があるけれど、5本の指で正常につかんでいないから、力を入れて長い時間持ち続けることができない。

 事件の後は落ち込んだ。教師も辞め、主夫業で暮らそうと思った。しかし、主夫業は社会とのつながりがなく、したがって評価もない。自分でできることはないか、それでたまたま図書館で地域新聞を見て、これならば自分でも作れるのではないか、そう思って地域新聞づくりを始めた。

 始めてみると自分に障害があることなど忘れてしまった。気のいい人々にたくさん出会い、友だちの輪がどんどん膨らんだ。絵を描くには手が震えたのに、文字を書くことは以前と変わらないくらいにできた。確かに、走ることはできなかったし、正座することはできなかったけれど、地域新聞づくりには全く差し障りなかった。

 高校生の時は、新聞記者か映画監督になりたいと思っていた。地域新聞といえども全国紙に負けないものを作ろう。そう思って記事を書き、割付をした。5年間は1人で作ってきた。いいスタッフに恵まれ、生涯学習大学公開講座や小冊子の発行、弊社主催のバス旅行など、新聞以外の事業を行うこともできた。

 教員も地域新聞づくりもその後の地方議会議員も私には楽しかったし生き甲斐だった。自分に適した好きなことばかりを仕事にしてきた。だから障害のことはすっかり忘れていた。右手が使えないなら左手でと思ったが、左手はもっと使えなかった。足が曲がらないことは不便だと思ったけれど、手が使えないことはさらに不便なことがよくわかった。

 人間の身体はよくできている。どこが悪くてもうまく、というのは普通の人と同じように、生活は出来ない。外科的なことは見た目にもわかる。内科的なことでも気力そのものが失われてしまう。友だちがアキレス腱を切断してやっと回復したけれど、歩いていると他人が追い抜いていくと嘆いていた。大丈夫だ、私の経験からするとそのうち普通の人たちと変わらないように歩いている自分がいるはずだ。

 でも一番ややこしいのは、心の病だ。健康で身体の障害もなく何の不満もない生活ができているのに、心が何かを求めている。子どもであれば何々症候群とレッテルを張られそうだけれど、そんな風に診断しても、果たしてそれでいいのかなと思ってしまう。
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骨折り損のくたびれ儲け

2009年03月05日 21時26分52秒 | Weblog
 朝から動きっぱなしだったので、さすがに疲れた。右手は痛いし、腰も痛い。いよいよ工事が進行してきたから、そろそろ片付けを終わらなくてはと思って、鉢の土をビニール袋に入れ、空になった鉢を北側に寄せ、まだ樹木が植わったままの鉢もとりあえず北側に移動させておいた。昼から少しばかり休憩をしていると、ルーフガーデンの外側に作業員の姿が行き来する。

 もうここまで来たのか。さて、この植木鉢はどうすればよいのかな。事前の説明会では、作業員に直接質問しないでくれということだった。現場監督のいる事務所へ行ってこなくてはならないか、それにしても、工事の進行のことなのだから現場監督から指示があるだろうから、それまで待つ方が賢明か、若く威勢のよい作業員の働く姿を見ながら、そんなことを思っていた。

 すると見覚えのある若い監督が「植木鉢がたくさんおいたままになっている云々」とケイタイで話しているのが聞こえた。それで、ガラス戸を開けて声をかけてみた。「北側に寄せておけばよいと聞いたのですが?」と言えば、ここにあるものは全て片付けて欲しいと言う。「片付ける?どこへ?」と自問自答する。やはり、全てを捨てなくてはならないか。それにしてもどうやって、どこへ捨てたらよいのだろう。

 私の困惑を察して、その若い監督は「私も手伝いますから」と遠慮がちに、しかし何が何でも片付けてしまいたいという顔で言う。とりあえず、ルーフガーデンから物がなくなればいいわけか。私は花見で使うビニールシートを取り出して、まず南の部屋に敷く。ランタナを中心に小振りの鉢をその上に並べた。それでも足りない。北の部屋にもビニールシートを敷き、大き目の鉢を並べた。1人では動かせない、椿や金木犀などの植木鉢が6個残った。「明日、若い者に手伝わせます」と若い監督は疲れた様子でそう言う。

 防風用の網を外し、もう使えない鉢を割って燃えないゴミ袋に入れ、最後の作業に取り掛かる。孫娘をプールに送っていった長女に来てもらって、「あなたのところへ、植木鉢や土を持って行ってもよいか」と相談する。「もちろん、そのつもりだった」と言ってくれたので、明日にでも運ぶことにする。若い監督が「多少の土なら、クレーンで下に降ろせますよ」と助け舟を出してくれた。

