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2023.01.17 今日は、阪神大震災から28年目の日。




今日は、阪神大震災から、28年目の日。


あの日、私は日本には居なかった。
旅行嫌いで、兄夫婦、妹夫婦が、山陰まで毎年蟹を食べに行く旅行に誘ってくれても、
行かないほどの、出不精の私だったが、阪神大震災の日は、日本におらず香港にいた。

私は、戦前の上海で、生まれたので、中国に返還される前の香港に上海の面影を探しに
行きたかった。

私の友人で、ヨーロッパはもちろん、アジア各地を年中旅行している人がいて、私は、
その人に頼んだ。「もし、次に香港に行くときは、必ず、私を連れて行ってね」と。
彼女が香港に行くのは、いつも1月のバーゲンの時だとかで、「もう、香港には10回
以上行った。もう行くことはないわ。」との返事だったが、私は、怯まずに、ここぞと
ばかり言った。「うん、わかった。わかった。それでも、もしも、もしもよ、次に行く
ことがあったら、私を連れて行ってね!」と、何度もひつこく頼んだ。
この言葉を、頭に刻んでおいて貰える様に。

この必死のアタックが、功を奏したとしか思えない出来ごとが起きた。
それから10年後、突然電話が架かって来た。
「あんた、まだ香港に行く気ある?」

私は、「きたー!」と思った。
「もちろんよ。行きたいよ。」
すると「今、行こうかと言う案が出てるんよ。それで、あんたに聞いてみようと思っ
て。」とのこと。

ここが正念場と思った私は、すぐ行動を起こした。
その時、近所の百貨店のサティーが、創立3周年で、全商品3割引をしていた。
その上、私は、11月が誕生月であるが、誕生月は1割の割引があるらしい。
つまり、その時買い物は4割引きになるのだった。

私はツイてる〜と思って、すぐさま、サティーに走って行って、旅行カバンのサムソ
ナイトを買って来た。
そして、彼女に電話して、「もう、サムソナイトを買って来たよ。」と言った。
彼女は絶句して、「え〜?まだ、こっちは決まってないんよ。友達が、シンガポール
旅行が当たったので、もう一人行けるからと誘われているので、迷ってるし。」といった。
知ってる。だから、私は焦って、既成事実を作りたかったのだ。
結局、私の勢いに押されて、彼女は、シンガポールを諦めて、香港旅行の方が本決まり
となった。

その後、彼女から「バーゲン旅行は、普通、「金、土、日」の3日で帰るものやけど、
今回は変な形になっているんよ。「金、土、日の後、月火まで、5日もあるんよ。」と
言って来た。「おかしな形になって、ごめんね。」と言った。
「いいよ。私は、その後1週間、休みとってあるから。」と言った。

そのおかしな、いつもと違う日程のおかげで命が助かった。
もしも、日曜の晩に帰っていたら、月曜の早朝、地震の直撃に遭っていた。

彼女は、7年前に亡くなったが、その前に、あることを話してくれた。
それは、「あなたのお母さんから、あなたをたのみますと、電話があったんよ。その
直後にお母さんが亡くなったと聞いて、「あ、そう言うことだったんだ。」と思った」
と言った。
そうか、それで、彼女が、地震の日に、私を海外へ連れ出してくれて、結果的に私を
助けてくれることになったんだ。母がそうしてくれたんだ。そう思った。

私が、日本に無事に帰って来たのを見て、兄は「旅行嫌いの水絵ちゃんが、揺れる前に、
荷物だけ持って、チャッチャッと日本を出て行って、揺れ終わってから、荷物を持って
チャッチャッと帰って来た。こんな不思議なことがあるんか、こんな不思議なことが
あるんか。」と、喜んで、狂気のように叫んでいたことを思い出す。

私が香港から買って来たものは、セーターとコーデュロイのジャンパーとスパッツと
リーボックの靴だった。全部、まさに復興グッズそのものだった。
これらがなかったら、瓦礫の中の神戸に通うことができなかった。
私は、神戸へ帰って、これらが必要になると、どうして知っていたのだろうか?
街で履くためにと長らく憧れていたリーボックの靴は、軽量で履きやすく、瓦礫もなん
のその、神戸で大活躍してくれた。