 午前中の私の作業は全く無駄になった。そしてまた、明日は朝から肉体労働だ。黙々と身体を動かしていると余分なことを考えなくてすむ。けれどもやはり、若い時のようには動かない。花の季節なのに、今年は花を愛でることができない。もうルーフガーデンで花を楽しむことはやめにしようか。時々ボーと考えてしまう。
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小沢民主党への揺さぶり

2009年03月04日 21時44分41秒 | Weblog
 テレビを見て、“やっぱり”と思った。西松建設が裏金作りを行なっていたことは昨年の秋だったかに報道された。建設会社が裏金作りをするのは、賄賂以外にはありえない。会社が会社として使うのであれば堂々と経費として記載できる。それができない金を作るのは、その使い道が堂々としていないからだ。裏金は政治家へ働きかけるための資金だろうということは誰もが予測できる。

 政治家はみんな企業から裏金を受け取っている。そんな風に国民の多くは思っているだろう。ドラマ『水戸黄門』を見ている人なら、「そら、越後屋が悪代官に賄賂を渡して、便宜を図ってもらったじゃないか。江戸時代から日本人は袖の下を使ってきたんだ」などと言うだろう。賄賂はもっと古い時代からあったことが、中国の古書にも書かれている。

 企業が見返りを求めて献金することのないように、法律は禁止している。政党に属さない議員は個人からの献金しか受け取れないが、政党は政治資金管理団体が受け皿となって企業から献金が受けられるようになっている。政党は国民一人当たり300円を算出基準に、国会議員の数に応じて膨大な金額の政党助成金を受け取っている(共産党は受け取りを拒否している)。

 政党助成金の趣旨は、政治に汚れたお金を持ち込まないようにということにあった。それなのに、政治家のお金にまつわる腐敗が次々と出てくる。いったい政党助成金は何に使われているのかと不思議に思う。国会議員ならば何千万円の手取りがあるし、県会議員だって2千万円以上の手取りだろう。お金で票を買わなくても、選挙にお金がかかることは事実だ。真面目に有権者に伝えようとすれば、印刷代や郵便代やでお金はかかるが、自分が使える範囲でも充分に活動できるはずだ。

 でも、政治活動にお金がかかることは当たり前ではないのか。政治家はボランティアと思えば、お金に目がくらむことはないだろう。そんな割が合わない仕事なんかできないと思う人は政治家にならなければいい。実際に政治家になれば、財産がなくなるくらいでいいと思う。人のために働くという高貴な仕事なのだから、人々に心から尊敬され、それだけで充分ではないか。

 詳しくはわからないが、小沢一郎さんの政治資金管理団体「陸山会」の会計責任者が逮捕されたのは、収支報告書の虚偽記載ということのようだ。小沢さんは「法律に基づいて処理しており、一切やましいことはない」と強調しているが、果たして本当にそうなのかと思ってしまう。西松建設は政治団体を作り、その政治団体が「陸山会」へ献金するという巧妙な手段を用いている。にもかかわらず、会計責任者は請求書か領収書か知らないが、西松建設宛に出しているのはどうみてもおかしい。

 小沢一郎民主党への権力の揺さぶりだと言ってみたところで、小沢さん側に非があるならどうしようもない。政治の世界に身を置く者は清廉潔白でなくてはダメだということがよくわかっていいのではないか。
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ひな祭りは霙模様

2009年03月03日 21時16分38秒 | Weblog
 今日はひな祭りだ。春が到来したはずなのに、雪が舞っていた。今は雨となり、なんだか寒々としている。庭を1羽のセキレイが尾羽をリズムよく上下に動かして歩き回っている。見ていると、歩くというよりは泳いでいるような印象だ。この寒さの中で何を探しているのだろう。

 このマンションは大規模修繕に取り組んでいて、外壁塗装工事や屋上防水工事が行われるため、この春はチューリップを咲かせることができない。そればかりか、50個はある鉢を片付けなくてはならない。昨日までは、天候のよい日はルーフガーデンにでて、鉢の土を空け、根っこや虫のサナギや根を枯らすカビを取り除き、まだ使える土をビニール袋に詰め込む作業に追われた。

 それでも大きな鉢植えのものはどうしようもないから、作業の邪魔にならないため、すぐに移動できるようにしておく必要がある。かといって、1人で移動できるほど軽いものはないから、現場の監督さんと相談しなくてはならない。空になった鉢とその土と、樹木が植えられたままの鉢と3種類に分別しておけば作業もしやすいと思うが、どう言われるか心配でもある。