全壊した家の中で、我が家1軒だけは、屋根瓦も全部落ちて、大きな穴が空いている
にも関わらず、全ての柱が、全く歪みがないので、修理したら、屋根が載せられると
聞いた。
それで、父と母と住んだ家を修理して住みたいと思ったのが、苦労の始まりだった。
取り壊す場合は、公費だし、ブルドーザーで、一瞬で済むのだが、そうしなかった
ために、とてつもない苦労をした。
しかし、私の職場の仲間と、そこでお客様だった先の会社ぐるみのご協力のおかげで、
神戸の家を再建できて、1年半後に戻ることができた。
(以前、この時ことを「感謝の仲間」として、ブログに書いたことがある。8話だけ
UPしたが、本当は、26編まで書いたが、それでも、まだ完結してはいなかった。
結局これらを、UPすることはなかった。)

1年半後の5月4日、私はそれまで住んだ6畳の部屋から、引っ越し道具と共に、赤帽
さんの車の横に乗せてもらって、寝屋川から、神戸へ着いた。
自宅の前に、支援者の方々が並んで拍手をされて、その中を私が門扉を開けて、玄関を
開けて、家に入り、私の復興祝いが始まった。
お赤飯が、3ヶ所から届いた。

その時、忘れられない言葉を聞いた。
「大島さんを、神戸に戻すまで頑張ろう!が合言葉だったんだよ。」と。

私は、大きなショックを受けた。なんと有難い言葉!
でも、もう少し早く、それを聞きたかった。
毎夜、「明日は冷たくなっているのではないか?」という不安に襲われていた。
夜中に、激しい息づかいで目覚めて、「あ、今、しばらく息をしていなかったのでは
ないか?今回は、危うく息を吹き返したけれど、もう、次はダメかもしれない。」と
不安にかられる夜々だった。不整脈がひどかった。
(しかし、これを一切誰にも言わなかった。支援者にも言わなかった。)
もう少し早く、この言葉を聞いていたら、どんなにか、力になったことか?と思った。

そして、あまりの有り難さに、私は思った。
「これからは、私が、このお返し遠させて頂く。」と心に強く強く誓った。

その後、再建した神戸の家で、10年間で100組ほどの食事接待をした。
毎年正月には、お節招待を3組した。
神戸に10年住んだので、計百数十組の接待をした。

私は、職場の独身寮に避難させてもらっていたが、そこで読んだ業界紙で、マッキン
トッシュ礼賛の文章を読んで衝撃を受け、もし、生きて神戸に戻れたら、マッキン
トッシュを買うと決めていた。それを目標にして、復興を頑張ろうと思った。
神戸に戻ってから、念願どうり、マッキントッシュを買った私は、「え〜?こんな世界
があったのか」と衝撃を受けて、こうしてはいられないと思い、定年を目前にして、
職場を退職し、マッキントッシュの世界に飛び込んだ。

徹夜徹夜で明け方朝日が出るまで頑張ったので、足の筋肉を弱らせて、両手もストレス
からか激痛で、両手両足が激しい痛みだったので、買い物だけでもう痛みで動けな
かったが、それでも流しに寄りかかって料理を作って、接待した。
決めたことなので、やり抜くしかなかった。
その間、出費が酷く、貧乏で、スッカラカンになった。

40年も務めた職場では、転勤も多く、それぞれの支店のOB会幹事は、何故か、手足の
激痛の私が全てやった。候補地の下見にも出向いた。

その後、突然、神戸から出て行く話になり、急転直下、西宮での家賃生活が始まった。
年金からの家賃出費は大変で、貧乏な私は散々な苦労して、ネットショップを始めた。

当時ネットショップを依頼すると、300万が相場だったが、そのお金はないので、
自分でショップを構築した。
自分で作ると言うと、プロから、まさか、素人にできるはずはないと断言されたが、
自分でやるしかなかった。
そして、なんとか作り上げ、ショップは軌道に乗りかけて、少しは売れるようになって
いたのは昔のこと、その後、私の業種でのショップ運営は苦しくなった。
でも、へこたれる訳にはいかない。

震災の頃のことを少しだけと思って書き出したのに、案の定、長くなって、現状まで
書いてしまった。
本気で語るとすれば、この10倍の文章になるかもしれない。

震災後、あれほどひどかった私の脚の症状は、今では、回復したし、脳腫瘍も消失したし、
治らないと言われた脊柱管狭窄症も治ってしまった。
「あなたの足が直ったのは、近代医学では証明できない。神の領域だ」とまで、医者に
言われた、脳腫瘍についても、全く同じく、神の思し召しであると言われた。

阪神大震災から28年目。
震災で、命を失ってもおかしくなかった私、しかし、その命を助けて頂いただけだけで
なく、あのひどかった足も、脳腫瘍も、脊柱管狭窄症も治して頂いた。
深い深い感謝と共に、これからの日々を、前向きに生きていきたいと思っている。



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