 最悪の事態は、全ての植木を放棄すればよいと思っている。1月から右手の親指の付け根が痛い。骨折やひび割れなら時間待ちだ。そう思っていたが、なかなか治らないので、万が一病気から来るものであったならという気もして、整形外科で診察してもらったところ、「別に異常はないね」ということであった。先生ははっきりと言われなかったけれど、同じ歳くらいだからなんとなく言外に、「年齢から来るものですよ」と感じられた。

 「手をよく使ったので、腱鞘炎を起こしている」と慰めてくれた。おかしい?手をよく使うことなどないし、最近では文字はもっぱらパソコンに頼っている。それでも手紙は万年筆で書くし、紙に直接書く時は万年筆が多い。その文字を書いていると、右手が痛んで書けなくなってきて、行く気のなかった病院へ出かける覚悟をした。以前ならどうってことがなかったのに、ちょっと使っただけで腱鞘炎になってしまうのもやはり歳なのだろう。

 手が痛いと、文字が書きにくいから困るけれど、鉢の土を取り出し袋に詰める作業をしていて、もっと困った。右手の親指に負担がかからないようにと思っても、それでは作業などできないのだ。先生に言わせれば、「何もせずにじっとしていれば2から3週間で治りますよ」ということであったけれど、手を使わないと動かなくなるのではと勝手に思い込んで、無理やり使ってきたことが、これだけ痛みを長引かせてしまったようだ。

 重い物は持てない。だからぼちぼちとやっているけれど、やはり全ての植木は放棄する方がよいのかもしれない。いずれ、手の痛みが消えても、私が動けなくなれば、植木の世話をすることは出来ないだろう。やれやれ、こんな風にして老いていくのか。
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言葉の向こうに

2009年03月02日 21時32分53秒 | Weblog
 言葉の向こうに本音がよく見える人と見えない人がいる。オバマ米大統領の演説は英語が苦手の私が聞いても快い。日曜日の中日新聞にコロンビア大学のジェラルド・カーティス教授が「オバマ氏への期待の危うさ」と題して寄稿していた。結論から言えば、「経済が好転しなければ、経済危機は政治危機を招く」というごく当たり前のことであった。「イラクでの膨大な支出は戦闘部隊の削減で少しは抑えられても、アフガンに部隊を増派し解決できなければ、国民の批判に直面するだろう。(略)オバマ大統領が(世界中の)多くの人々の期待に応えられないとなれば、米国だけでなく、全世界が大きな代価を払うことになる」。

 ブッシュ前大統領よりも少なくともマシな政策を行なってくれるのではないか、人々がオバマ大統領に期待しているものはそういうものではないだろうか。世界的な恐慌にすぐに効くような政策などはないだろう。1929年の世界恐慌からアメリカが脱出できたのは結果的には世界大戦のおかげだった。国が消滅するような世界大戦でも行なわない限り、この経済不況からすぐに脱出することは不可能ではないのだろうか。

 オバマ大統領の姿勢を、東京大学の上野千鶴子教授は「世界のリーダーを自任したオバマは平和主義者ではない」(2/22婦人公論)と警戒している。上野教授も文中でオバマ氏はリアリストだと指摘している。オバマ氏をよく知る人によれば、彼は理想主義者ではなく、現実の見極めがきわめて早い、バランス感覚に優れている、そうだ。理想に向かって突き進むというよりは、「よい」ところを摂取し、丸く収まるように仕上げていくタイプの政治家である、ようだ。彼を勝手に理想主義者のように思い込むことには危険があるということだろう。

 寡黙の人、小沢一郎さんの「第7艦隊だけで十分」との発言に、与党はここぞとばかりに噛み付いている。「防衛知識がない」(麻生首相)、「非現実的」(河村官房長官)、「防衛予算を3倍から5倍にするのか」(町村議員)などなど、民主党は防衛政策が欠落していると言いたげである。実際のところ、小沢さんの真意はわからないけれど、私は日本が世界に先駆けてやるべき平和政策は憲法に明記した「戦力の放棄」だと思っているので、与党の皆さんの政策でどうやって世界平和を実現するのですかと問い直したい。

 イスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞した村上春樹氏が、式典に参加して行なったスピーチが週刊朝日に掲載されていた。人は誰でも嘘をつくから始まり、文学の目的を「大きな壁とぶち当たる卵」にたとえて話していたが、言葉の力を100%信じている人だと思った。政治家にそれを求めるのは酷かも知れないが、本当は酷かもと思うことの方が恥ずかしい社会であって欲しい。もちろん私はいつも正直に書いているが、100%ではないことも‥。
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